個性と「嫌われる勇気」 「凡庸さ」という支え 

 

久しぶりに更新です(^-^)、ブログから随分と長く離れ、日々様々な取り組みの連続であっという間に時が過ぎていきました。

 

過去に途中まで書いて放置していた下書き記事が複数あり、幾つかを仕上げたのでここから続けて更新します。今回は、去年からのテーマである「行動」に関連する補足の記事でもあります。

 

ではまず一曲、あいみょん で「 夢追いベンガル」です♪

 

 

巷ではよく「個性」とか「個性的」っていいますが、私は個性とかって「何か人と違うことをする」とか表現するとか、拘るとか、過激な表現とか、そういうものじゃないなぁとよく感じます。

 

また大衆的なものに対する反発や反動から生じるものではなく、「それ以前に元々あるもの」であり、意識しなくてもされなくても「何かになろうとしていない自然体」は、既にそれ自体の個性を持っているわけです。

 

ナルシスト的な美学や観念で、頑なに自意識過剰で「個性」を主張するのであれば、その手の個性は後から造成され拡張された新興宗教の盲信者の信念とあんまり変わらないし、

 

そういうのは本来の個性というより、後天的に変性した「拘り」の一種が「何かになろう」として肥大化したもの、ともいえるでしょう。

 

むしろ個性は、「変性的な拘りがない状態」の時に現れる「初めから誰にでもあるもの」であり、はじめから在り消えないのだから、自意識過剰気味に防衛したりする必要は一切ないんですね。

 

そういうものが「それ自体のルーツに根差したもの」なんです。

 

ところが、元々の自分の個性を否定して、何か別の者に無理になろうとする時は、自我は観念で自身のありのままを上書き編集しようとするため、

 

逆に自分のルーツに根差した個性が消える(実際は完全に消えるわけではない)、というパラドックス状態に陥り、その上書き編集された何かを個性だと思い込む(思い込みたい)わけですね。

 

そういうものが疑似アイデンティティ状態、といえるでしょう。疑似アイデンティティ状態でよくあるのは、やたら大衆的価値へ反発するとか、誰かへの抵抗や反動から生じたものであり、

 

それは裏を返せば大衆的価値への依存であり、誰かや何かへの依存であり、「そこから自由ではない囚われた状態」ですね。

 

結局 は「別の顔した同質のもの」という意味で「無個性的」な「偽物」 であるわけですが、

 

相互媒介的な「無個性の似た者同士」とはいえ、「アンチテーゼを投げかけている一方の側」だけが「個性」やら「美学」やらをやたら声高に主張する。

 

本来、「誰にでも元々あるもの」をそんなに声高に主張する必要などないんですよね、「コンプレックスから生じた無個性な自我の反動パターン」だからこそ、そういうことに妙に拘るわけですから。

 

犬が犬であることを主張する必要がないように。ですが、犬が大きく見せようとしてクマのフリをしている時は、自他共に不自然さ・違和感を覚え、「無理してる」ので目立つでしょう。

 

人は人であることを主張する必要がないように。ですが、人が大きく見せようとして神やブッタのフリをしている時は、不自然な感覚を生起させるでしょうし目立つでしょう。(笑)

 

人は生まれてから死ぬまでずっと人でしかありません。   そして「本物」っていうのは別に一番優れているものとか一番正しいもの とかそういうよく使われる意味合いだけではなく、

 

「自然体であるそれ自体の姿」が既に それぞれの本物なんですね。この「本物」は「到達点」ではなく「出発点」であり、そこから歩んでいけばいいだけです。

 

強迫観念的に信仰している状態って、逆に「無個性的」、あるいは「自分の本来の個性はダサい(劣っている)と感じている」ことへの反動から生じた「個性の否定」、ということですね。

 

だからその場合はニセモノが出発点になっているわけです。「あなたはもともと個性的な本物」だったのに、誰かの個性のコピー版になってしまったね、という感じですね。

 

