狂人とは理性を失った人ではない狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である

 

 

この記事も昨年下書きだったままのものに追加の編集・更新をしたものです。

 

この記事の長いタイトル「狂人とは理性を失った人ではない 狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である」ギルバート・キース・チェスタトンの言葉ですが、

 

狂気にせよ正常さにせよ多元性があるのでこの限りではないし、また私は彼の有名な著書「正統とは何か」を全肯定するのでも全否定するのでもありませんが、チェスタトンアンチニーチェとでもいうべき真逆の思想で、その切り口はニーチェとはまた異なる質の面白さを感じます。

 

 

今回の記事はチェスタトンとは関係なく、異文化コミュニケーショに少し関連するテーマで、例えば専門家と一般の方の理解の差や分断、価値判断の差異での人々の分断などの現象がアチコチでおきていますが、

 

そういうものが「理性」「論理」では解決せず、むしろある程度上手くいっているのは、「感性」を軽視しない人の方であり、「感性」の方にメインにスポットを当てています。

 

人は知識以前に感性があり、知識の正否だけをジャッジして是非の判断をしているのではなく、論理的に国語力だけで文意だけを読んでいるのではなく、それ以外にも「伝わるもの」が同時にそこにあるわけですね。

 

理性や論理性ってそれが重要になる分野もありますが、そういうものがあんまりというか殆ど通用しない分野とか、物事の解決に繋がない、ということは日常でも多々あります。

 

「論破」とか「議論」とかもそうですね、「I have black friends 論」とか、「水戸黄門的な勧善懲悪」の世界観とか、「ストローマン/藁人形論法」だとか、

 

Whataboutism/そっちこそどうなんだ論法」とか「どっちもどっち論法」とか、それを言う側は相手がやってる時だけ「○○論法だ」と責めて相手をやっつけた気になっていますが、「自身が同じあるいはよく似たことやっていること」には相手がやっているのと同じくらい敏感には気づかないものです。

 

2019/7 追加更新で池谷裕二 氏のツィートの引用です。人は自身が公正であると思っていても、「自分たちの側」=『身内・仲間・所属コミュニティー・同属性・特定の内集団』など、自身が同調・同化している側にプラス(甘くなる)に傾き、

 

反対・非共感的・異質な「ソト」の対象にはマイナス(厳しくなる)に傾きやすい、という「自分たちの側に都合よく解釈するバイアス」がある、ということですね。

 

 

気にいらない相手の手続き的正義の問題に対しては容赦なく執拗に攻撃し、攻撃している側にも似たような手続き的正義の問題が発覚した場合は、実体的正義の問題に論点をすりかえ、

 

そして自分がやれば批判、相やれば人格攻撃」になり、「分がやれば適切言い回し、相手がやれば過剰なレトリックとすりかえたり、

 

自身は批判してくる人や気に入らない相手に否定的ラベリングを多用して侮蔑表現を含んだ人格攻撃を度々しておきながら、相手から別の否定的ラベリングを使われたり人格攻撃されると「侮蔑的なレッテル張りだ!」と過剰反応し、

 

また、攻撃されると急に「自称:議論のルール」とかを提示し始めたり、まぁそれ自体は別に構わないですが、問題は「まずは塊より始めよ」という気概がないことで、「言い出した本人がそれを守り続ける、という当たり前の誠実さ・一貫性」がないことですね。

 

私を不快にさせ怒らせた相手は常に「悪」「下」「劣」の存そんな相手に対して私は常に「正」「上」「優」の存在、よって相手はただ私に否定されるか殴られていればいい 』『「正」「上」「優」の私の表現は自由、私を不快にさせ怒ら相手の表現には制限・圧力をかける!』

 

このように「自分はOK、相手がやるならNG」の自己愛性が「自称:正義」と結びつくとさらに横暴になるわけですね。「舌の根の乾かぬうちに自らのルールを破って相手と同じことをする」という軽薄さ、不誠実さ、鈍感さのまま「相手には要求しながら自分は守らない」を反省することも謝ることもせず、

 

相手の間違いだけを執拗に攻め謝らせようとするという姿は、仮に無宗教であっても「ひとり教祖」そのものでしょう。

 

自分に対してだけは特例でルール対象外で「反則も可」に出来るような「面の皮の厚さ」は、権力者の無自覚な暴力の構造と相似形をなしているにもかかわらず、何食わぬ顔で権力者(あるいは強者側)の横暴を叩く灯台下暗し。

 

その「鈍感さ・無自覚さ」が意識化されないまま権力・権威性を持った時に人間は横暴なことを平気でするようになる、という皮肉なパラドックスが見えないまま、結局「同じもの」が「形だけ」変わりながらループしていくわけですね。

 

「批判する者の中にこそ批判される者がいる」というパラドックスが見えないまま、この小さな独裁たちは先鋭化し、「常に自身だけを正とし常に相手だけを負とする傾向性」を強化し続け、「分断」を強化しながら「止まることが出来ない」ため、とても厄介な人達です。

 

