バランスと極端さ 個性の過剰さとシンプルさ
続けてもう1記事更新です。しかしここでタイムアウト!続きはまたしばらく間が空いて、後日になるでしょう。「少年寅次郎」をみなくてはなりません(笑)
今回は自己統合と「バランス」に関する補足記事です。
バランスとはなんだろう? 生命現象はカオスなバラバラの偏りではなく、動的でありつつ、静的な法則性とのバランスの中で維持されている有機体であり、
そのバランスが少しでも狂えば、一瞬にして死に至る繊細で精妙な秩序によって保たれている。それは「無意識」であるため、ゆえに「意識」に揺らぎの自由さが与えられる。
身体・自然界・生命体系は、創造・維持・破壊の循環性に存在し、その恒常性は物理的な法則性「秩序とバランス」で根幹を支えられている。
そして生命は無秩序(エントロピーの増大)へ向かい死(破壊)に至る。生命はエントロピーの増大への抵抗、でもある。
「バランスなきただのカオス」は、自由でも個性化でもなく、無機質さへの分解であり生命の否定である。一見カオスで無秩序に見えるその現象のゆらぎがバランスを根本から失えば、エントロピーは増大し、それ自体を維持できなくなり崩壊する。
ここで動画「 地球そして生命の誕生と進化 」の紹介です。この動画はかなり前に見たのですが、今見たらもう二百万回以上も再生されているんですね、内容も面白いですが映像のクオリティも高いです。
初歩的であっても玄人であっても、知的好奇心は大事。一時間もある長い動画ですので、時間がある時にゆっくりご覧ください♪
地球そして生命の誕生と進化 【完成版】
身体だけでなく、巨大な太陽も地球も月も銀河も、決してデタラメに無秩序な自由さ(カオス)で動いてはいない。
地球環境は驚くほど絶妙なバランスの中で恒常的に維持されている。地球は月とのバランスによっての地軸のバランスを保ち、もしそのバランスが崩れれば、生命圏に深刻な影響を与えます。
そして太陽の運動がバランスを崩し動きを変えてしまえば、一瞬で生態系が滅びます。
そのバランスの土台あっての多様なゆらぎ、生命・個性の表現に過ぎず、それを失えばゆらぎはただの存在の分解でしかなくなるのです。
太陽はパワフルで無意識に揺らいでいるが、決していい加減に動いてはいないし、一定のバランスを保っています。
地球の大気の99.9%は窒素、酸素、アルゴンで構成されており、それぞれ約「78%、21%、0.93%」に保たれている。このバランスがいい加減に変化し大きく変質してしまえば、あっという間に生態系は滅びるわけですね。
体も同じ。健康な時は全身のホルモンバランスが保たれているが、それが何らかの原因で崩れると病気を引き起こす原因になります。
血液もバランスで保たれています。腎臓は酸とアルカリのバランスを保ち、通常は弱アルカリ性に保たれています。
ところが腎臓の機能のバランスが崩れ酸性に傾くと免疫が落ちて病気になりやすくなり、また血中のナトリウム濃度のバランスが崩れると、低ナトリウム血症などを引きおこす原因になったりするわけですね。
生物多様性もバランスで保たれています。そしていよいよ深刻になっていくであろう温暖化による局地的な自然災害も、大気のバランスが崩れていくことで生じていると考えられています。
人為的地球温暖化説に対しては懐疑的である科学者もいます。その原因に関して諸説ありますが、その詳細に関しては省略し、以下の外部サイト記事を紹介しておきますね。⇒ 地球温暖化の科学的コンセンサスは存在しない
「意志決定」は事実判断のみではうまくいかないことも多いです。多元的な価値判断を含むことがあるからです。よって科学的合理性と社会的合理性もバランスが必要です。
そして経済も社会もバランスがあります。格差問題や雇用対策にしても完璧に理想どおりにいく完全なものなどなく、変化していく中で動的なバランスがとることが大事です。
変化していく個々の質・量の変化と複合的な組み合わせで保たれている動的なバランスは、固定的な静的なバランスとは異なり、変化に応じて保つバランスですね。
