孤独感・無価値感と均一化の関係 「人の目を気にする・気にさせる」心理
今回は、孤独感と無価値感と均一化の関係、そして「人の目を気にする・気にさせる」心理というものをテーマに書いていきます。
「OECD加盟25カ国における15歳の孤独度調査」によれば、
経済開発協力機構(OECD)加盟25か国を対象に行われた 15歳の意識調査において、日本の子どもが29.8%と最も多 く「孤独を感じる」と答えた。 以下、アイスランド(10.3%)、フランス(6.4%)
イギリス(5.4%)などが続いているが、日本は突出している。という調査結果があります。参考PDF⇒ OECD加盟25カ国における 15歳の孤独度調査
何故このテーマを選んだのかと言えば、孤独や無価値というものは、「それ単体」では全然否定的なものではないのです。そして「人の目を気にする」ことや集団と調和的にあろうとする心理も「それ単体」では全然否定的なものではないのです。
にも関わらず、孤独や無価値、「人の目を気にする心理」は、様々な問題を生み出す原動力のひとつになっているからです。
「人の目を気にする・気にさせる」心理
「人の目を完全に気にしない状態」が平気なのは狂人か、ある種の人格異常、麻薬でイっちゃってる人や激情に我を忘れた瞬間などであり、通常は多かれ少なかれ他者・周囲を意識した言動・挙動をとろうとするものです。それは自体は自然な健全なことです。
ですが、そこに「均一化への同調圧力」が外的な心理的干渉として強く働いているような環境では、「人の目を気にさせる」方向性へと人々の心理を強く揺さぶり条件付けていくため、それが徐々に強化され、慢性化し、常に反応するようになっていきます。
そうなってくると、「それ単体」では人を苦しめる否定的なものではなかった孤独や無価値という状態が、私たちを苦しめるもののように感じ始めるんですね。
そこで孤独や無価値から抜け出そう、あるいはそれを極度に恥ずかしいことだと意識誘導されるわけです。本当の原因は「孤独や無価値にあるのではない」にも関わらず。
「J-CASTニュース」 より引用抜粋
(前略)
「便所飯」は度々話題に登ってきたが、サンリフレホールディングスが調査したところ、自宅または学校、会社などの公共のトイレで食事した経験があるのは全体で12%いて、20代が19%。30代が13%、10代が11%という順位になった。サンリフレホールディングスの調査担当者に話を聞いてみると、自宅と公共の割合はどれくらいかの数字はないが、公共トイレで食事経験がある人は結構いる。
20代で「便所飯」の経験者は女性が80%と圧倒的に高く、公共トイレでの経験者も多いのだという。こ調査は13年1月24日から2月25日に行われ有効回答数は2459人だった。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
そして隠れるのとは逆に、「孤独から抜け出すため」に、あまり好きでもなく相性も良くない人々と無理に付き合って関係の継続を不自然に頑張ってしまったり、仲違いしたりして、さらに孤独や無価値を恐れるようになっていくわけですね。
まぁ「百ゼロ思考」的に、「表面的な関係」を全て無用とか依存だとか言って切り捨てるのは簡単ですが、私はこれはある程度は仕方ないものだと思うだけでなく、
そういう浅い関係から広がっていくこともあるわけだし、それをキッカッケに他の人との出逢いなどもあったりするので、それはそれで、ひとつのスタンスとしてありだと思いますが、
ポイントはそこではなくて、孤独や無価値から逃げているだけ、あるいは、それを意識したくないから紛らすために人と付き合っているような、そういう関係のみを心の拠り所にしてしまうと、それはとても不安定な状態であり、むしろ孤独感や無価値観は潜在的にさらに高まっていきます。
そしてその関係が壊れた時、意識しないよう抑圧してきた孤独感や無価値観が一気に姿を現し、あなたを負の力で飲み込みます。
何故日本人には無職者の自殺率・鬱が多いのか、あるいは高齢者の犯罪率が高いのか、これって他国では同じではないんですね、日本でそうなる原因は、孤独や無価値そのものに原因があるのではなく、
孤独や無価値を恐れるような同調圧力と心理的な束縛が強く、その結果、そこから逃げる、それを紛らわせるために人と付き合って、そういう浅い関係性に長く妥協的に依存してきたために、
