神秘系カルト組織・一人教祖(スピリチュアル霊能者含む) 発生構造と原因
今日は「認知的不協和」「防衛機制」「アノミー」という概念を中心に、犯罪心理学、深層心理学、宗教学から見た神秘系カルトや一人教祖として活動するスピ系霊能者の「発生構造と原因の検証part1」です。
神秘系カルトというのは、そもそも個人の「スピリチュアル系の霊能者」が起こすものであり、スピリチュアル系の霊能者が組織を作らなければ、カルト組織は発生しません。ですが組織化はせずとも、個人として霊感商法の類を行う場合もよくあるわけです。
ルーツは大体が神智学や密教、あるいはキリスト原理主義やユダヤ神秘主義など、昔から存在する宗教概念の寄せ集めと編集版であり、
私が調査したところ、日本のカルトの中には魔術的な図形である魔方陣などを使用して、集団で魔術を行うようなカルトなどもありますが、まぁ日本に古来からある密教呪術の霊符なども魔術といえば魔術でしょう。
「認知的不協和」
「認知的不協和」というのはアメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱されもので、今ではすっかり有名な理論ですね。
「禁煙」が何故簡単に出来ないか?の説明や、予言やカルトを信じ続ける人の心理などにもよく使われている理論ですが、私はこれは部分的には真実とは思っていますが、これだけではカルトの問題は到底説明しきれません。
カルトの問題は個人的な心理学的なものだけで発生しているものではなく、もっと複合的で、家族・コミュニティー・社会・宗教の歴史・時代の流れなどを含む総合的な現象だからです。
「認知的不協和」というのは、人々が自身の中で「信じているもの」や「世界に対しての理解」と「矛盾する認知」を同時に抱えるような時、
例えば、目の前の事実や新しい事実を突きつけられ不安に脅かされるような時、「自己矛盾」から人は葛藤・疑念・不快感を生じます。つまりこれが「不協和が存在する状態」です。
そして不協和が存在する時、不協和を低減させるか除去するために、なんらかの圧力が引き起こされます。その圧力の強弱は不協和の大きさの関数である、というわけです。
これによって人は「自分の信念・行動」と「新しい事実」のどちらか一方を肯定あるいは否定して、自己矛盾から生まれる葛藤・疑念・不快感を解消しようとします。
そのとき「信念」を変えることが困難な場合、人は”新しい事実”の方を否定しようとします。例えば科学の場合であれば、新しい事実の発見は新しい定義として受け入れられます。そして世間でも「常識」というのはあくまでも「事実」に基づく一般的な見解であり、
それは宗教のような「変わらない教義」を信じ続けるものではありません。「常識」は「教義」ではなく、時代の変化や新しい科学的発見などによって「事実の客観的な認識」が変われば、その変化と共に柔軟に変化し世間に受け入れられます。
つまり「常識」は客観的事実に基づいた「ある程度は普遍性を持った相対的な認識」であり変化・流動性があるのに対して、「教義」というものは「主観的な認識に基づく絶対性を持った固定観念」です。
なので「認知的不協和」が生じた時、「教義」や「教祖」を盲信する者は、常に「自分の信念・行動」の方が正当化され、「新しい客観的事実」の方が否定されるか、あるいは「確証バイアス」がそこで使われ「新しい客観的事実」を我田引水的に教義の正当化に使います。
こうすることで「新しい事実」は教義と対立する否定的存在ではなく、むしろ教義の正しさを裏付けるものである、という「合理化」を行い「認知的不協和」の解消を行うのです。これは特に神秘系カルトやスピ系が信者や自分自身の「疑念対策」として多用していますね。
防衛機制と「原始的防衛機制」
防衛機制(適応機制)とは、人間が欲求不満などによって社会に適応が出来ない状態に陥った時に行われる「無意識の心的機制」のことで、自我の再適応の機能です。
防衛機制が本来の方法で「正当に満足する努力」が行なわすれずに乱用される場合に様々な神経症的な病理となって現れますが、
今回は「原始的防衛機制」を取り上げます。通常の防衛機制(適応機制)は程度の差はそれぞれに個人差はあれど、大人でもよく見られるものですし、よく観察していれば、これを全く使っていない人っていないんじゃないかと思います。
ですが「原始的防衛機制」となると、基本的には子供の頃や、精神の病、パーソナリティ障害などのような限定的なものとされていますが、私はそうは考えていません。これは通常の成熟した大人でも十分起こると考えています。 ※記事の下に図で「原始的防衛機制」を説明しています。
