幽体離脱・憑依・自動書記・幻覚 を脳科学と心理学で検証
今日も「禅と瞑想の心理学的検証」です。このテーマを突き詰めていく動機・原動力は、別にオカルトが好きとか嫌いとか、そういう理由ではありません。
宗教や精神世界を理解することは、心・精神の病気と健康と関連性があるだけでなく、「人間とは何か?」そして文化や歴史の背景にあるものを明確化するために重要なことでもあり、
また人間の病理や、犯罪などの負の現象の原因のひとつを、明らかにすることに繋がることがあるからです。これらのテーマをシッカリ検証することで、想像以上に多岐にわたる人間の心理・行動原理・背景・原因が見えてくることがあるのです。
もちろんこれだけが背景・原因の全てではありませんが、全体の中の重要な部分ということなのです。
まず、「幽体離脱や幻覚」に関する脳科学的な分析ですが、脳・神経の専門家の方の記事を引用紹介しますね。詳細にキッチリとわかりやすく書かれているのでとても参考になります。
「<番外編>知らないと… 世にも恐ろしい怪奇現象???とは」より引用抜粋
「私の抜け殻(零体離脱)」
俗に、『零体分離、零体離脱』と言われているものは、既に医学的に、その正体が解明されています。最新の文献では、以下の3つに分類され、『自己像幻視』という用語に代表されます。
① autoscopic hallucination(自己像幻視) ② out-of-body experience(体外体験) ③ heautoscopy(ハータスコピー:オートスコピーに接頭語heが付いたもの、対訳語なし)
これらの多くは、側頭葉てんかん(精神運動発作)の部分症状として出現しますが、片頭痛の前駆症状、梗塞、出血、腫瘍など脳の特定の領域に病変がある場合や、統合失調症、うつ病などにも見られます。
①の自己像幻視とは、自分の目の前に自分の姿が見えるもので、自分の所在(魂?)はあくまで自身の身体にあります。多くは平面的な2次元映像で、顔や身体の一部であったり、左右反転した鏡像であったりします。
病変は右後頭葉(右上後頭回、右楔部)、外線条体皮質(紡錘状回体部、顔部)で、視覚入力と体性感覚との不調和により、右後頭葉の病変で障害された左側の視野に、自分の姿が見えることが指摘されています。
②の体外体験とは読んで字の如く、自身の元の身体から抜け出した自分が、外側から(多くは上方から)自分の姿を見るというものです。抜け出した方に、自身の所在を感じ、右の後部島皮質(前頭葉と側頭葉の間を奥に分け入った部分)が責任病巣です。
(中略)
しかし、ハータスコピーには決定的な特徴があります。それは、幻視である自己像との強い自我同一感があることと、肉体と幻視像間で、自我の存在感が変動することです。場合によっては、2者同時に存在することさえできるのです。それゆえ、①の自己像幻視とは異なる現象とされ、責任病巣は、左後部島皮質と言われます。
島皮質は、様々な感覚神経を統合する領域とされ、体性感覚(触角、痛覚など)、運動神経、視覚、聴覚、平衡感覚、辺縁系(感情)との連絡をもち、これらを統制しています。
ここで、体性感覚、視覚情報、運動信号の統制に異常をきたすと、自身の身体が他人の物であったり、他人が触られた感覚を体験したり、他人の身体が自分の物であるような錯覚を受けると言います(dysintegration model:統制障害モデル)。
これが、自身が幻視像に存在する感覚が説明されます。 また、平衡機能(バランスや眩暈感など内耳の機能)と視覚情報との統制障害がおこると、本来の身体の位置と違った感覚を受けます。
特に、右の島皮質後部は、前庭機能(耳石によるバランス)の情報と、左の島皮質後部は三半規管(回転)の情報が関与すると言われ、それぞれ、身体が浮き上がる②の体外体験、自身の所在が移動する③のハータスコピーとの関与が推測されています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
以下の関連外部サイト記事も参考にどうぞ。2018/1 【追加更新】
〇 乗り物酔いしやすい人ほど「他者の視点」を把握できる――その研究から幽体離脱のメカニズムも解明へ?