いざ会社を離れた時、あるいは年をとった時、身内以外に頼れる人、本当に理解してくれる人が少ない、またはいないために、心のバランスを失った時に一気に底まで落ちてしまうんだと思います。
「自我の脆さ」を支えるものというのは、単に社会的なシステムを作って対応するだけでは不十分であり、個人それぞれの人生としての取り組みが必要でしょう。
人間関係は無理せず依存せず楽に自然に、ということは大事なポイントですが、かといって、ちょっと意見が合わないとか、数回喧嘩した程度で何でもかんでもスグにバッサリ「百ゼロ思考」では、そこには広がりも展開も可能性もありませんので、
出来る範囲で多少は許容量をアップしていく方が、面白いんじゃないの?と個人的には思います。
虚無化された社会
孤独や無価値を恐れ「人の目を気にする・気にさせる」心理に束縛された結果、その人の本心での生が薄く蔑にされ虚無化している、というこの私たち日本人によくみられる認識の歪みは、今までこのブログで書いてきたように、日本社会の問題の原因のひとつでもあると感じますね。
そして「おひとりさま」はこれからさらに大きな社会現象になっていくと予想されますが、「おひとりさま」といってもその中身はいろいろあるわけです。
悠々自適の孤独を楽しんでいる方も沢山いれば、激しい孤独感と虚無感・無価値観・寂しさを感じて苦悩する人もいるのです。
孤独や無価値への恐れと、本心での生を蔑にしてきた結果がどうなるのかというものはリアルな生の問題でありながらも、まだ心身の元気がよく仕事も順調で特に大きな不幸もなければ気づかないまま見過ごされ、
そして特に若いうちはなかなか明瞭に予測できないことであり、日本社会のような慢性化した「人生の虚無化」の成り行きは、老後になって初めてその無意識の負の蓄積に気づく人もいれば、社会的な弱者になって噛みしめる人、大きな病気・大きな不幸を経験して気づく人もいます。
また現代のように「死が隠された社会」では、人はリアルな生の奥行きに気づきにくくなっているんですね。その上さらに心身が健康でそれなりに上手くいっている人であれば、「意識に負や影など存在していない」という麻痺した平ぺったい生の感覚になっていることでしょう。
ですが、そういう麻痺した人であっても、特に老後になってからそれは二重苦・三重苦となって一気に現実に投影されて襲ってきます。
社会も個人も共にそういう領域をキチンと見つめて対応してこなかったし、後回しにしてきたために、今、若者や子供たちの心の問題だけでなく、老人の心の問題も深刻化しているわけですね。
「第18回 老人問題」 より引用抜粋
(前略)
「姥捨(うばす)て山」化した「老人病院」はなぜ生まれたのでしょうか。それは、私たちが高齢者問題を社会的問題として捉えることができなかったことに原因があると思われます。私たちは長い間、「年老いた親の面倒を看るのは子のつとめ」という文化のなかで暮らしてきました。そして、意識のなかには、依然として、それがお年寄りにとって一番幸せだという思いがあるように思われます。
(中略)
このように、老人問題は社会の仕組みや構造が原因となってもたらされる避けがたい問題であるゆえに、これは社会問題として対策を講じなければならなかったのです。しかし、現実には個々の家族の私的な問題として捉えられ、これまでずっと家庭内で問題を処理することが求められてきました。
その結果、お年寄りは「病人」として病院にあずけられ、前述の老人病院のような悲劇が生まれることになったのです。 それならば、家庭で息子や孫とともに老後を送ることができれば人は幸せなので
しょうか。高齢者の自殺率をみると三世代同居の場合が一番高く、一番低いのは一人暮らしだそうです。
自殺理由の多くは「病苦」となっていますが、実際は「家族関係のもつれ」が原因だといわれています。人は一人暮らしの寂しさよりも、家族のなかにいて居場所を失う孤独感に、より耐えがたいもの
を感じるのでしょう。核家族であるか三世代同居であるかという家族の形態は、人が感じる孤独感とは必ずしも結びつかないようです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://www.sotozen-net.or.jp/soken/seimeirinri/seimeirinri-18
参考PDF ⇒ 高齢者の自殺とその対策について