あなた自身の個性はあんまりかっこよくなく、「あっちの方がかっこいい尖っている感じ」だったから、あっちに流されて「擬態」した、という感じです。

 

その「擬態」を「個性」とすりかえ、「ワンパターンなありきたりな美学」にハマっているだけの美意識の低さにも気づかずに、そんなものを「人と違う生き方」などといいながら、

 

実際のところ「尖がった生き方」の人気メニューでよく出てくるよくある「型」を、後追いで「俺様の美学」などと拘っているその姿は、「大衆以上に大衆的な無個性状態」であるわけです。

 

素直で単純な大衆感覚を嘲笑いながら、その大衆性を背景に、己が個性を際立たせるという『「己のインスタ映え根性」には無自覚まま、インスタ映えを嘲笑する大衆的な人』のパラドックスなのです。

 

カルトにハマる人々の状態も似ていて、「強烈に目立つ他者」の肯定によって自身の個性を上書きして否定している状態であり、

 

それはある種の「自己愛性パーソナリティ」のナルシズム状態にみられる、「本来の自身の個性を認められず否定している」という点で「無個性的」であり、

 

特定の「個性の在り方」「何か別のもの」に分離的に統一しようとする強迫観念的な方向付けなんですね、

 

同じく、「世で目立つ嫌われる勇気のある人」のスタイルを真似して、後追いでやっているだけなら、そんなもの全く「嫌われる勇気」じゃなく、思考停止であり自己防衛そのものです。

 

「嫌われる勇気」っていうのは、何か目立つ過激な人の言動の後追い的なことをすることではなく、

 

ダサい(劣っている)と感じている「等身大の自分の本来の個性」も含めて、変性した拘りも防衛心ももたないまま歩む勇気です。

 

「嫌われる勇気」が「かっこいいからそうする」というのであれば、それは「かっこつけしいのコンプレックスから生じた拘り」でしかなく、「全然嫌われることに勇気がない状態」なんですね。

 

崇拝する人が少数はいるということがはじめにわかっているモデル(型)を選んでいる時点で、何の自信も勇気もない「予防線を張り巡らした選択」です。

 

本当は勇気などないし寂しいから、「みなでなくても誰かには熱狂的に崇拝されたい」、

 

本当は嫌われたくないから、「みなでなくてもファンを含む仲間からは間違いなくかっこいいと思ってもらえ、そして共感してもらえることがわかっている特定の対象・様式を選ぶ」のです。

 

昭和の頃のようにまだ風当たりが強かった時代に始めるとかならともかく、今時、芸術や音楽とかでこれを過度に主張する輩は大体その典型ですね。

 

今は既に「アーティストという生き方」は広く承認された世界です。むしろ「挑戦者・失敗者に厳しく冷たい自己責任社会」において、「起業する若者」の方がリアルにロックロールだし、

 

例えば高橋祥子さんとか頭脳は理系だけどハートは凄くロックンロールな感じがしますね♪

 

他にも、男女双方からかっこいいとかほぼ思ってもらえない上に嫌悪され白い目で見られることも多い「虫取り」とかにハマっているような彼らこそ、「本当のヘビメタ野郎」でしょう(^^♪

 

 

ですが「かっこいい(あるいは自身の理想像)」を目標にして、自身の「現実と理想」のギャップを埋めるために日々試行錯誤し挑戦し実践する「行動」は勇気だし、

 

その過程で馬鹿にされ笑われても諦めずに実現していこうとするなら、その取り組み・行動には「嫌われる勇気」も含まれているでしょう。

 

そうではなく、本人自身は何を挑戦するのでもなく行動するのでもなく、ただ「実践なき鑑賞者」として上っ面でマウントするだけなら、それはとても虚しい生き方でしょう。

 

「優れた有名人のコトバ」で「それとは全く無関係な自身」を守らず、「自身の実際の体得から生じた知」とは無関係な本の知識や、「他人の経験値・創造性・人生の描写」に過ぎないもので自身の素の現実を上書きしようとせず、

 

