知性と感性のバランスと多元性 理屈と合理性で生身の世界・人間を切る人々
今日は「知性」と「感性」、そして低次の防衛機制の「知性化」などをテーマに考察した記事を書いています。これは補足的な意味での記事でもあります。
「防衛機制」については過去に幾つかの記事を書いてはいますが、「知性化」の説明については以下の記事を参考に紹介しておきますね。
「 防衛機制のパターン4 知性化 」より引用
自分を直視することを避け、知性の世界や、観念的な世界に逃避してしまうことです。専門用語を乱発したり、やたらに難しい言葉を使ったり、言い訳的な言説に終始したりします。
一見ものごとを理解しているように見えたりしますが、本質的なことは何も理解していません。
難しい表現を使ったりすると、自分自身でも何かを理解したような気になりますし、誇大感を膨らませることもできます。
しかし、その背後にあるのは優越感を持ちたいという気持ちであり、支配したいという願望です。これは見捨てられ不安から来る、無力感の裏返しだったりします。
観念の世界に逃げ込んでしまうと、自分の感情をありのままに直視することが難しくなります。乱発する知的な言葉は、本質的な問題へのめくらましとして機能します。
– 引用ここまで-
引用元 URL ⇒ 知性化
IQに偏った知能では解決しないことって現実には多々あり、「頭は悪くないのに何故か人間関係が上手くいかない」とか、「社会で生きにくい」、そんな人たちを見ていると案外それは「EQの問題」だったりすることも多いんですね。そういう現実経験を元に書いている記事でもあります。
ではまず、以下の引用記事の紹介です。
「出演者は東大・早大・慶応大の卒業生ばかり…討論番組はいつから高学歴エリートに支配されてしまったのか」 より引用抜粋
女性は番組内で、経済的に貧しい人が生まれる理由について、「ただの情報格差であったり、想像力、知識を得られないでいるため」と考察。
生活に困窮する人をサポートする現行の生活保護制度については、「あまり良いと思ってない」と否定的な考えを示した。
その上で、「生活保護ではなく、最低限の社会貢献をしたとき、それに対応して何かを分配する」という新しい仕組みを提案した。
女性の発言について、SNS上では賛否が分かれた。福祉関係者やジャーナリストら生活保護制度の実情を知る人ほど、女性の発言には批判的だったようだ。
そもそも女性の発言は、健常者で労働年齢層(15~64歳)の生活困窮者を念頭に置いたものと受け取れた。だが、実際に生活保護を受けている約163万世帯のうち、5割近くは65歳以上の高齢者世帯。
働きたくても働けない、傷病者世帯と障がい者世帯の割合も3割以上に達する。発言と実態は噛み合っていない。反論が出るのも無理からぬ話だった。
また、現在は子供の6人に1人が貧困状態にあるとの指摘もあり、生まれたときから社会貢献どころではない人は少なくない。
第一、何が社会貢献なのかを決める物差しなど最初から存在しないのだから、批判の声が上がるのも仕方がないことだろう。
近年のテレビは学歴エリートを重用する傾向が強まっている気がしてならず、違和感を拭えない。倉本氏は不幸な戦争を招いてしまったのも学歴エリートの責任だと論じている。
「自分の食べる物すらつくれない政治家や官僚、軍部の人間たちが、農村から若者を勝手に徴用し、戦場に送り込んだのです。そうして多くの若者たちが戦場の露と消えていった」(同)
倉本氏は学歴エリートをありがたがっていない。世間では若い人でも学歴エリートを崇めない人が珍しくない。テレビ界も若者たちに発言させる場合、学歴エリートに拘る必要はないだろう。
