禅から見た「悲観と楽観」の認知的不協和

 

ブラジルワールドカップまであとわずかですね。私は野球よりサッカーの方が好きで、日本だけでなく海外の試合も観ます。日本代表キャプテンの長谷部誠も今頃は「心を整えている」最中でしょうか。

 

今日は「に関するテーマと、それに関連する「悲観と楽観の認知的不協和」がテーマです。

 

」は今「ビジネス禅」として、日本や欧米のアスリートやビジネスパーソンに広く浸透しています。まずそれに関する記事を二つ紹介しますね。

 

「ビジネス禅のススメ  長谷部誠の折れない心」 より引用抜粋

社会人向けの坐禅会が静かな人気だ。「経営禅」「ビジネス禅」「早朝禅」「週末禅」…。インターネットで検索すると、全国の禅堂で実施している様々な形態の坐禅会がヒットする。

参加者は何を思って参加するのか。坐禅で何が得られるのか。若い世代まで広がる昨今の禅ブームを代表する1人が、サッカー日本代表のキャテン、長谷部誠だ。- 引用ここまで –

引用元⇒ http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20131213/257036/

 

長谷部 誠選手が「何か悩みそうな時はこの言葉を自分に投げかける」とう禅語が以下の中国臨済宗の開祖・臨済義玄の言葉です。

 

ico05-005 随所作主、立処皆真(随所に主となれば、立つ処皆真なり)

  意味  ⇒  随処作主 – 禅語に親しむ 

 

もうひとつ、サイト「ザ・ハフィントン・ポスト」より引用です。

京セラの創業者でありJALの再建を担った稲盛和夫氏、打撃の神様として崇拝された故・川上哲治氏・・・そしてAppleの創業者であり、伝説となった故・スティーブ・ジョブズ。一見、共通点のなさそうな彼らを繋ぐもの、それは「禅」。

前編では、禅とは何かという事を大澤山 龍雲寺の住職である細川晋輔氏にうかがった。この後編では、偉人たちが何を求めて禅に傾倒したのか、そして禅の持つ魅力や影響について、より深く迫っている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 一流のビジネスパーソンが、禅に解を求める理由 – 坐禅は多忙な日々を区切る、句読点となる –

 

 

 

ワールドカップとネイマール

 

ブラジルの選手にネイマールという天才選手がいます。ネイマールがスランプだった時、彼の父が言った言葉「サッカーを楽し」を思い出し、プレーを心から楽しむことが出来た時「スランプ」から抜けたそうですが、

 

彼の父はちょっと遊び人なんですが、マラドーナもそうだったように、ラテン系は日本人の平均と比べるならば、性欲が強くアグレッシブな人が多いワイルドな国民性ですね。

日本人は遺伝的に「不安が強くストレスに弱い」要素を持っている人が多く、ラテン系楽観的でストレスに強い」要素を持っているといわれています。

 

世界的に見ても日本の犯罪率はトップレベルに低い国なのに、「最近治安が悪い」と過剰に意識する傾向はむしろ他国よりも強く(実際には日本の凶悪犯罪は年々減少しているのですが)、それだけ「不安が強くストレスに弱い」のでしょう。

 

国民の幸福度がやたら低いのも、世界と比較したら生活環境的には良い要素も多いのに、不安が強くストレスに弱いゆえに「主観」が悲観へ傾きやすい、という要素も含まれていると感じますね。

 

また「不安感からの強迫観念的な真面目さと悲観的な世界の捉え方」が、否定的に心理作用し、人生から「楽しさ・遊び・気楽さ」などのおおらかさの感覚を奪っていることからの生きづらさもあるでしょう。

 

そして内因としての「遺伝的な気質の傾向」だけでなく、外因としては「多様性のない過剰な競争社会」での心理的作用があり、「達成できない非現実的な高い成長目標」を掲げ、

 

「画一化した人生の在り方」へ集団的な過剰適応をした結果、「何のために生きているのか、何のために頑張っているのかもわからない」ような機械的な日常に疲弊し、

 

細かすぎる制約・制限の束縛に精神的余裕を失い、囚われてがんじがらめとなり、心・精神のバランス異常を起こす人々が増加しているわけですね。

 

