「徳」の両義性

ico05-005与論は常に私刑である。私刑は常に娯楽である  芥川龍之介

芥川龍之介さんは「将来に対する ただ ぼんやりした不安」で自殺したといわれていますが、あまりに頭が良すぎて「大衆」というものの本質を深く直観してしまい、どうにも人間なるものと共に生きることがわたしには出来そうもない、ということを予感していたのかもしれませんね。

 

ではまず一曲♪ 寺尾紗穂さんの歌で「たよりないもののために」です。声とゆらぎがなんともいい感じですね♪ 出てくる風景に私が過去によく訪れていた公園が写っていました。この位置、この角度よく覚えています。「余白」を感じる詩の生命力がありますね。

 

 

様々な「分断」もいよいよ罵倒合戦で終わらずに、私刑合戦の殺し合いな感じになってきています。とにかく自分たちの属性、内集団と価値基準だけが絶対であるという信仰状態によって、宗教戦争のようになってきました。

日本人の同調圧力は「空気を読む」にも繋がっている。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」といいますが、「協調している=同調している」ではない。同調は相手に依存しているが、協調は主体性が自身にある。

言い方をかえれば、空気を読む人は「率先して同調しようとしている人」ともいえます。「和の精神」は古来は徳を表したものだったのですが、いつしか「ただの集団への同調」みたいな意味合いで使われるようになりました。

「徳」にも両義性がある。「徳」というものは「その時代その社会の統合にとって適応的な個人の在り方」とも結びついています。

アリストテレスは「人間はポリス的動物である」と語りましたが、「ポリス的動物」の意味は「社会的動物」とは異なります。社会心理学では「社会における個人」として人間の心理を探求し、進化心理学ではヒトという動物の一種としてその本質を探究しますが、

アリストテレスの語る「ポリス」というのは近代の概念でいう「社会」ではなく、ポリス的動物は進化心理学での「ヒトの社会性」とも異なる。 参考論文 ⇒ 進化心理学から見たヒトの社会性(共感)

だから「徳」というもうひとつの力学でみた人間と共同体の関係なしにはみえてこない。 ポリス:国家共同体 ⇒ 「人間はポリス的動物である」の意味は?

その意味では中国で重用された儒教も、西洋で組織宗教化したキリスト教も、「その時代の国家、共同体の統合」に合理的な「ポリス的動物」の徳を育てる教えとしてみれば、徳もまた相対的なものであり、時代や国が変われば良くも働けば悪くも働く両義性を持っています。

中国の仏教は道家(老荘思想)のフレームを使って再解釈された仏教であり、また親鸞の自然法爾は荘子の無為自然に通じるものがあります。荘子は二項対立の解消という視点だけでみればデリダ的ともいえるが、デリダは極めてロゴス的知性優位であったのに対し荘子は瞑想的。

デリダが論理的に二項対立の解体をしている状態なら、荘子は直感的な融合状態。おそらく全く正反対のタイプだったでしょう。

「現実面は儒教で支え、そこからはみ出てしまうものや不可視化されたものを老荘思想で支える」という質的に異なる思想的受け皿の多様性というとらえ方でみるならバランスのよい厚みのある宗教・思想的インフラだと思います。(しかしこのようなとらえ方ではとらえられない面もあり、それは後半で書いています。)

老荘思想での徳は、人徳・道徳的なものとは質が異なるんですね。儒教やキリスト教の方が国家、社会の統合には合理的で現実的ゆえに作用が広範囲に及んだわけです。またそれをもって儒教やキリスト教の方が優れているとする人も結構いるわけですが、それは一面だけをとらえた人間観、宗教観ともいえます。

人間の複雑性をみるならば、一つの思想や宗教で人間・世界を統合しようなどとする方が結果的には脆弱な宗教・思想的インフラになってしまうんですね。

儒教は宗教ではない」とよくいわれるが、国家権力による民の統合と「ポリス的動物」の善に合理的な思想だからこそ権力側からも積極的に支持され守られた。「共同体の統合にとって適応的な個人の在り方」を前提に「○○は善」と定義され、その定義が権威化されることでその集団の善の基準となる。

