親子と家族と社会の無意識から生まれる光と影

 

無意識というものは個人的な無意識もあれば、より集合的な、個よも集団に属する無意識もあります。その一つが社会の無意識ですね。そして家族の無意識は「個人と社会の間」に位置する「個人的でもり社会的でもある無意識の集合体」であり集団の最少単位です。

 

よく親子の問題と社会の問題を混同する人がいます。そして逆に、親子の問題と社会の問題を全く別のようにいう人がいます。

 

例えば若者の犯罪や心・精神の病や自殺などを考察する際に、「それはその家庭の問題だろ?親の問題であり、親子の歪みに過ぎないものを社会の歪みに置き換えるのはおかしい!」と語るも人いれば、

 

親子という最も大きな心理的な源流を深く考察せずに、引き金・キッカケとなった外部の諸条件に心理・動機のスポットをメインに当てて批判する人もいます。

 

親子の関係・家庭環境は、心・精神の問題の全てではなくても、部分的な要因であると思います。(先天的な遺伝性の機能的疾患など一部を除く)と同時に、社会の在り方、他者の関わりもまた心・精神の問題のひとつの要因であると思います。

 

人という存在は「個的であるのと同時に集合的な存在」であり、個別化した私的な影響力と集合的な公的な影響力のどちらからの干渉も受けながら、「内外の葛藤」で自我を育てていく総合的な存在です。

 

だからマスコミ・メディアが好んで使うような社会の闇や心の闇という表現も、その一面だけがやたら強調されるから薄っぺらく感じるだけで、別にそれが全的に間違っているわけではないでしょう。

 

またマスコミ・メディアにウンザリしてその反発的な角度から、私的な極論を語る人などもネットには特に多いですが、それも一面だけが強調されるから極論に感じるだけで、別にそれが全的に間違っているわけではないでしょう。

 

 

 

社会的な人格 ・対外的な顔(ペルソナ)は、その時代の社会的環境が要請した結果の必然的な役割として身につけられたものであり、「外的な干渉力」に条件付けられ形成された部分的人格です。

 

これは人間存在の全体性ではありえませんが、社会的な人格への一体化が激しい人ほど、「そう思い込む」ことで内的には分裂的なものとなっていきます。

 

そして表現されずに抑圧化された他の部分は、存在全体としてのバランスを支えようとするために(影)シャドーとして内側に形成されていきます。

 

光(正義)を強くしてそれに一体化しようとする人ほど、内的な闇(悪)を濃くしていくというパラドックスは、大概は本人自身には自覚はできません。何故ならそういう人は、既に内的な分裂が激しく進み、無意識の運動の全体性が自覚出来ない人だからです。

 

なので無意識下に抑圧されたものは自覚されずに外側に投影されます。そして外側の何かが「影・闇」の原因・対象として相対化され、それを叩くことで自らの光の人格への一体感覚を強化し、

 

そうすることで自己肥大し続け、抑圧された無意識の中身はさらに深い闇が相対化されていきます。そして自身が生んだ闇への抵抗として過剰な人格の分離が生じます。

 

このような状態の人々の中の一部が、様々な形での無意識の負の投影を現実的に実行し始めます。それは多くの場合、公的にはある程度は抑えられた姿で一般の日常の中に、大人たちの中に、そして社会全体に平然と溢れています。

 

 

「見える悪」と「見えない悪」

 

人はニュースの「見える悪」で大騒ぎしますが、実際は「見えない悪」の方が「見える悪」より破壊性が強く巨大なのです。

 

「見えない悪」は、 実行者(見える悪)と同じ心理的力学が内的に働いていますが、それを見える形(公的に裁かれる形)では実行されないのです。

 

そして公的に認められたやり方(枠組み)の中や、そう見えにくい領域でそれを無意識的に実行(解放)します。それが「家庭」「親子関係」などの、部外者が立ち入れない領域だったり、企業や権力組織などの内部のような外側から見えにくい排他的な領域で行われたりするのです。

 

外側からは容易に覗かれないその内側で、犯罪者と変わらないほどの、いや、時としてそれ以上の暴力と破壊、横暴が行われるのです。「見えない悪」から見た「見える悪」というものは、同じ穴のムジナの公的に選ばれしスケープゴートに過ぎないのです。

 

これがインドやパキスタンなどであれば、下の階級の者達への「残酷さ」としてもその無意識の影は現れます。こちらの方がより目に見えてハッキリわかりやすい例でしょう。

 

つまりインドやパキスタンで起きる無残な「猟奇的な残酷な殺人」でさえ、「下の階級の人に対してであれば」社会はそれを抵抗なく受け入れているわけです。

 

最近インドで大騒ぎになったのは「下の階級ではない女性」が殺されることが続いたからであり、同じような「猟奇的な残酷な殺人」は昔から下の階級の女性に対してはずっと行われてきたのに、それを警察も誰も止めようとも大騒ぎもしなかったのです。

 

つまり先に書いたように「見えない悪」は、 実行者(見える悪)と同じ心理的力学が内的に働いているにも関わらず、それを見える形(公的に裁かれる形)では実行していないだけなのです。

 

「そうしないだけ」であたかもそれは存在しないかのように扱われるのです。そして「そうしたもの」だけが悪として吊るしあげられるのです。それが社会の無意識です。

 

そして社会の無意識と個人の無意識はリンクしているんですね。だから社会的なものと個人的なものの両方の力学を見ていかないと、人間存在の全体性は見えてはこないのです。

 