国益!経済発展!」って世間ではそればかりいいますが、地球資源は有限であるように、開発や物質的発展は、「全体」の持続可能性とバランスが必要です。

 

癌細胞の発達のような、「部分」が「全体バランス」を無視して開発・物質的発展に向かうのであれば、いずれ「全体」の持続不能・バランス崩壊になるんです。それは社会の発展も人間の心身の成長・バランスも同じでしょう。

 

 

 

話は戻りますが、ネイマールが「サッカーを楽しむ」ことでスランプを抜け出した経験はプロになる前にもあったんですね。彼ほどの才能・能力の持ち主でさえ、ミスや結果ばかりに囚われでおびえて緊張してプレーしている時は結果が出せないわけです。

 

ブラジルのサポーターは気性が激しく熱狂的ですから、相当な重圧がかかると思います。その重圧を受けて「そこで心から伸び伸びとプレーを楽しめる」ということは、簡単ではないでしょう。

 

ですが人は、「心の状態」で「引き出せる能力・見えるもの・感じ取れるもの」が変化するものです。その時・その状況で出せる最高のパフォーマンスや能力の質は人それぞれ違うとしても、「心・技・体」の本質は同じなんですね。

 

不安に囚われ結果におびえ心身が緊張している時」は、心・技・体は別物のようにバラバラとなり、「囚われがなく伸び伸びと状況に対応する時」では、心・技・体はもっと「自在で自然な流れ」に感じられることは、人は経験的によく知っていることですが、

 

それを「強い心理プレッシャーがかかる状況下」で出来るところに、パフォーマンスの差が生じるのでしょう。環境圧力は変わっていないのです。「受け止め方・捉え方」が変わっただけなんです。

 

ネイマールを見ていると、体・表情・動きの全体から躍動を感じます。彼はサッカーという可能性の中で心・技・体を高いレベルまで自己実現したアスリートですね。

 

悲観と楽観の認知的不協和

 

ico05-005 人間にとって一番辛いものは、貧しさ・病気でなく、それらが生む孤独と絶望のほうである。 遠藤周作「イエスの生涯」

 

悲観主義・虚無主義・楽観主義に関して、以前「虚無を生むもの」というテーマで記事をいくつか書きましたが、今日は「自我の生む悲観・楽観の認知的不協和」をテーマに書きます。

 

まず、虚無主義+悲観主義認知的不協和に至る流れをまとめると、

 

いずれ死ぬのだから生は無意味 ⇒ 何もしたくない ⇒ でも何しなけば死ぬ ⇒ 死にたない 死にたくないために何かしてもいずれ死ぬのだから生は無意味 ⇒ 何もしたない ⇒ ペシミスティックな思考ルー⇒ 思考と存在の分離 ⇒ 認知的不協和    となり、

 

さらにこれが虚無主義から「達観」へと向かう方向性の場合は、

 

思考が生む「自我の虚無」⇒「虚無=ゼロ」であるから生への執着無意味 ⇒「死」という終わりの前では全ては無価値 ⇒  ペシミスティックな人生観世界の諦観 「達観」と向かう内的衝動 ⇒ 「諦観維持」の現実的な不可能性 認知的不協和となり、

 

「快楽・愛情」への「執着」と「放棄」の「思考パラドックス内」をき来するだけの状態に停滞することで、幸福・可能性の放棄(諦め)と執着(期待)葛藤が認知的不協和をさらに強化するわけですね。

 

この「思考パラドックス」が、自分以外=「他者・社会・環境・世界」に投影されると、「思考パラドックスを生じさせているもの自体が見過ごされる」ために、抜け出せなくなるのです。

 

また「思考パラドックスが生む認知的不協和の苦悩」が外因であるとされたとき、それを解決・救済するのも「外側からの働きかけ」「自身何か」になり、それに期待・依存してしまうのです。

 

そして「自我の生む苦」を「運命・過去・観念」に原因帰属してしまう場合も、「今こにあるそのもの」=「自我が苦を生じさせている姿もの」に気づけず、決定論的に状況を自己完結させます。(例:カルマの法則・何々主義なへの観念的盲信者

 

このテーマに関連する内容を別の角度から考察した記事を以下に紹介しておきます。

「原因」の外的・内的帰属のバイアス「原因帰属のエラー」

 