だからこのような思想を内面化する場合、それは悪く働けば有害にもなりえる。それが「徳」の両義性。

このブログで「動的な自己統合」という表現を使うのは、「徳」にしても「宗教」にしても絶対の基準として内面化してしまうと「硬直した自己統合状態」に向かいます。そして「徳」の両義性と同様に、これまで書いてきたキリスト教やカルト等の「信仰の両義性」がわからなくなるんですね。

非カルト宗教の人でも硬直した自己統合状態の程度によってはカルトによく似てきます。両義性・多義性をみている人は物事の受け止め方が固定化されておらず動的で揺らいでいる状態、それが寛容さとして現れるだけで、「寛容であろうとしている」わけではないんですね。

「寛容であろうとする人の寛容な態度」=寛容ではありません。

思想や宗教等による「硬直した自己統合状態」によって「こうあることが徳だ」と決めつけられていたものや「そう思わされていたもの」は、実は権力側の都合、権威側の都合、そして「特定属性のエゴ・自己中心性」にもなりえる。これが「教えの両義性」です。

 

「儒教の「親孝行」が崩壊しつつある韓国の高齢者の厳しい老後」 より引用抜粋

韓国の高齢者世代には、「親に孝行を尽くす」ことが最大の美徳とされる、儒教の影響が色濃く残っている。韓国の昔話には自分を犠牲にして親を救う話もあり、「親の老後の面倒は子が見ることが当然」「介護は長男の嫁が行うもの」「介護に施設やヘルパーなど他人の手を借りるべきではない」など、子供への期待と執着が大きい。

だが、高齢者世代の理想は今、大きく崩れ始めている。その背景にあるのは日本以上に加速度的に進行を続けている少子高齢化だ。特に、「家族」というものに対する執着が強い韓国の高齢者世代には、子供たちに何かをしてもらうことで幸福や優越感に浸る傾向がある。
(中略)
昨今は女性の妊娠、出産、育児になどに第三者が口出しするのはハラスメントにもなりやすくタブー視されるものだが、子供の性別について「娘、息子なら200点、娘2人なら100点、息子2人なら50点」など、ジェンダーの観点から炎上しかねない表現もある。

高齢者が「娘を……」と口を揃える背景には、「マメに連絡をして顔を見せてくれたり、病院や買い物の付き添いを率先してやってくれたりするのは娘だ」という事情があるようだ。

若い頃から呪縛のように、「男児は家の継続のために必要」「長男は特別」という価値観が染み付いた高齢者が、今になって「いざとなったら息子よりも娘が親のことを気にかけてくれる」としみじみと語るのは何とも皮肉な話である。

息子であろうと、娘であろうと、根底にあるのは、いまだに「子供は自分の老後のためのもの」という考えだろう。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒  儒教の「親孝行」が崩壊しつつある韓国の高齢者の厳しい老後

 

あるものが「声高に」そして「人間の普遍的な基準」であるかのように「徳」と言われ「善」とされるのは「それ自体が本当にそうだからそう」なのではなく、「そうする目的があって人為的に価値が高められている」という権威・権力的な力学が働いている。

また「硬直した自己統合状態」にある人々ほど「型」が重要になり、表に見える「型」の良し悪しで他者を価値判断するようになってしまう。言葉の使い方だとか表情の穏やかさだとか、物腰の柔らかさだとか、その洗練された丁寧な形=徳だと思い込んでしまう。

まぁ訓練されて身についた所作も徳のひとつの形ではあるのですが、この形だけを見ている人が騙されることがよくあるんですね。この種の徳は訓練すればだれでも身に着けられる技術の一種で、内実を伴わなくても纏うことが可能です。その意味では「知識」と似ていて、「教養」も徳に似た多元性がありますね。

ところが「知識」を得ても得られない知があり、「教養」を学んでも得られない教養があり、「徳」を学んでも得られない徳があるんですね。形として身に着けている人ほどそれそのものがないという逆説があるんです。