幻聴、幻覚の脳科学的なメカニズム
幻覚は、「器質性、症状性、精神病性、心因性、薬理性」など複数の種類に分けられています。一般的に、一番わかりやすいのは薬理性の幻覚ですかね、これはドラッグで生じる幻覚です。
次にわかりやすのが、精神病性の幻覚で、主に「統合失調症」によるものですね。この二つの幻覚はよく知られていますが、
心因性の幻覚は、PTSDなどで生じる幻覚です、東日本大震災後に、「幽霊」の目撃例が多数ありましたが、あのような非常に大きなショッキングな出来事の後に生じる現象のひとつです。
器質性の幻覚は、脳の器質的疾患で生じるもので、例えばてんかん、脳血管障害、レビー小体型認知症、ナルコレプシー、そしてここ最近話題にもなった、「抗NMDA受容体脳炎」などもそうです。
症状性の幻覚は、代謝性疾患や内分泌性疾患などの全身性疾患などで生じるものですね。
幻覚は視覚だけではなく、五感全ての幻覚があり、よく知られているのが「幻視、幻聴」ですが、それ以外にも幻嗅、幻味、幻触があり、さらに幻肢痛、体感幻覚というものもあります。
複数の種類の幻覚に対する脳科学的な分析・仮説が、わかりやすくまとめられている外部サイト記事、他関連記事を以下に二つ紹介します。
〇 君もシャーマンになれるシリーズ27 ~脳回路の異常が幻覚を引き起こす~
〇 知覚意識を支える神経メカニズムを解明—視床枕に「コレ、分かった!」の脳活動を発見—
おおまかにいえば、幻覚・幻聴は「脳内から入力された実際に目に見えている情報ではないもの、あるいは聞こえている情報ではないもの」を、視覚・聴覚信号として知覚しているわけですが、
どのようなプロセスで認識しているのかに関わらず、主観的に認識(知覚)が生じている以上、
いくら客観的に「事実となる対象(物体・光・音・臭いなど)」が外的に存在しなくても、本人にとっては「実際に見たもの、実際に聞いたものと」と同質の現実のように錯覚するわけですね。
幻覚や幻聴は、脳の誤作動による錯覚ですが、では「脳の誤作動がない場合の現実」が本当に「真の現実」なのかどうか?
神経科学者のアニル・セスは、「私たちは皆、ずっと幻覚を見続けている」と語ります。本質的には現実とか事実とかはそういうものだ、ということです。
「一同が合意する幻覚」を「現実」と呼んでいる、ともいえてしまうのが、脳・神経的に見たひとつの事実性でもあるわけです。
ではここで、アニル・セスのTED動画『脳が「意識された現実」という幻覚を作り出す仕組み』を紹介します。
『脳に棲む魔物』で話題になったスザンナ・キャハランさんは、「抗NMDA受容体脳炎」の患者(世界で217人目という希少例)で、
「抗NMDA受容体脳炎」は、エクソシストさながらの幻覚や幻聴、けいれん発作が生じることが多いため、昔は「悪魔憑き」とされて、悪魔祓いの対象のひとつとされてきた病気のひとつですね。
そして、「抗NMDA受容体脳炎」や「統合失調症」のような、器質性・精神病性のものでなくても、「憑依現象」は生じます。
今回は、器質性の精神障害・人格障害などではなく、心因性の解離、変性意識による解離をメインに考察しています。
ここからは感性的・主観的な体験談的な内容・考察になっています。
憑依・自動書記というものがありますね。「これは神・神界から降ろされた言葉や文字・文章である」、あるいは「あれは動物霊に憑依されて表された言葉や文字・文章である」、などと霊的な方々が言ってたりしますが、
動物霊や神界に関するテーマは次回にするとして、憑依や自動書記というのは一体何なんでしょうか?
例えばこれは、精神科医の森田正馬 氏(森田療法の創始者)による「祈祷性精神病」という概念や、精神医学の精神障害の分類の中の「解離性障害」、そして「変性意識」という概念などを使って説明することが出来ますが、
単純に「病気・異常」というネガティブな側面だけでもなく、また単純に個人的なものではなく、文化的な要素も含めて考察することで、精神保健的な側面もある憑依の多面性が見えてきます。
参考として、まずPDF「日本における憑依研究の一側面」のから引用・抜粋したものを以下に紹介します。
「日本における憑依研究の一側面」より引用抜粋
普段我々の心は,例えばヤスパース4)の言うような自己意識によって充満されているが,それが変化・流動化し,「自分が自分ではない」といった状態になることがある。
これを変性意識状態(altered state of consciousness)という。さらに進んでまったく自己が消えてなくなってしまう脱自(ecstasy),空白になった心の中に何者かが入ってくる憑依(possession)を考える。
また自己意識が分離することに焦点を当てれば解離(dissociation)になる。
筆者はこうした変性意識状態が憑依状態に出現し,それによる人格変換体験を憑依の最も重要な要素と考える。
一方,最近の精神医学の疾病分類,現在頻用されるDSM や ICD などの操作的診断においては,憑依状態は脇へ追いやられ,解離が中心に置かれている。
憑依妄想であろうと憑依状態であろうと,何かに取り憑かれたという俗信は古くから存在していた。このうちのあるものは病気として治療の対象になり,癒されるべき状態として位置づけられる。