ですがそこには条件があり、「認知的不協和」の大きさ、ア ノミーの強さ、そして解決されない無意識の問題がそこに複合的に関わることで「引き出されてくる」わけですね。
マートンの緊張理論と「アノミー」
前回の記事で、デュルケムとシカゴ派の提唱するアノミーまで説明しました。
前回の記事⇒ 犯罪心理学 犯罪・非行の構造とカルト・自殺との関係性
「アノミー」に関する参考として以下のサイトも紹介しておきますね。
前回説明しなかったマートンの緊張理論でのアノミーの考え方をシンプルに表すと、
「欲求水準と充足手段の乖離度=アノミーの強さ」です。
つまり「文化目標」として奨励されているにも関わらず、これを現実に達成するため社会側の利用システムが制限されている状態、あるいは不適切で不十分な状態の時にアノミーは生じるというのがマートンの緊張理論です。
マートンの緊張理論では「アノミーに対する人々の反応」を適応様式と呼び、これを「革新、儀礼、逃避、反抗」の4つのタイプに分類しています。
※実はもうひとつ「同調」という適応様式もありますが、この適応様式の場合には文化的目標と制度的手段の両方とも達成されているためにアノミーは生じないので、ここでは省いています。
マートンの緊張理論のアノミーと適応様式は、非行・不正・犯罪を説明する犯罪心理学でも使われる概念ですが、これは「カルト」にも当てはめることが当然出来ますが、そうするとさらにわかりやすいんですね。
「革新」タイプ
非合法的手段を用いてでも文化的目標を達成することを望み成し遂げようとするタイプ。 一般犯罪者や犯罪組織だけでなく、企業や政治家・官僚の不正・汚職、そして公安・警察組織などの権力組織の不正、カルト組織の教祖及び幹部タイプなどにも見られる。
「儀礼」タイプ
文化的目標を切り下げて、制度的に達成可能なレベルに収まるよう願望のレベルもそれに合わせて抑える。通常の人の場合はこのタイプでしょう。
「逃避」タイプ
文化的目標の達成を完全に諦め放棄し無気力化する。このタイプは「薬物中毒者」「自殺」をはじめとする現象、そして他の心・精神の病、「ひきこもり」「カルトに導かれる無気力な人」の中にも見受けられる。
「反抗」タイプ
文化目標の達成と矛盾した社会構造自体を変革しようと政治運動などに参加する。声高に主張をする左翼や右翼などが代表例。そして政治的活動を行う新興宗教やカルトが、「受け皿」的存在として社会への不満のある反抗タイプを取り込むこともよくある。
カルト組織自体が政治活動参加に転じることはあるが、大抵は世間の同意を得られず失敗する。
緊張理論と「非行下位文化理論」
通常、多くの人は「儀礼」の状態で生きているわけであり、その中の一部がアノミーによる葛藤の限界点を超えた時、一部は「逃避」に向かい、さらに一部は「革新」や「反抗」に向かう流れが生じます。
日本人の場合、「儀礼」から「革新」や「反抗」に向かう人よりも「逃避」に向かう人の方が圧倒的に多く、
欧米の場合は「革新」や「反抗」に向かう人がもっと多い。これは生物学的・民族的な気質の違いもあるし、社会・文化の状態の違いにも原因があります。
そして格差の激しい欧米や海外の場合は「下層階級」とか「下位文化」とか呼ばれる集団が存在し、人がこの「下位文化」の接触したときに「犯罪や非行」となる。(これが分化的接触理論と呼ばれるもので、サザーランドとクレイザーによって提唱された理論です。)
そしてマートンの緊張理論とコーエンの「非行下位文化理論」を統合して総合的に分析してみた場合、「下位文化」との接触だけで「犯罪や非行」となるのではなくて、
アノミーの適応様式での「革新」タイプに向かう人がこの「下位文化」との接触した時に最も「犯罪や非行」に染まりやすいと考えられます。
そして「革新」タイプが主軸になって「逃避タイプ」や「反抗タイプ」、時には「儀礼タイプ」も「犯罪や非行」に巻き込んでいく、あるいは「利用する」という構造です。
「下位文化」というものには「犯罪的下位文化」と「葛藤的下位文化」と「退行的下位文化」が存在し、(これはクロワードとオーリンによって提唱された分化的機会構造理論での三つの下位文化という概念です。)
「犯罪的下位文化」に該当するものがプロとしての「ヤクザ組織」、そして「葛藤的下位文化」は半グレなどの非行集団、そして「退行的下位文化」は、薬物依存やアルコール依存などの病理的特徴を示す若者たちの集団などが該当します。
神秘系カルトに入っていく人々というのは、この三つの下位文化とは異なるタイプの人たちであり、「物質的な文化目標」そのものに本質的に馴染めなかったタイプであり、それはpart2で詳しく書きます。