 

そして「自我の虚無」を突き抜けるものは、ペシミストやニヒリストめることの延長上はないのです。それは自我・思考の「虚無そのもの」への反動的な自我運動のひとつに過ぎないからです。

 

思考=自我運動であり自我によって思考の全体性は見ることは出来ない。それは「自我を見るものもまた自我である」という「無限思考のパラドックス」に陥ったまま「見ている」と思い込む「自我への同化」の過程に過ぎないからです。(例:瞑想法への盲信者

 

「虚無」といっても、その認識には段階があり、「意識の層」には深さ・奥行・質の違いがあるんですね。ではラストに「カウンセリングルー:EsDiscovery」の記事を引用紹介し、今回の記事の終わりとします。

 

 

「悲観主義を徹底できない人間の弱さとオプティミズムによる生きる意味の発見」より引用抜粋

『自分自身の行動・能力・属性』に不幸(苦悩)の原因を求める場合に、自己否定的な歪んだ認知を持ち過ぎると抑うつ感や無気力が生じやすくなるが、

的確な現状認識を持って自分の行動を欲求充足的に変えることが出来れば、自己効力感(self-efficacy)を高めて認知的不協和を解消することができる。

況を好転させるための努力や工夫を何もせず自分の行動を一切変えずに、悲観的な世界解釈をそのまま受容して人生を生き抜くことはとても困難なことである。

見せ掛けの諦観と悲観主義あるいは虚無主義は相性が良いが、全てを諦めきれない人間は、悲観主義に徹しきろうとして徹しきれずに苦しみ悩み煩悶することになる。

私のような凡庸な人間が持ち得るオプティミズム(楽観主義)とは、類の進歩に貢献するとか世界が直面する難題を創造的に解決するとかい壮大な目的に対する楽観主義ではなく、

ペシミズム(悲観主義)の中途半端な諦めに一定の見切りをつける覚悟なのではないかと思う。
(中略)
つまるところ、人生の意味や自分の価値というものは、マッチポンプ的に自分の世界解釈(自己解釈)によって創り出すか、他者や社会との相互作用における状況の変化から自分で掴み取るものなのである。

その観点からしても、自己や未来を肯定的(楽観的)に解釈しようとする自由な意志のない場所には、

初めから意味や価値がないといえるだろう。知性を持つ認識主体(主観的な意識)の存在がなければ、世界(宇宙)は存在しないも同然なのだから、

メタ次元において世界や人生に意味があるとかないとか思考できる『あなた』は、それだけで極めて特殊な存在形式を持っているといえる。
(中略)
この宇宙(世界)や他者の存在を究極的に担保しているのは、私やあなたの個別的主観的な生命、どのような手段を用いても代替不可能な自我意識に他ならない。

『私』が消滅すれば広大無辺な宇宙にある全ての存在と意味が瞬時にして失われるという驚異的なパースペクティブ(遠近感)の転換、『私』以外の場所からは決して世界を見ることが出来ないという冷厳な現実、

そこにこそ、一見虚無に覆われているように見えるこの世界の意味・価値の源泉があるのかもしれない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 悲観主義を徹底できない人間の弱さとオプティミズムによる生きる意味の発見

 

 

 

禅から見た「悲観と楽観」の認知的不協和” に対して1件のコメントがあります。

  1. ノムラマサカツ より:

       『多様性のない過剰な競争社会』
     あぁ~マサに、ですね。
     地方でも、コンビニが増える一方な訳だ(-_- )

     そしてそんな社会の求める、
     『画一した人生の在り方への集団の過剰反応』としての、適応に強力な拒否反応を、過剰に起こした自分を省みる事が出来ます。(^-^;

     そして、それ故に自分が、『認知的不協和の苦悩』な、状態であった事に、気が付かされます。(特に三ヶ月前に解消した結婚生活が(>_<))

    ≫つまるところ、人生の意味や自分の価値というものは、マッチポンプ的に自分の世界解釈(自己解釈)によって創り出すか、他者や社会との相互作用における状況の変化から自分で掴み取るものなのである。

     なるほど、と、感じます。
     或いは、この両方を、両立して。実現できれば、、、幸いなのだろうな。
     っと、気が付きます。

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