世の中をどんどん潔癖で息苦しいルールで隅々まで満たして庶民の自由を雁字搦めに規制強化しつつ、己等は治外法権的に振る舞うので、叩かれている権力者よりも権力的で暴力的です。

 

この傾向性の強い人はターゲットを探してはいつまでも同じことをし続けるので終わりがないんですね。なので基本的には「関わらない」のが一番です。私は悪趣味なので(笑)、このような「現象」の構造性を分析・考察ために関わることはあります。

 

総論賛成・各論反対」もそうですね、自身と反対の意見をすぐに頭ごなしに潰したり様々な異論を無視してブロックやスルーしたりせずに、そしてすぐに結論したり断定したりせずに、

 

ちゃんと耳を澄まして、潔癖すぎる理想論ではなく、実現可能な現実的な落としどころを見つけていくしかない、というのが現場における解決でしょう。

 

ではここで一曲、オーストラリアのギタリストでアコギの神様といわれる「トミー・エマニュエル」さんの演奏で、How Deep Is Your Love(愛はきらめきの中に)です。暖かく柔らかい素晴らしい音とリズムですね♪

 

 

 

専門分野にもよるでしょうが、専門家が「一般の方にももっと理解してほしい専門的な部分」というのは結構あると思いますが、

 

「理解できない人」こそが最も対象であるはずなのに、大概は「既にわかっている人か、読めば素直に理解できる人」しか読まないんですね。これは認知バイアス「知識の呪い」「投影バイアス」が関連しています。

 

 

知識の呪い (Curse of knowledge)
専門知識を持つ集団は、その知識を持たない人達の考えを想像する
事ができない傾向。

投影バイアス (Projection bias)
他の人が自分と同じように考え、自分の意見に同意するはずだと考
えるバイアス。
引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html

 

知識がない相手、あるいは自身とは異なる知識体系や文化に属する相手のことを全く想像できずに「投影バイアス」で語るわけです。それだとただ同意見の人が集まるだけで、その人たちの確信を深めるだけに止まるわけです。

 

 

エリート層と『EXILE問題』 より引用抜粋

ことの発端は昨年、俗に意識が高いといわれる大学生たちと渋谷のカラオケに行って一晩中歌ったとき。中島みゆきからAKB48、サザンオールスターズからONE OK ROCKと、 様 々な人気アーティストの歌をみんなで歌っていたところで気づいたのだ が、誰もEXILEを歌わない。

もちろんみんなEXILEを知っているし、なんなら三代目 J Soul Brothersの「R.Y.U.S.E.I.」のあの特徴ある踊りだってカラオケ来る前にみんなでバカ騒ぎしてやったじゃない。でもやっぱり歌わない。

その場で調べてみれば、J Soul Brothers from EXILE TRIBEは2015年上半期総売上は56.3億円(2016年は上半期総売上で76.9億円)を記 録して1位 (http://www.oricon.co.jp/news/2073849/full/)。

EXILEについて言えば2007年から22曲連続シングルでオリコン1位か2位 を取っている。僕もEXILEは特に好きじゃないからいれないわけだけど、

6時間歌っていろんなアーティストが出たのにも関わらず国民的グルー プEXILE(またはEXILE系のグループ)の曲が一度も出ないことは少し懸 念するべきことなのかもしれないと思った。

(中略)

でもなぜこの問題を今回とりあげたかというと、『EXILE問題』の本質 はエリート層としての責任だと思うから。

育ちが良くて当たり前のようにMARCH以上の大学に入って、当然商社や広 告代理店、外資系などを狙って、将来は何らかの形で社会のリーダーにな る可能性が比較的高いエリート層の人たち。

社会の全部が見えていないリーダーなんて怖いったらありゃしない。それ ぐらいちゃんとしてよ。つまりそういう話なんだと思う。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ エリート層と『EXILE問題』

 

 

EXILEって実際にどの程度カラオケで歌われているのでしょうか?1994年4月~2018年10月の期間にもっともカラオケで歌われた歌手ベスト10(第一興商通信カラオケDAM調べ)によると第2位です。

 

【もっとも歌われた歌手ベスト10】

第1位 浜崎あゆみ
第2位 EXILE
第3位 Mr.Children
第4位 GLAY
第5位 サザンオールスターズ
第6位 倖田來未
第7位 北島三郎
第8位 美空ひばり
第9位 B’z
第10位 五木ひろし

 

世の中には「自分が理解できない人」の層は想像以上に多いものなんですね。これは「知識」だけの問題じゃなく「非言語的なもの」が絡んでいることもあるし、利害関係の対立などもあるので、

 

「知識」と「論理」のみで「文脈」を正確に解釈出来る国語力があれば誰もが理解できるはず、というのはとても浅はかな思い込みなんですね。

 

なので専門家以外に、周縁の人、一般の「中間のグレー存在」が関わることがもっと必要なわけです。捉え方の感性が異なる者たちの多様なアプローチが必要です。

 

何故かというと、良心的な専門家ほど責任感も強く慎重なので、極端さや知的な脱線をセーブしなければならない社会的立場だから表現の多様性が抑えられ均一化・平均化してしまうのです。

 

そうなるとやっぱり多様な相手、凹凸やゆらぎが存在する複雑系のこの世界に広く深くは届きません。なのでどんどん情報格差のように「わかっている人」と「わかっていない人」が分離します。ですがそれでいいんですか?それが目的ではなかったでしょう?

