共感の多元性と東西の自我の質的違い  

 

なぜ国によって文化・宗教・神や生死の捉え方、そして社会は違うのか?私たちは人間はみな同じであるはずなのに何故理解し合えないのだろう?

そして私たちは「あんな考え方・感覚・価値観など認められない」とか、そういう意味のことをよく言います。ですが突き詰めていくと「人間はみな同じで、そしてみな違う」と思います。

今日は共感の多元性と東西の自我と自然の質的違いをテーマに書いています。科学だろうが道徳・宗教だろうが自然・文化だろうが霊・神だろうが、

それを考え感じるのは「ヒト」の心・精神であり、そしてそれを考え感じたのが誰であれ、それはひとりの人間存在に過ぎない、ということをいつも前提にしています。

 

ヒトはどこが「みな同じ」なのでしょうか?まず生物学的な種としての身体構造が同じです。そして当然、脳の構造性も同じです。そして地球という大自然界を土台にし、それぞれの社会の中で生きている、ということも同じです。

自己」は境界・所有感覚・主体・統一などの性質を持ち、そしてウチとソトという境界と時間・空間でみるならば、

「身体」は生物学的な生命の自他境界を持ち、身体内部の感覚を把握しそしてそこから生じた情動性反応を認知ラベルし、様々な「感情」として知覚・表現します。

主我」は「身体」と「情動」をベースに持つ意識の中心性ですが、それ過去と未来という連続時間」を持たない「今ココ」-「あるがまま」の「ウチ」と、「現実の事象」-「あるがまま」の「ソト」との自他境界を持ちます。

この大自然の中で「あるがまま」の「ウチ」であった原始的な意識が、より集合的な「社会」の中で生きる段階になって、「ソト」は「大自然」から「社会」へと移行し「ヒトとヒトとの関係性」がより重要性を増し、

その環境変化への適応のために「ソト(社会文化の型や質)をウチ(あるがまま)に内在化」=「変容性内在化し、

ウチ(自分)の中にソト(他者)が同時に存在する「社会的自我」-「あるべきもの」を持つ「ニンゲンになったわけですね。

教育と言うのは(社会化されたソト)による、(あるがままのウチ)の「変容性内在化」を心身の発達段階に合わせて成熟させていく過程、

そしての「外在化されるもの」を見て「子に内在化されたもの」を理解しながら「外界(社会)への適応」を助け「自己実現」を補助する過程が含まれます。

そして発達したヒトの文明社会の中においては、自然界での遺伝的な進化スピードと比較にならないほど速いミーム的進化が生じ、

子は「変容性内在化」+「ミーム的進化」によって、個の心・精神の健全な発達と変化し続ける社会への適応性を同時に高めていきます。

なので親の教育・保護の目的は、子の身体の健全な成長と発達を補助する基本的役割に加え、「社会化された自立した大人」へと橋渡しすることなんですね。

そして客我は、「あるがまま」の「ウチ」が「ソト」に適応するために、「過去と未来という時間」をもつ(私)と(あなた)」「私の時間・空間」=「ウチ」と「あなた時間・空間」=「ソト」との自他境界を形成します。

 

 

共感の多元性

 

まず脳幹レベルで生じた「意識」は、生物的な存在感としての原自己=「身体的自己」を生じさせ、身体は遺伝子・自然環境に条件付けられ、種の型と境界性に枠組まれています。

感情は身体内部反応、情動を反映した心の働きです。

共感」はsympathy感情の「共鳴」)とempathy感情移入)という受動的・能動的な二つの要素を含んでおり、「行動的共感・身体的共感・主観的共感」の3要素に分けられ、さらにこれを大きく二つの共感にまとめると、認知的共感(cognitive empathy)情動的共感(emotional empathy)に分類することが出来ます。

図の引用及び参考 →  https://www.iwanami.co.jp/.PDFS/01/0/0113720.pdf

 

アメリカの 脳神経科学者ダマシオは思考形成の中核を占めるのは感情であって知性ではないと言います、そして「感情的共感性」は相手の感情に同期的に共振し、時間的に遅れて「認知的共感性」が生じる、ということですが、