「革新」タイプが組織の上部を形成し「反抗タイプ」が組織の中間を形成し、この二つが主軸となって活動しつつ、「逃避」タイプや「儀礼タイプ」はそれに依存的・盲目的に従う下層構造を形成するのであり、
この構造は社会や企業の構造と同じで、カルトや犯罪組織にも「2・6・2の法則」が働いているわけですね。
本来の社会・道徳・宗教の役割
本来の社会・道徳・宗教の役割というのは、単に文化目標を達成するということだけではない。それが単にシステムの不備で無理なのであれば社会システムの改善が必要だし、
そもそも「文化目標そのもの」が、「一部の人」以外には決して簡単には満たされないような偏った「かなり無理のあるもの」であるのであれば、それを見直す必要もあるだろう。
4番目の下位文化となる「精神世界的なものへの過剰な依存」は、未だに「公的な健全な受け皿」は存在しないため、カルトや「それに類似したもの」に捕捉されることが起きてしまう。
「誰にも過度に依存せずに、自力がメインで苦境を抜け出す」というのは確かに最も理想であり最も安全でもあるが、誰にとってもそう出来るとは限らず、大変であり上手くいかない場合もあります。または、たまたま良き健全な支えとなる人々に出逢うなどの運の善し悪し次第で大きく人生が左右されたりもします。
なので多少それが「依存的な方法」であったとしても、弱った人にたいして「何にも依存してはいけない」と言うのは、ちょっと狂気的な精神論だと感じます。
依存しないで自立できるならそうすればいい。だがそう出来ない人もいます。そういう人を「どう適切に支え、どう適切に守るのか?」ということを蔑にしてきたから、自殺者が溢れ、カルトやスピ系ビジネスが蔓延るわけですね。
その現実を、適切に支えるシッカリしたシステムがなさすぎるわけです。適切なシステムがないからこそ、逆に「不適切な依存」が生じ、またそれを食い物にする人が出てくるわけです。
「依存すること」は何もかも悪いわけではありませんし、心理学的に見て「完全に依存がない人間」などこの世には存在しません。「不適切な依存」をしない、それが自立した大人の在り方です。
現在は心理カウンセラーなども増えてきましたので、そういうものを使ってみるのも良いでしょうし、その国の文化として根付いた伝統宗教の力を借りるのも良いだろうと私は思いますね。
本来は伝統宗教の役割というものは、善とか悪とかそういう薄っぺらい区分けではなく「世に必要なもの」だからあるのであり、祭り・季節の行事・冠婚葬祭や、地域の文化・歴史・芸術・伝統、国宝や世界遺産や自然を守り繋ぐ大事な文化でもあり、それと同時に、
上下左右にブレた人、弱った人々、疲れた人々、混乱した人々、「物質的な世の価値とは異なるもの」を求める人々、こういう人々の「自我保護」の役割、あるいは「治療やカウンセラー」の意味も持っていますね。
見分け方として参考になるのが以下の<宗教とカルトとの違い>10項目ですね。
参考文献:志村 真 編訳 「カルト・カウンセリング問題資料集Ⅰ」より リチャード・L・ダウハゥアー著 「牧師/神父(宗教家)のための指針」
1 宗教は個人の自立を尊重する。カルトは服従を強いる。
2 宗教は個々人を助け、その人の信仰的な求めを充たそうとする。カルトは信仰的な求めを搾取する。
3 宗教は問いや自立した批判的な考え方を許し、また奨励しもする。カルトは問いや自立した批判的な思考をさせない。
4 宗教は心理上のことと信仰上のことを統合する。カルトは信者を「カルトの中でのよい自分」と「過去の悪い自分」に分裂させ る。
5 宗教の改宗は一個人のアイデンティティに関わる内的プロセスの展開を伴う。カルトの改宗は、一個人のアイデンティティに顧慮することない外的力に、知らないうちに投降してしまう。
6 宗教は金銭を倫理的抑制に従いつつ、崇高な目的を果たすための手段の1つとしてみなす。カルトは金銭を、目的として、また権力を手に入れ、リーダーたちの利己的な目的を果たすための手段としてみなす。
7 宗教は、信者と宗教家とのセックスは非倫理的であると見なす。カルトはしばしば、信者をリーダーたちの性的欲求のはけ口とする。
8 宗教は批判する人に丁寧に応答する。カルトはしばしば、物理的あるいは法的脅迫で批判する人々を脅す。
9 宗教は家族、家庭を大切にする。 カルトは家族、家庭を敵と見なす。
10 宗教はある人が入信しようとする時には、よく考えてから決断するよう勧める。カルトはほとんど情報を与えないまま、即断するように求める。
⇒ 神秘系カルト発生構造と原因part2 霊的絶対者とカルト組織と信者のスパイラル構造