固定的な静的なバランス感覚は、ゆらぎに応じて変化していくことが出来ないため、状況・状態の変化に対応できず、
仮にそれがある空間・時間での状況・状態では適応的だった場合でも、場の状況・状態が変わってしまえばそれは役に立たなくなったり、逆に極端化し偏っていくためバランスを崩してしまいます。
たとえば今深刻になっている少子高齢化、年金問題にみられるシステムと現状のアンバランスさも、
「人口」や「経済」や「平均寿命」や「出生率」などの個々の要素の質・量の現状が、過去と比べて変化しているにもかかわらず、ある時期のバランスで作られたシステムがそのまま継続していることで、現在では不適切で偏り過ぎたシステムになっているにも拘わらず、
不適切な「過去の恒常性の型」を壊し、現在の恒常性を保つために新たな型を創造しない硬直さゆえに、バランスがどんどん悪くなっているといえます。そこでシステムの更新をしなければ、やがて社会が維持できなくなる可能性もあります。
アスリートにせよ何にせよ、あるパフォーマンス・能力が突出した人の正の方向性への「偏り」は、その逆の「突出した身体の恒常性(バランス)」に支えられている、とも表現できます。
人が「強力なゆらぎ」の生命力を持ったままでバランスがない場合、それによって中心力を失った無軌道なカオス状態に吹き飛ばされ、分解、崩壊、発狂へと向かうこともあります。
エロスとタナトスも陰と陽も、どちからが過剰に極端であれば全体を壊してしまう作用になる。
栄養も同じです。「ある栄養素が体に良い」からといって、他の栄養素をバランスよく取らずに特定の栄養素だけを極端に多くとれば、良いどころか悪い作用になってしまいます。
「日常」「仕事」「練習」「基礎」という「支点」は、「退屈さ・地味さ・繰り返し」の質を持ちながら、同時にそれはゆらぎに耐えうる高度なバランスを生みだすゆえに、大きな振り幅でも崩れない運動を生み出す土台となるわけですね。
振り子の揺らぎは、「支点」があることでバランスされ、それを失った自由運動は無秩序に投げ出され、揺らぎを失い停止します。
大きな揺らぎは正負の両方に振れるため、プラス面だけでなく大きな負荷もかかるので、コストを下げ効率的に秩序化するためには、小さな揺らぎにした方がやりやすい。
この「硬直した自己統合(揺らぎを殺すバランス)」が、現代日本社会のやってきたことのひとつであり、これによって、「大人しく真面目で非暴力的で、空気を読んで行動する小さく平均的にまとまった良い子たち」が量産された、という風にもいえます。
よく偉い先生とかが「それは私たちが求めた結果でもある」とか、そんな風なことをいいいますが、その世代の大人たちが求めたことであって、子供は誰もそれを最初から求めてなどいないんですね。
かつては大きな揺らぎと時間軸の中で包摂されていた「振れ幅の大きい存在」は、「発達障害」と呼ばれたり他の否定的なラベリングをつけらたりして、専門的なアサイラムで管理されるようになったわけですが、
これらのアサイラムの一面は社会的要請による去勢の拡大化であり、社会が求める適応の基準を満たさない存在への一方的なカテゴライズと抑圧が、「正当」なものとして認められた結果でもあります。
生き物としてのヒトを管理拘束し内外に雁字搦めにするやり方は、現代社会の生きづらさの本質にあるものです。だが通常の人であれば吹っ飛ばされるほどの揺らぎがありつつ、それでも社会生活が可能になるには、動的な調和状態が内的に形成されている必要があり、
そして昔は「自身の揺らぎの支点を他者・外部で補う」ということが、無意識的に行われていたために悲劇が多発した、ともいえます。「現在よりゆらぎのパワー・幅はあったが、他者が巻き込まれる形でバランスしていた」ということです。
「迷惑」というのは無知や無能から発生するものだけではなく、知能が高く有能でパワーがあるゆえの揺らぎが、自己でバランスできないまま、