「感情的共感性」は「前部島・前部帯状皮質・扁桃体」などが複合的に関わり、主我(自然自我)に関連する共感性と言え、

「認知的共感性」は、「運動前野・下前頭回を中心とするミラーニューロン・システム」、「内側前頭前皮質を中心とするメンタライジングのシステ」、「側頭・頭頂結合や上側頭溝から成る他者視点取得のシステム」が複
合的に関わり、

これは客我(社会的自我)に関連する共感性とも言えますね。

 

また考察の角度を変えて「情動か認知か」という2分法ではなく、「共感の種類に対応する脳部位を探るマッピング」よりも「背後にあるメカニズム」から考察することで、さらに「共感」というものの多元性が見えてきます。

以下に紹介のPDFでは、「ボトム・アップ的共感」と「トップ・ダウン的共感」という分類で「共感」を複合的に考察していて、個人的にはこの考察の仕方に「共感」します。笑       PDF ⇒ 共感を創発する原理

 

また共感の分類を負の共感正の共感逆共感Schadenfreude(シャデンフロイデ)の四種類に分けることも出来ます。

 

正の共感は「他者の快を快として感じる」、負の共感は「他者の不快を不快として感じる」、まぁこれは共感性としてわかりやすいですね。

 

そして逆共感というのは「他者の快を不快として感じる(例 嫉妬)」で、シャーデンフロイデは「他人の不幸(失敗)を喜ぶ気持ち」であり、少し複雑な情動ですね。

 

以下 PDF 「動物の共感   比較認知科学からのアプローチ」より引用

共感は社会的認知の基礎的な機能であると考えられる。他者の情動とそれによって 惹起された自己の情動状態によって共感は4 つに分類できる。

他者の不快が自分の不快になる場合を負の共感、他者の快が自分の快になる場合を正の共感、他者の快が自分の不快になる場合を逆共感、そして他者の快が自分の不快になる場合は慣習的にSchadenfreude と言われる。

主としてマウスの研究から動物での共感を調べると負の共感、正の共感、逆共感は一 定に見られるもののSchadenfreude は認められない。Schadenfreude はかなり複雑な長期持続 的社会において形成された情動の形態であると考えられる。

参考PDF  『情動の比較神経科学』 動物の共感 – 比較認知科学からのアプローチ - 渡辺 茂

 

共感」に関連する動画で、東京大学大学院総合文化研究科 教授の長谷寿一 氏による「軽井沢土曜懇話会」のYouTube動画を紹介します。以下リンク先にてどうぞ。 「共感を科学する:その進化・神経基盤」

 

もうひとつ、参考PDFとして「心身医学と,自己・他者の心の理解の脳科」を紹介します。

 

「心身医学と,自己・他者の心の理解の脳科学」 より引用抜粋
(前略)
以上見てきたミラーニューロン,心の理論,共感などはどのように概念的に総合されるのであろうか?

まず,ミラーニューロンなど,他者の行動が,自己の脳内で表象される状態は,自動的な共鳴(resonance)プロセスで,認知的なコントロールなどはあまり介在せず,自己と他者の行動・感情とがfusionするような状態である.

しかし,このままでは真の共感とはいえない.常に「私と相手とは違う」という自他の区別がつき,自己と他者が別のトラックで走っているプロセスが必要で,

さらに,情動の適切なトップダウン的なコントロールが加わり,メタ認知的に自己と他者の内面を俯瞰できる視点を取得し,心の理論(Theory ofMind)などの機能を発揮できると思われる.

そして,この自動的な共鳴からTheory of mind までのプロセス全体が「共感」と呼ぶことができると考えられる12)(Fig 4)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「心身医学と,自己・他者の心の理解の脳科学

 

そして民族的な心性の中心には自然自我(主我)が 存在し、自然自我の型は基層文化 (ヒトの集合的無意識・ミーム)に条件付けられ、より生物学的な「今・現在」と共に在り、

社会的な心性の中心性には社会的自我(客我)が存在し、現在の他者・ 社会との関係性と型に条件付けられた、より社会的なヒトとしての「今・現在」と共に在ります。 

 

 

 

ここでより個人的な生物学的因子である「遺伝と気質」の多元性を「ビッグ5」の尺度で考察した前回の記事を参考に紹介しておきますね。 前回の記事 ⇒ 遺伝と環境で見る気質・性格・パーソナリティ 

 