なにしろ、若者の約半分は大学に進学しない。しかも、世間から高学歴と呼ばれる大学に進む若者はごく一部。また、学歴エリートの意見が正しいとは限らないのだから。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
関連記事・情報を紹介しておきますね。
○ 「格差」に蝕まれてアメリカ社会は壊れかけている〜米大統領選”異変”の読み方
エリートほど利己的で、公平性より効率化を重んじ、不平等に寛容だそうです。イェール大法院生(超エリート)を加州大生(エリート)や一般市民と比較した調査。今朝の『サイエンス』論文より→ http://t.co/pljeOUGIsl(著者は「だから政策立案者は自分本位なのだ」と説明)
— 池谷裕二 (@yuji_ikegaya) 2015年9月18日
上の記事に「何が社会貢献?」という箇所がありますが、この国においてそれは「金になること」ですね。笑
まぁそれはさておいて、高学歴エリートが現実・世間を知らないのか、間違っているかどうか、そういう事実関係を明らかにするのが今回のテーマではなく、
「伝え方」や「ものの見方」が偏っていたり、質的に全く異なる時に、違和感・ズレを感じることは日常的にアチコチで発生していますし、
そのようなズレがあるときは当然どちらもやりにくく、その解離が大きくなれば大きな誤解や疑心暗鬼や摩擦を生じさせたりするわけで、どちらかに、あるいは双方に「上手くいっていない、理解できていない何かがある」ということは確かでしょう。
ここで言う意味の「理解しているかどうか」は、単純に「頭で何を知っているか」の意味ではなく、「状態」と「観念への囚われ・概念」は違い、
「許すべき」という観念に従っている心と、「囚われなくただ許している状態」が質的に全く異なるように、「愛情深くあろうとする心」と、「ただ愛している状態」が異なるように、質的違いがある時、例えば「知識・観念の人」と「状態そのものがそうなっている人」では噛み合わないんですね。
「使う概念だけが同じなだけ」で、実際は全く状態が異なるために、「概念ではなく現実に捉えているそれそのもの」が違うから、噛み合わないんです。
後者は「状態から自然に出て来る表現」をしているだけで、「観念でこうあるべき、というような方向付けを自他に課す意識」すら持ってないんですね。
ところが前者は観念で縛られて「そうしようとしている」わけで、こういう人は、後者のような「状態」を理解出来ないままなので、結局、「観念」での是非の話しとかになってしまうんです。
極端な例ですが、例えば先天的に異常である真正サイコパスに対して、どれだけ言葉・観念・概念で説明をしたところで彼等には「状態」は一切理解出来ません。
ですが高知能なサイコパスであれば「状態」は理解出来なくても観念・概念的には正確に対象を理解できるのです。
ノースウェスタン大学のケロッグ経営大学院の研究では、「人は権力を持つにつれ、より自己中心的になり、自信過剰になる。権威のない格下の人々の意見を無視したり、または理解できないようになってしまう」と結論づけています。
また、カナダの脳科学者による研究では、「権力が、共感をつかさどる脳の細胞を破壊し、他人の心や気持ちを感じ取る脳内システム機能を低下させる」という結果を報告していますが、
これは圧倒的な立場の優位性、権威・権力などの側に属する者の一部に起こる「EQを低下させる現象」で、その「非情さ」にはサイコパスとの類似性があることが指摘されています。
このブログでもだいぶ前の過去記事で、「闘争が過剰化した社会では組織上部ほどサイコパス的な思考に向かいやすい」と書いたことがありますが、(カルトやブラック企業などはより顕著な例。)