その一方で憑依によって人々の信頼を得たり,宗教を開いたりする教祖もいる。多くの人々がこうした宗教に集い,教祖の憑依体験を追体験したり,派生した宗教儀礼によって生き甲斐を見出すようになる。
このように憑依は二つの面をもっている5)。
(中略)
精神医学が病気として捉える憑依状態に文化という要因を織り込んで再見すると,場合によっては精神保健的な側面も見え,憑依の多面性を物語る。憑依の消失は同時に,われわれの心性のなかから,このような部分が消失したことでもある。
3.最近でも憑依関連の精神医学論文は引き続き出現しているが,解離に関する論文が最近増加してきた。また憑依という形態でなく,より無定型な変性意識に関連する病理の出現も予測される。
脱自・憑依という形をとらなくても,精神はなんらかの形で変性意識に親和性をもつ。日本に特徴的と言われる「何かに憑かれる」ことは精神の病理だけでなく精神の健康に不必要なことではないのかもしれない。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 日本における憑依研究の一側面
自動書記に関しては、芸術家などが勝手に曲が降りてくる、絵が勝手に現れてくる、というものとも共通点がありますね。自動的に文字が表されたのか、旋律あるいはイメージなのか、というそれだけの違いですからね。
いわゆる「ゾーンに入る」という表現と一緒で、変性意識状態の一種ともいえますが、変性意識状態は均一ではないんですね、質も深さもかなりのグラデーションがあるものです。
私はこれに関してもどちらも経験があるので、私のブログのスタンスである、「一体化による感性的な理解と心理学的な客観的な検証」の二つで見ていくことにします。今回は私の体験的な話をまずして、次回に具体的な検証をしますね。
憑依に関しては、私はこういう言葉は好んで使いませんが、精神世界的な言葉でいうところの、「高い世界・神的」なのものと、「低い世界・動物的・魔物的」なものが両方ありますが、私はどちらも経験があり、
そしてその状態で、完全な忘我にならずにそれを観察していました。
その時に、「完全な忘我にならずそれを観察している意識」がまだ私に残されていたことが、今思えば私が重症の解離状態にならずに済んだ、その境目なんでしょう。
そうではない人はその体験に一体化してしまい、そして人格の統合状態を失ってしまうのですね。
そして、統合状態の喪失時に、そこに無意識に抑圧化された別の人格的なものが現れた時、それが憑依現象と呼ばれるものになるのですね。
これは一見、「外部からの侵入者」のように感じられますが、外から何かが憑いているわけではなくて、無意識の中には、神も住んでいれば魔物も住んでいると表現できる何かがあるのです。
このことの具体的な検証はまた次回にして、体験の続きを書きますね。
高い世界・神的な憑依体験というのは強烈ですが、私は怖さはなく、むしろ安心感があり、精神崩壊的な危機感はその体験には感じられなかったので、その後あまり記憶の印象には残りませんでした。
ですが、低い世界・動物的・魔物的な憑依は人生で数回だけでしたが、強力な精神破壊的な感じで、それはまだハッキリと覚えています。
自分が何か別の異様なものに乗っ取られそうになっているという違和感・恐怖感が強烈でしたからね。
それはとにかく「禍々しいもの」という表現がピッタリです。それはエネルギー体のように物理的なもののようにも感じられ、「それ自体で意識を持って生きている」ようにも感じられ、そして明らかに「悪意的な存在」として感じられました。
そして、自動書記に関しては、私の場合は文字というよりも、旋律や絵・象形的な模様などが、次々に勝手に想像されていくような時期があり、考える事もなく迷う事もなく、無意識的にどんどん出てくるんですね。
「どこか違うところから降りてくる」、というような不思議な感じがありました。
これらの憑依の経験は、全て若い時期に起きたもので、今はありません。私は若い頃に、様々な不思議な経験があります。
気や波動・想念というものを感性として感じる、のは今でもあります。後、旋律や曲が降りてくる感じは昔ほどではないですが、今でも若干あるのです。
若い頃はまだ、人格の統合力・統制力が弱く、無意識から投影されてくるものを制御する力が弱いのですね。だから大人より子供の方が神秘体験をよくするのでしょう。
それは、大人よりも子供の方が素直だからともいえますが、投影作用を純粋に「外的な存在」と信じている姿というのは、ほどほどであれば可愛い姿でもありますが、過剰になれば病的な妄想となっていきます。
子供が神秘体験をするのは、それはまだ識別能力と内的な様々な要素の統合力が、成熟していないから起きている姿でもあるのだから、その状態のエスカレートは危険であり、
また大人になってからも、遂に内外の識別能力と統合力が成熟しないまま、神秘的なもの霊的なものに囚われたままの人も結構います。
そういう人の中には、もう一生「戻ってこれない」とこまでいっちゃう人もいるので、注意深い検証が必要なのですね。