アートな癒し 理論・理屈なき存在と自己実現の詩と輝き
有名なので知らない人の方が少ないかもしれませんが、新海誠監督の『言の葉の庭』という作品があります。私は新海誠監督の「思春期青年期の繊細な感受性の描写力」に関しては、宮崎駿監督以上だと思いますね。ジブリでは全く表現出来ていない世界観を新海誠監督は繊細に表現しています。
いやもちろん「思春期青年期」の若者がみんなこうか?って言えば全然違うタイプもいるだろうし、ピンとこない人も沢山いるでしょう。
新海誠監督の初期の名作に「秒速5センチメートル」という作品があり、「主人公の男は発達障害じゃないか?」という意見などもあったりしますが、ようは「発達障害かそうでないか」ということが重要なのではなくて、
思春期大人へと成長する過程に起きる自我の不安定さを、そこから起きる生粋な問いかけと心の揺らぎを絶妙な角度から描いている、ということで、この作品としてはもう十分に素晴らしいわけです。
「そう思わない、そうならない若者もいる」ということは重要ではないんですね。そういう詩的な感覚が確かに一部のリアルとして存在し、「その詩を見逃さずに描いている」それが芸術的感性だからです。
そして新海誠監督のアニメ作品は、独特な癒しの力を持っています。利害関係などの条件で変化する「大人の現実」の「二重基準」の矛盾の中で見失われる「生粋な何か」、
その「生粋な何か」を「自己実現」として変容できずに葛藤し、自我の安定が揺さぶられ危ぶまれる時、新海誠監督の作品は独特な癒しの力を発揮するんですね。
『言の葉の庭』
靴職人を目指す高校生・タカオは、雨の朝は学校をさぼり、日本庭園で靴のスケッチを描いている。そこで出会った、謎めいた年上の女性・ユキノ。やがて二人は約束もないまま雨の日だけの逢瀬を重ねるようになり、心を通わせていくが、梅雨は明けようとしていた…。
『言の葉の庭』 予告篇 “The Garden of Words” Trailer
秦 基博/言ノ葉-Trailer Edition- Short Ver. (監督:大久保拓朗)
理論・理屈なき存在と自己実現の詩と輝き
このブログは、あるテーマを決めてそれを科学的・心理学的に理論的に検証することもあれば、そういう理論・理屈を一切使わずに「感性そのもの」で物事を見ることもあります。私は日常では殆ど理論考察や分析的思索は行いません。
感性の方が「ダイレクトにリアルを知っている」ことは実際多々あり、感性は「言語」「理論的思考」というものとはまた違う、リアルの認識と表現形式を持っているからです。
私たちが「存在」や「事実」をただ感じる時、本来そこに理論・理屈はありません。そして、詩と輝きを感じる時、美や安らぎや幸福を感じる時もそういうものです。
私の好きなアーティストにアンドレア・ボチェッリ(Andrea Bocelli )がいます。彼はイタリア出身の盲目のテノール歌手でダンディーな紳士です。
アンドレア・ボチェッリは6歳でピアノを始め音楽の道に進むが、12歳の時にサッカーボールを頭に受けて脳内出血を起こしたことが原因で先天性緑内障が悪化して失明しました。
それでも彼は盲目という障害を乗り越えて、法学博士号を取得し弁護士になったといいますから、凄いですね。目が見えて五体満足でも簡単ではないことなのに。彼の光と輝きも「深い影」に支えられているんですね。
そして彼は弁護士で活躍していたのですが、歌手になる夢が捨てきれずに歌手としての自己実現を果たしていくんですね。「深い影」を自ら乗り越えたからこそ辿りついた「心の力・心の光」です。
2007年7月にロンドンで行われたダイアナ妃追悼コンサートでミュージカル「オペラ座の怪人」を歌うなど幅広い活動を行っている。2007年9月には、ボチェッリの師匠筋にあたるパヴァロッティのモデナで行われた葬儀でも歌声を披露した。
Aranjuez : Andrea Bocelli / CARisMA
今日はもう一人、私の好きな歌手ルチアーノ・パヴァロッティを紹介します。彼は「神に祝福された声」とまで評された豊かな美声と圧倒的な声量、張りのある素晴らしい高音の天才オペラ歌手です。
パヴァロッティを初めて聴いた時、全身が震えるほど感動しました。これこそ「心・技・体がひとつ結晶した本物の歌」だと思ったんですね。
「自己実現」という言葉を彼は自身の人生そのもので、そして歌で、全身で、表している、そんな稀有な存在だと感じました。私は自分に深い感動や良いキッカケを与えてくれた全ての存在を、自身の師だと思って感謝しています。パヴァロッティまた私の心の師のひとりですね。
The Three Tenors – Nessun Dorma
環境や人々の与える影響は、悪いもの不平不満に感じる内容ばかりではないはずです。私一人の小さな人生物語でさえ、思い出せばいろんなことがあります。私自身そして私の周りの人々の在り方、その全てが本当に悪かったでしょうか?
一つの角度からだけ見れば「悪かった」ということもあります。ですが様々な角度から存在や現象を見れば、あの時、あの支えやキッカケがあったから頑張れた、そういうことはささやかなレベルですが沢山あります。
究極の善など存在せず、究極の愛など存在せず、究極の完璧さなど存在しません。全ての価値は相対的な性質を持っているからです。
ですが、その相対性の中には、私たちに感動を与え支えや美や学びともなるリアルな本質の瞬きがあり、それは相対性の中でそれぞれの段階を生きる私たちにとっての本質であり真実でもあるでしょう。
だから「現実」は「幻影そのもの」ではないんですね。「現実」は相対的なものを通して「本質的なリアル」が伝わり感受されるものであり、そこには確かに様々な「存在達」の生が表現され輝いているのです。