また権力者・独裁者だけでなくアカハラ・パワハラなども、全てではありませんがその暴力性の質 によっては類似性がありますし、毒親の問題も「立場の優位性」、力関係に差がある状況下における暴力性です。
まぁ平たく言えば、「自身に何の影響力も持たない下の無力な人間がどうなろうがどうでもいい」っていう状態の人ほど、EQなんて不必要、となりやすい、ということですね。
「IQがそこそこ、あるいは高い人でEQが低い人」が、「EQの低さによる社会適応性の低さ」を、そしてそこから生じる劣等感をIQを使って防衛する、補償する、という現象がよくありますが、この場合、自我の反動原理の構造性の質は「知性化」と同質なんですね。よって逆にEQが伸びなくなるわけです。
そのことによって不調和となり、ますます 意固地になってIQ的な防衛・闘争性に固執し「ややこしい人」「人間的に成長しない人」になっていくわけですね。
「EQが高いがIQがあまり高くない人」をやたら見下したり馬鹿にして嫌われる人なんかも大体このタイプですね。
ところが「EQがそこそこ、あるいは高い人でIQがやや低い人」の場合は、変なプライドがない分、素直に愚直にでも周囲に学びながら進んでいくので、
こういう人の方が最初は馬鹿にされながらも徐々に伸びていく、そして社会適応性を高めて関係性も豊かにバランスしていきながら、知能・能力も総合的に高くなっていく、ということがあるわけです。
小賢しい人とかイチイチ闘争的で天邪鬼な人よりも、馬鹿でも根っこが素直で大らかでプライドが高くない人の方がどんどん良い感じに伸びていく、ということは現実によくありますね。
内向性と外向性の関係
知能もコミュニケーションも外向、内向も多元的なものですが、そのような人たちにとっては一元的な意味合いしか持たない、だから表面的な結果しか見えず、見ず、現実の一部のみが取捨選択されて立体的な質の大部分が見落とされます。
内向性と外向性の関係に柔軟性がある場合、変容性内在化と創造昇華が生じやすく質的変化(変容・成長)が生じるために内も外も豊かになる傾向性を高めます。
例えば芸術志向性の本来の質は内向性ではなく、変容性内在化の非言語性アプローチでもあり、感性にダイレクトに働きかける作用を持ち、その結果、 外向性の質的変化をもたらし外向性を豊かにするので、
豊かな外向性を持つ人は芸術志向性を持つわけですね(必ずしも芸術家になるわけではなく潜在性として働いている)。
知識・データなどその気になれば幾らでも集められます。「集める能力」「ただ記憶する能力」は全然大したものではないのです、
要はそれで何を生み出せるか、どう使いこなして実践的に日常的に役立てられるか、そこに本当の知能・能力・創造性が問われるんですね。
ところが能力の低い者ほど、知識でああだこうだと比較し合うんです。その人の人生自体でどう生かされているか?というところが一番現実的な実質的なものであるにも関わらず、
実質が空虚で知識に全く比例しない状態だから、さらに情報や知識で理論化して誤魔化す、これは低次の防衛機制の「知性化」の応用版なんですね。
理論はいいけど、あなたの家庭の問題はその知識と概念とレッテルで解決できたの?ああだこうだと勝手に定義したり主張するのはいいけど、あなたの夫婦関係や人生の問題は解決できたの?
四六時中、他者に向けて色々言ってるけど自身は一番身近なところさえ何にも解決できていなかったりたりする人は、そしてエネルギー・心の向け方が偏っていてズレている場合は、さらに解決から遠のくわけです。
何故「感性」を大事にするのか?