次に、「協調性・共感性」に関する関連記事を以下に紹介しておきます。

 

「ビッグ5を臨床で使おう:総合科学としての性格5因子パラダイム」より引用抜粋
(前略)
生物学的にみると、協調性は、社会脳(ソーシャルブレイン)の個人差をあらわすと考えられている。社会脳とは、「心の理論」の課題(例えば誤信念課題)をおこなっている時に活性化される脳の部位を示す。

福島(2011)によると、側頭-頭頂接合部は視点取得の能力を支える。また、他者へのメンタライジングを支えるのは前頭葉内側部である。自分へのメンタライジングを支えるのは、前頭葉内側部と頭頂葉内側部である。こうした部位のことをメンタライジング・ネットワークと呼んでいる。
(中略)
社会学的にみると、協調性は、自分を犠牲にして他者を助けたりするなど、向社会的行動の基礎になる。しかし、あまりに協調性が強すぎると、集団に埋没してしまう危険がある。これはアッシュの同調性の実験(Asch,1956)によって指摘された。

一方、分離性が高すぎると、非行や犯罪などの反社会的行動と結びつく危険もある。
(中略)
分離性の強い精神病理に対しては、協調性を高めることで、症状を改善できるかもしれない。実際に、「心の理論」の能力を高める訓練によって、自閉症を治療する試みもある。

また、「メンタライゼーションに基づく治療」では、協調性の低い境界性パーソナリティ障害に対して、メンタライゼーション(共感性)の能力の向上をはかることで治療しようとする。

また、共感性は、セラピストにとっても必要である。(中略)ロジャースは「人格変化の必要にして十分な条件」の中に、共感的理解ということをあげている。

「共感的理解」とは,相手の立場にたって考え,相手の身になって感じることである。単なる「同情」とか,自分の気持ちを相手に「投影」することとは違う。

「同情」や「投影」は、自分のものの見方・感じ方を通して相手をみることである。これに対して、「共感的な理解」とは、相手のものの見方・感じ方を通して,相手を理解することである。
(中略)
協調性の強い人は、周囲の人との関係がよいので、危機に陥っても周りの人のサポートを得やすい。その反面、不本意なことがあっても文句を言わないので、

過剰に適応したり、他人の思うように利用されたり、だまされやすいので注意が必要である。分離性の強い人は、内面と外面を分けて、敏感な内面を守っている。行きすぎると、殻を作って人づきあいを避けることもある。

殻が強すぎると、内面を守りきれなくなった時、秘密が他人に漏れてしまうように感じて、自我漏洩感を持ちやすい。殻を作りすぎないようにすることが重要であろう。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ビッグ5を臨床で使おう:総合科学としての性格5因子パラダイム

 

文化と自然と宗教と社会

 

生物学的な本質において同じものであるヒトが、どのように多元的にそれぞれの文化的・精神的社会的個性を発展させていったかのおおまかな考察は、前回の記事で書きましたので参考にどうぞ。 前回の記事 ⇒ 東西の基層文化と宗教と社会

 

身体的自己は「地球・太陽・月・星・大地自然などの自然界・周期性」に無意識的に同期し、自然自我は「民族の基層文化の時間と自他の身体的自」に無意識的に同期し、社会的自我は「社会の時間・空間」に無意識的に同期すると考えます。

身体的自己は無意識領域であり、通常は自然自我と社会的自我を合わせて「自己」というひとつのまとまりの意識として認識されます。

つまり心・精神の三つの中心性は相互依存的に動的に存在しつつ、それぞれの意識の空間・ 時間の質的次元は異なるわけですね。

 

これらの三つの関係性を文化的な差異で大まかざっくりに見ると、「自然 – 身体的自己」「自然自我」が対立的関係なのが欧米・中東の基層文化で、

「自然自我」と「社会的自我」が調和的なのが欧米の基層文化、欧米的な社会的自我の型・質に対立的なのが中東の基層文化ですね。

そして「身体的自己」と「自然自我」が調和的なのがアジアの基層文化で、発展途上国の場合は欧米的な社会的自我の型・質には最適化されていない状態

そして『 欧米的な社会的自我の型・質に表面的には最適化はされているが、「自然自我と社会的自我 が不調和」なのが日本 』、それに続くのが韓国、というふうになります。

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