「全然かっこよくない、かっこいいとは言われないあなたの個性」、「持って生まれたもの」、「今のあなたの人生・行動・実践の段階」で「ここから」始めてみましょう、ということです。

 

嫌われようが笑われようがダサいと言われようが、誰もやっていないことでも気にせずに飄々と突き進む、

それこそがあなたのロッケンロール魂♪ 

 

まぁしかし、みながロックに生きる必要なんてないんですが、あなたのロックな心のままに生きるには「嫌われる勇気」を持ちましょうね、ということです。

 

それは将来どうなるかもわからない予測不能なものでしょう、そして不安だらけかもしれませんが、「それでいい」と、「ここ」から一歩一歩進めることの中にあなただけの生きた詩が宿り人生物語が育ちます。

 

あなたの人生物語を上書きするのは他者の人生物語の鑑賞ではなく、あなた自身の「行動」です。

 

「凡庸さ」という支え 

 

むしろ、凡庸でも、宗教やらイデオロギーやらを盲信して正義を振り回したりせず、家族を大事にし、一般人を馬鹿にせず、地に足をつけて驕らずに生きてきた普通の人間の方が何倍も立派だと思います。

 

凡庸にすらなれなかったような人ほど、凡庸や大衆的なものを笑います。そして自分たちは高い次元にいる、個性がある、教養がある、高尚で知的な存在である的な、凡庸さへのマウントをしたがります。

 

そんな連中から無個性だとかつまらないとか、無知だとか笑われながらもシッカリと生きている、「極普通のおじさん」の方が、私にとっては遥かにかっこよく頼りがいの在る本物の存在なんですね。

 

「極普通のおじさん」「極普通のおばさん」「極普通の若者」たちこそが、現実の仕事を通じて土台・基礎をシッカリと支えているからです。

 

そういう日常的な当たり前のものや大衆という次元を見下している連中こそ、そういうものに支えられて生きていることを当前のことだと思い、

 

「才能だの道徳だの宗教だの芸術だの、ウンチクで遠吠えしているだけ」で、人の役に立たず社会に負の影響ばかり与えてる(与えてきた)ような傲慢な大人だったりするんです。

 

でもそんな連中ですら、凡庸な人々のシッカリした働きが、社会という「場」を日々回し維持してくれていたから、傲慢でズレていても、何かに失敗しても、再び戻ってこれるのであって、

 

戻ってこれたのは、本人に考える力があったからでも自力で解決したわけでないんですね。

 

異常やズレを自覚するには、日常をシッカリ維持する人々がいてこそ相対化され・意識化出来るのであって、社会全体がそうならば、その場において気づくことなど不可能に近いことでしょう。

 

病気だってそうです、「健康な状態の体」があるから「病気になった体」がわかる、「通常の意識状態」があるから、「幻覚」がわかる、みなが統合失調症だったら通常の意識状態が何かはわからなくなる。

 

「場を支えている実直な思考と行動と様々な役割をきちんと遂行し実現するの人々」がいてくれたからこそ、己の脱線と逸脱が意識化され明確化されるわけです。

 

表舞台で奇抜なことが出来るのも、目立つ過激なことが主張できるのも、才能を大きく広く開花することができるのも、

 

それ以外の人々がシッカリと縁の下で「場」を支え、あたりまえの地味な、でも必要なことを放り投げずに、そこに居てそれをしてくれている、してくれていたから出来ることです。

 

人々に愛される凡庸な大衆文化もまた、ちゃんと役割と価値があり、多くの人々の心の支えになる「力」がちゃんとそこには宿っているんですね。

 

世の中の普通のおじさん、おばさん、兄ちゃん、姉ちゃん、あなたが、派手さはなくても目立たなくても、一人一人がその場を支えている見えない大黒柱です、

 

そんなみなさん、今日も一日お疲れ様でした。(^-^)

 

ではラストにもう一曲、Valentina Lisitsa さん演奏のChopin Etude Op10 No.1 です。この曲NHKの「ピアノの森」のオープニングテーマにもなっていますね、とても好きな曲です♪