ここでいう感性とは、単純に「敏感な感受性」と言う意味ではなく、EQの成熟度・豊かさの意味を含むものです。
言語性知能しか発達していない人は、非言語性的な、表現や汎用性の高い概念に置換されていない「前表現」的なものや、感性的な対象の把握の仕方を「曖昧な抽象性」として捉える傾向性があります。
学者さんでも言語性知能だけでなく感性・経験知も豊かな人の場合は、抽象性を抽象性としてではなく、具体性のある多元的なリアルとして明確に捉えられます。なので認知の幅がとても広く深いですね。
これは実際、感性がシッカリ捉える時、抽象的なものは全く抽象的ではないんです。
科学者であれアスリートであれ企業人であれ専門職であれ、理解が深くなればなるほどある種の芸術性を帯びるのは、そこに精緻な理性だけでなく豊かな感性が深く働いているからなんですね。
頭だけで把握することは誰でも出来るんです。コンピューターでも論理的思考なら出来るんです。ピアノが弾けなくたって音楽理論に精通することは出来ますし、
心も体も実践的に使いこなせなくても、心の理論やら身体学に精通することは普通程度の知能があれば誰でも出来ます。禅や瞑想を理解していなくても禅・瞑想の理論に精通することは誰でも出来ます。
ですが、非言語の領域は学問的には補足的にしか学べません。創造性も同様です。感性で理解できるかどうかの領域であり、言語性の思考は殆ど使えません。なので言語性知能はあまり役立ちません。
ところが、非言語の領域を理解しつつ言語性の概念的理解を高めることは出来るんですね。
つまり、非言語の領域の感性は生命の「土台側」なので、ここが豊かであることは、言語性領域を高める際にも役立ちます。
私が感性と理性はどちらも大事で、まずは感性こそ土台で豊かに育てる必要があると考えるのは、理性は後からでも豊かに育てられますが、感性の貧弱さは後から高めるのはより難しいからです。
ではラストに、以前にも一度紹介した外部サイトの「心の知能指数」の記事を紹介し記事の終わりとします。
◇ 心の知能指数
1989年に米国イェール大学のピーター・サロベイ博士とニューハンプシャー大学のジョン・メイヤー博士によって、初めて論文で発表された理論で、自分の感情(Emotion)を上手にコントロールする能力のこと。
「心の知能指数が高い人がやらない9つの習慣」より引用抜粋
心の知能指数(EQ)テストを実施するタレントスマートが行った100万人以上を対象とした調査では、穏やかさ、満足、冷静さを保つためにEQが高い人たちが避けている9つの習慣が浮き彫りになっている。
1. 他人と比較して満足感を得る、人目を気にする。
EQの高い人たちは自分で成し遂げたことから満足を得るときに他人の意見や実績などに目もくれない。
2. 他人の行為に縛られがんじがらめになる
EQの高い人たちはすぐに人を許す。だからといって忘れているわけではない。許すことができるのは、次に進むために嫌な出来事を手放しているだけで、酷いことをさせる機会を与えているわけではないのだ。
3. 感情に流され負け戦をする。
EQの高い人たちは、生き延びていつの日か再度挑戦する大切さをよく解っている。奮闘の最中で熱くなりすぎると墓穴を掘り、立ち直れないほどのダメージを受けることもある。
4. 常に完璧を目指す
完璧なゴールなどどこにも存在しない。だからEQの高い人たちは、完璧な目標を設定することはない。
5. 過去にとらわれる
EQの高い人たちは、成功とは失敗を積み重ねた先に掴むものであることを知っている。だから過去に生きて、かつての失敗をいつまでも悔やみ続ける暇なんて彼らにはないのだ。
6. 目の前の問題にばかり気をとられる
目の前の問題にばかり意識を向ければ、気分は沈み、ストレスが溜まるうえ、実力も発揮できなくなる。そうではなく自分自身や状況を改善する行動自体に意識を向けるのだ。
7. 後ろ向きな人たちと多く関わる
愚痴ばかり言う人たちがあなたに運んでくるのは悪いニュースだけだ。彼らは問題の中で苦しみ、その解決に目を向けようとはしないのだ。それどころか、同情してもらうことで気分を慰めようとしている。
いい人に見られたくて彼らの話を耳を傾ける人たちもいるが、同情と一緒になって落ち込むのは違う。その分別をしっかりつけ、引きずり込まれないようにしなければならない。
8. 根に持つ
何かを根に持つと、思い出しただけでも腹が立ち、それ自体がストレスとなる。それが目の前に差し迫ったことならば何らかの対処が必要になるだろうが、はるか昔のことならば、そんなストレスを抱えていても健康に悪いだけだ。
9. 望んでいないことにもイエスと言ってしまう。
カリフォルニア大学の研究では、「ノー」と言い出せない人は、より多くのストレスを抱え、うつを患うことすらあるそうだ。多くの人にとって、
何かを断るというのはかなり難しいことである。 だが「ノー」と断ることを恐れないほうがいい。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 心の知能指数が高い人がやらない9つの習慣