「洗練された丁寧な形」とか「何を知ってるか」とか「思想理論や理念のすばらしさ」とか、そういうもので価値判断する人の中には、特定の思想に同化したり、カルトや詐欺等に騙される、騙された人とかそういうひとが結構いるのを人生の中で見てきました。

この硬直した自己統合状態はポリコレやジェンダー界隈、フェミニズム等でも頻繁にみられるが、これもまた個人の問題というよりも人間はもともとそうなりやすい一面があるということ。そして「人文」も権力と結びついてそうやってきた、という共犯関係の歴史がある。

ジェンダー、フェミニズム等も原理的には父性・男性原理で動いているわけで、パターナリズムが背景にあるんですね。

そして今回はテーマではないので詳細には書きませんが、「徳」にも多元性があって、一般的な価値基準としての徳とは異なる徳性が存在するとうこと。それは宗教以前、思想以前、あるいは社会や国家以前に存在するものですが、権威性のあるものを価値基準にする人々には不可視化されやすい徳性です。

そして逆説的ですが、「それ以前の徳性」が弱められたことによって宗教、思想、社会による価値基準としての徳性が優位になるとも表現できます。徳性がほんとうに豊かな人ほど、「宗教、思想、社会による権威主義的な徳」の内面化を必要としない。

「それ以前の徳性が豊かな状態」は人間の「心」の内奥にもともとある一面ですが、それが弱められることで「性悪説」で捉えられる人間の一面が生じてきます。その結果「型」としての徳性が重要になってくるんですね。

人間は善悪において両義的な存在というのは、「それ以前の徳性」を失ったときにそうなる。よって性善説も性悪説も後天的なもので相対的な説に過ぎないともいえます。

「それ以前の徳性」は宗教では主に仏教的な瞑想の実践プロセスによる身体知で捉えられ、またキリスト教にも一部その徳性について比喩的に語られてはいますが、これはそもそも宗教とは無関係にある「それ自体で存在する徳性」です。

「意味」や「価値」としての宗教的理解や行為においては「型」の方が重視され、権威主義的なプロセスで価値化された徳は、それ自体で存在するものではなく構築されたものです。よって徳による権威カーストが形成されます。

何かの権威や有名でない人の中に徳それ自体が宿っていることがある。これが感じられる人はそれ自体に触れているため、何かの宗教の伝道者、信者等の言葉とか型として宗教的な権威主義的な徳の道を内面化する必要がなく、そこにそれ自体の生命力が宿っていないことを自然と見抜く。

 

研究者、教授、学者等の世界にもイジメの心理はある。そういう「誰でもあるもの」としての人間の特性を自覚できるかどうかが大事なんですね。

ところが一部のアカデミア人とか弱者支援の専門家が「逆にそれが出来ない」というケースがある。「私は批判し啓蒙する側」であり「正しい側、善い側」で「苛められる側の味方」という前提から常に語ろうとする。しかしその前提こそがバイアスになっている。

そういう人ほど自身のイジメの心理や加害性には気づけない。プライドも高いし自己防衛能力も高いので反射的に思考で自己正当化してしまう。なんだかんだいって「私はできている」と思いたいのである。

しかし出来ている出来ていないの話以前に、ホモサピエンスにはそういう原始的衝動がもともとあるんですよということ。

それは「形」だけみていてもわからない。「あいつは差別主義者だ!」、「あいつはミソジニーだ!」という形でイジメることも可能なのが人間であり、他者を裁いたり私刑にしたり攻撃するための大義名分があるときほど原始的衝動は解放されやすい。

だから「差別的言動」だけがイジメに使われるのではなく、差別という概念自体がイジメの武器にもなる。人間はそうやって合理化したり応用する能力を元々もっている。

社会的合意を得られる(得られそうな)手段で私怨による加害行為を正当な制裁のように見せることが出来る生き物なんですね。または加害者なのに被害者に擬態したり、自身にも非があるのに特定の概念や理屈の組み合わせで自己正当化することができる。