勿論、「見えない悪」を外側・他者に向けないようにする人も沢山いますが、その人たちは我慢の結果、その否定的影響力が内向化し自らの心身を病んでしまう場合が多いのです。

 

「 自身で敵を作って自身でそれを育てている」と知らずに、それと一生戦っている人々は意外に多いのです。

 

自作自演の自我の分裂の戦い

 

自らを光(正義)の人格と自覚したいがために、何かを闇(悪)の人にしてしまう心理は、投影と転移によって「他に転嫁する」ことでバランスを取ろうとする自我運動であり、人格の統合力の未熟さの結果に起きているものともいえるでしょう。

 

これは悪の肯定ではなく正義の否定ではありません。まして法律の無用さを意味するのではありません。むしろ人が無意識の働きを理解出来ないままであるからこそ、法律は絶対的に必要になるのです。

 

(ありえない仮定ですが)もし全世界の人が一人残らずみな人格が統合され内的に調和しているならば、法律は殆ど意味を持ちません。それは法律で縛らなくても、個と全体の関係性に調和と自然な秩序が生まれるからです。

 

悪というものはそれ自体で存在する普遍的実在ではなく、人間意識相対的な識別作用が定義した結果生まれるものです。

なので「相対的なものでしかない正義」と過剰に一体化することは、その対極にある何か過剰に抑圧化・相対化することになり、それは自我の分裂を強めます。

 

自身が「正義・優位」とするものを光とするなら、自身にとっての「悪・劣位」は「影」となります。

 

そして「影」はコンプレックスとして内的に閉じ込められ、それは存在ストレスになるために、外部に投影され放出され解放される機会を窺うようになります。それが「見えない悪として無意識下で活動するもの」です。

 

「影」の投影と転移が家族・社会の負の連鎖を造る

 

自己の内的な無意識に抑圧化された負の部分が外側に投影されることによって、他者の無意識に「影」が転移されることが多々あり、このことが親子の負の連鎖と子供の人格の歪みに深く関係し、当然それは社会の歪みとも深く関係しているのです。

 

そのパラドックスは「自己肥大化した者」には全く見えなくなっているので、だから自己を絶対化し他者への負の投影・転移を繰り返すのです。

 

そして主に「自分よりも弱い立場の人間、支配コントロールが出来る対象」に負の投影・転移をするのです。その対象の代表が子供であり、あるいは社会的な弱者や非力な個人、そしてインドなら階級の低い女性もそうです。

 

「見えない悪・暴力を内在化した多くの人達」にとって「弱い人々」は、「抑圧された負の意識の解放絶好の対象」でしかないのです。

 

だから世界は未だに弱肉強食の世界などとも比喩され、強者が弱者を食い富や力を得、それを大いに喜ぶような世界になっているわけです。

 

もちろんそれが全てとは言いませんが、そういう一面が確かにこの社会・現実にはあり、そういう集合的な無意識が個の無意識にも投影されているのです。(集合的な無意識の作用・影響をどのように受けているかはかなり個人差はあります。)

 

家族というものは投影転移が最も強力に働く特殊な関係性です。そして親・子の力関係が一方的なものであるところが、「大人 体 大人」との関係性にも見られる「投影と転移」とはレベルが違うところです。

 

だからこそ関係性次第で、その破壊力は凄いものにもなりうるのです。

 

上司と部下の関係性がいかに一方的であっても、親と子ほどの力関係ではありません。ですが、相手が一人の大人ではなく「集合的なもの」としての社会と個人との力関係の場合では、

 

それは「親子」の一方的な関係性にも匹敵する、あるいはそれを凌駕するほどの力関係にもなる時があるのです。集合的な無意識の作用が否定的に「投影・転移」された場合、それは非常に有害な破壊的作用を個人にもたらす場合があるのです。

 

「親」という役割と人間の部分的な姿

 

「親」というものは人間のひとつの役割・側面に過ぎません。「親」というのものは人間存在の部分であり全体ではありません。

 

「親」は我が子との関係性において「親」と言われるのであり、他者との関係性にとっては一人の「人間存在」です。駅ですれちがうオジサンやオバサンが、あなたにとってただの人間存在であっても、特定の誰かにとっては「親」といわれるのです。

 

そして「子」も同じく人間存在の部分であり全体ではありません。子は親との関係において我が子と呼ばれるものであり、他者との関係性においてはやはり一人の人間存在です。

 

私たちが「親子の問題」という時、例えば「親」について考える時、そこには人間存在としての全体性を忘れた「特定の役割としての部分の人格」だけに対して意識が集中的に向けられてはいませんか?

 

親は「親であるのと同時に社会的人格の一部」です。社会は「複数の親という役割を持つ、あるいは大人になった人間存在」で構成された部分の集合体に過ぎません。

 

「社会と家族」は確かに、会社や学校と家の空間的な分断や役割や立場の違いが存在し、その関係性において異なるようには見えても、

 

親もまた社会に生きる人間存在であり、社会を構成する部分なのです。なので「親」の人格の問題というテーマを深く見るのならば、

 

単に「親」という部分的な役割としての人格だけに全原因が存在するのではなく、その人間存在の「人格の全体性」の中で、どのような力学が働いているかを見ていくことが必要なのです。

 

様々な親達が引き起こす次の世代への負の連鎖は、確かにその親子の関係性の中で生じ、そして「次世代に伝承されてしまった」ものとはいえ、それは人間存在から人間存在へ伝承されていく負の遺産でもあるのです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*