 

ならば本来は「伝える側」が方法を変え工夫しなければいけないはずですが、あまりやらないんですね、というか「感覚がわからない」から出来ない、と言う方が正確かもしれません。

 

「感覚がわかならない」は、コンテクスト(言葉の背景にある価値観や行動様式)を知らないからです。同じ日本人、同世代、同属性、あるいは同じ組織にいた人などでも、全く同じではなく、個々に様々なコンテクストがあるのです。

 

ではここで、TEDの動画「コミュニケーション中の脳の反応」を紹介します。「同期」とはどのように起きるのか? の脳科学的メカニズムですね。

 

我々のコミュニケーション能力は いかに共通の背景を 有するかに依存します
(中略)
脳波が同期することは 基本的な概念を理解する能力だけでなく共通の背景を増やす能力や 理解力 そして 共通信念にも依存するのです  多くの場面において 人々が全く同じ話に対し 全く別の理解を示すことがあるからです
(中略)
結局 連動しようとする人々同士が 自らを形成していくからです 他の人の脳と連動したいという 我々の願いは 初期の人類すら持ち合わせていた とても基本的なことです

TED 「コミュニケーション中の脳の反応」

 

そして「EQの高い人」の一部には、相手のコンテクストの理解力、聴く力がとても豊かな人がいますが、これはまずステレオタイプの類型化、で他者を単純化してカテゴライズせずに、

 

言語的コミュニケーションや文字情報に偏った把握をせずに、「論理」や「正しさ」で白黒を分けて説き伏せようとせず、相手のコンテクストを感性で感じ取り、非言語情報からよく見てよく感じとり、よく聴くということが出来るからわかることなんでしょう。

 

「EQの高い人」の一部は、相手のコンテクストを理解するだけでなく、非言語情報を言語化・概念化せずに「そのままの質」として感じ取る感覚も発達しています。その理解がまた「非言語的に相手に返される」ので、相手は言葉の「背景」にその質を感受しながらコミュニケーションします。

 

「それが背景にある上でのコトバ」と、そうでない理屈の応酬での「意味」だけの冷たさでは、全く同じことを話していてもまるで別のものになることもあります。(分野、テーマにもよりますが。)

 

単純化してカテゴライズせずにラベリングなく対象を感受するとき、そして「異なるもの」への耐性(おおらかさ)があり開放性がある時、そのような時にしか開示されない非言語的な情報があります。

 

なので「正しさ」を前面に押し出して語るよりも前に「論理」以前に、「感性による理解」と「伝わること」が背景にあることが大事なのです。

 

そこに宿る質は、言語以上に多くを語っています。それが頭ではなく感覚そのものでわかっている人は、潔癖な理屈のリターンをすることは滅多にしないし、論破好きな性格にはまずならないんですね。

 

「論理」で突っかかる人は「気が強い」とか「変わってる」とかじゃなくて、「異質な相手を理解していない(したくない)」まま、「伝えるということ」も表面的なままで「正しさ」で戦うんです。

 

頭・思考とその言語化だけでパターンに存在を押し込めて記号化して論理的に片づけようとするので、「理性の鈍感さと暴力性」には全く気づかないままなんですね。

 

専門分野では畑違いであれば知識の土台が異なるので理解に差が出ますが、そういう違いでなく「知識はそれなりにあっても、感覚がわからない」というコミュニティの質感の差異がありますね、

 

そこがあまりに「異種」の組み合わせだと、相手にスッと伝わるような表現にならない、入り口で拒絶されるという大きなズレが生じるわけです、違和感が強すぎる時は、それはもう理屈じゃなくて「受け付けない」んですね。

 

だから、「中間のグレー存在」は、むしろ多少脱線しても「相手が慣れ親しんだスタイル」=コンテキストを汲み取り、敢えてそこを「入り口」にするくらいのおおらかさがある方が、専門家の届かないエリアにスッと届けることが可能になるわけです。

 

そういう風に自他の表現も含めておおらかに捉える人がいないと、「理解の入口にすら入れない人も沢山いるんですよ」ということがわからず、「EXILE問題」のような「置き去り」が生じるわけです。

 

その結果、「自分と全く交わらない集団」のリアルさが感じれなくなり、どんどん分断は進み、やがて「敵か味方か」みたいな対立的な関係性へと進み、ますます深刻なことになっていくのです。

 

「なんでこんな人が存在するのか!」とか、あなたの周辺には滅多にいないタイプの人だとあなたが思っているだけで、実際は「沢山存在する」だけでなく、

 

それどころか向こうもあなたを「なんでこんな人が存在するのか!」ぐらいに思っていたりするわけです。(笑)入り口に入れば、そこからやっと理解の糸口が見えてくるわけですね。