しかしそんな応用ができるは特定の人だけではない。だからそういう応用的なやり方で他者をいつも叩いていたり、何やっても自己正当化ばかりしていると、当然同じように他者からも応用されて叩かれるとか、あるいはそんな人に対しては他者も非を認めなくなる。

「やられたらやりかえす」これも人間の特性で男女とか関係ない話で、誰でも「目には目を」の応酬になりえるということ。

これは専門家等が感情的になったときも同様で、すぐに二項対立で物事を白黒二元論的に単純化し過剰に他者を断罪してしまう現象が生じてくる。むしろ専門家であることのの方が権威と能力によってそれを隠しやすいとすらいえる。

この特性は少数者、多数者、一般、専門等の問題なのではなく「人間」というものそれ自体の問題で、長い人間の歴史において散々繰り返されてきたことでもある。

もともとそういう生きものであるから意識する必要がある」のであって、サピエンスがボノボのような本質だとか、もともと優しく穏やかな種ならそんな必要はなく、

意識する必要が出てくるのは、サピエンスはもともと過剰で攻撃性の強い生きものだからです。だからむしろ「冷静さ」の方が少し多めくらいがちょうどいい。それでようやくバランスする生物。

昔から対立が激化すると同種ですぐに殺し合いを始めるような生物。原始時代以降も人間は「我等の正義」や「我等の正しさ」でどれだけ外集団を単純化して殺したり粛清したりしてきただろうか。

だからマイノリティだからマジョリティだかたとかそんなこと関係ないんですね。しかし以下のツィートのように、「わっかったうえでやってる」なら可愛い次元なんですね。

 

「社会」というひとつの実体は存在しない、ただそれぞれの現実認識と関係性の中で「何らかの社会的な作用を受ける」だけ。それがその人の心を形作ることで、その人自体が他者にとってひとつの社会的な作用にもなっている。

だからその作用や関係性に適応するのも反発するのも、共にその社会の運動性の内部を生きているのは変わらない。この相互作用で共同幻想が維持されている状態の中に「ひとつの社会」があるように感じられるだけ。「アウトサイダー」も共同幻想としてのひとつの社会の一部に過ぎない。

そして「社会の外に在る」という状態は、社会それ自体を否定しているのでも絶縁しているのでもなく、社会的な作用が及ばない心的領域を生きている。

社会学者のピーター・ハースのいう「認識共同体」の概念でいえば、どの認識共同体に属するかで社会イメージが変わるように、社会の捉え方自体が共有した認知フレームの質によって条件づけられている。

よって「社会」というもの全体をありのままに見るということは誰にも出来ない。他者の全てを知り得ないのと同様に、部分に触れるだけ。

誰かが語る社会とは、認識共同体と個々の環世界の合わさった社会の一部分の主観的な解像であり、それとは異なる認識共同体と個々の環世界を生きる他者は全く別の部分に触れている。

「個人的なことは政治的(社会的)なこと」は事実であるのと同時に全くズレてもいるのは、単一の社会が存在せず個々に異なる主観が投影された現実が人の数だけあるのに、みなが自分のイメージする良い社会を最大化することだけしか考えない政治的闘争をするのであれば、「万人の万人に対する闘争」が生じるでしょう。

だから「個人の政治(社会)イメージ」を普遍的な真理であるかのように全体化して他者に押し付けるのは、マジョリティの認識共同体がマイノリティの認識共同体に行うそれと同様の力学であり、

同時にアイデンティティ政治がマジョリティの認識共同体に「己が政治・社会」を内面化させようとする場合にも同様の一元化・均一化の力学が働いている。

「正義の名の元に嬉々として他者を殺す」のは宗教だけでなく、「私刑は常に娯楽である」といわれるのは、「没個性化」した集団心理によって無自覚に暴力的なことが出来る(許される)ときの原始的衝動(攻撃欲動)の解放にあるわけですね。

「没個性化」し疑似的なアイデンティティを共有しているからそういう人々は雰囲気が似てくるし、まるで人が変わったかのように攻撃的な「無意識リンチ集団」になる。