「下や周囲の無知や無能な他者」を下支えにして、依存・支配する形でバランスされる(補われる)、という逆方向の「迷惑」も多々存在するわけです。いやむしろこの方が強い否定作用がある、といえるのです。
ただし、「迷惑な存在」として叩かれ蔑まれ疎まれるのは「下や周囲の無知や無能な他者」、のような「非力な者」に集中し、そしてスケープゴートにされて葬られるのです。それで問題が解決したことにしたいわけです。
「揺らぎ」に話を戻しますが、この「支点」を自己に内在化し、動的で調和的な自己統合へ向かう場合、揺らぎが生きたまま自律的にバランスされます。
ただこれは時間がかかる上に、周囲・環境も「ゆっくり・おおらか」であることが必要で、(だからセッカチでイライラピリピリの合理的&効率化の社会では抑圧式が選ばれた、ともいえるわけですが。)
この長い時間軸での人間の成長を許容できる空間でない場合は、マクロな形での達成は困難で、個々が主体的に環境設定をして取り組まないと出来ないでしょう。
とはいえ、主体的な環境設定が出来ないケースが多々あるから、専門的なアサイラムが必要になるわけです。その意味でこの流れも、現社会の状態に対しての合理的判断の結果です。
日本社会では「恵まれた環境に生きる選択自由度が高い個人」以外は、スクスクと自然にそれを達成する、というのは難しく、通常はかなりの開き直った屈強な変人性を持たないと、途中で潰されることになる確率が高いです。
無形な現象に詩を感じれないゆえに
敏感で個性的である心ほど 普通さ・平坦な無個性的な雑音の中にも豊かさを感受する 鈍感であるがゆえに「過激」で「極端」でなければ個性に映らない
教養や専門性などをその領域外にまで肥大させて権威化し 閉じた感覚で物事を特殊化し過ぎて 「突飛なもの」以外に創造性を感じれなくなる心を沢山見てきた
そのような心には 目立った個性的表現 感覚を刺激する個性以外は 「水や気のような表現の乏しさ」と映る 裏を返せばそれは己の感性の乏しさを表しているに過ぎない
舌が豊かであれば 「無味無臭の水」ですら味わい豊かになる 耳が豊かであれば「無個性な雑音」ですら味わい豊かになる どちらも貧しいなら 「刺激的な偏り」しか個性と捉えなくなる
「刺激的な偏り」もまた個性で味わい深いが そうでないものも全く変わらず味わい深い
ある種の専門性が 「決して権威化出来ない感性それ自体」を無自覚に権威化し 己が感性が条件付けられたゆえの錯覚と見落とし
訓練された故に 鍛錬された故に 特殊化した故に 気づけなくなる己が硬直性が 無自覚に現象の全体性に投影され 「非特殊さにある特殊さ」が見えなくなるパラドックスは 様々な権威 職業病的な固定観念として 日常的に観察される
権威化も専門的な条件付けもされていない子どもの好奇心・眼差しは 無表情な日常の無機質さ・無個性的に見える人間にすら 「膨大な豊かさ」を見る
それは「見る側の心」が「生きている」からである 「見られるもの」は「見るもの」によって切り取られる 「乏しい者」ほど 「見られるもの」に「目立つ何か」を「求める」
そのような鈍感な心は 「見られるもの」に激しさや極端さがないと 己が感性が踊らない 楽しめない
それを「己が過剰さ」と錯覚するが 実際は己が貧弱さゆえに 外部の過剰さでやっと感性が反応する という「愚鈍さ」である
変性した偏りと刺激しか対象の存在感・豊かさを感じれない大人は 芸術家などと言われていようが 著名だろうが何だろうが 赤子の前では「お前はもう死んでいる」も同然
「見る者の感性が乏しい」ゆえに 「見られるもの」の方を「豊かさがない」と自己投影するパラドックスを 己が権威性・プライドゆえに認められないくらいにカチカチコチコチならば
そんな硬直した心は 「赤子」のような自由な創造的変容が生じる柔軟性などもはやない
ではラストに一曲♪ ギルバート・オサリバンで「アローン・アゲイン」です♪
Gilbert O’Sullivan – Alone Again (Naturally)