霊的絶対者とカルト組織と信者のスパイラル構造
神秘系カルト(スピリチュアル霊能者含む)発生構造と原因part2です。
前回は、「認知的不協和」「原始的防衛機制」「アノミー」という角度からこのテーマを見てきました。今回はそれにさらに「啓蒙主義とロマン主義」という二つの概念を加えて考察します。
宗教学者のオカルト考察において、鋭く深く的を得ている方が大田俊寛氏ですね。「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」という本は、オカルト信者の方は一度読んでみると良いでしょう。
大田俊寛氏はこの角度から初めて学問的に考察した唯一の宗教学者ではないですかね、他の学者のカルトやオカルト考察と違って、一歩距離をとって考察する姿勢がとても学問的なんですね。宗教学的な精神世界の流れから見た客観的考察としては非常に参考になります。
前回の記事でも書いたのですが、この種の領域に入ってしまう人々というのは、啓蒙主義的な物質社会の「物質的な文化目標」それ自体に幻滅している、というだけでなくて、
社会的な存在意義とは異なる別の存在意義である「霊的な進化」を求めているわけです。つまり社会が有していない、別の閉じた宗教的目標を持っているわけですね。
ロマン主義、全体主義、原理主義
カルト・オカルトの問題として日本で起きた最大の事件と言えば、まぁ誰でも知っているオウム真理教の事件ですが、この組織のメカニズムを考察すると「霊的絶対者とカルト組織と信者のスパイラル構造」がよく理解できます。
大田俊寛氏の『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』でのカルト分析は非常に卓越したもので、こういうカルト的なものに巻き込まれた経験のある方はもちろん、オカルト信者の方も一度読んでみるとよいかと思います。
大田俊寛氏の神秘系カルト組織の定義は「ロマン主義、全体主義、原理主義」という3つのキーワードに集約されます。ここで大田俊寛『オウム真理教の精神史──ロマン主義・全体主義・原理主義』を参考・引用しつつ、この三つのキーワードを見ていきます。
「生きて死んでいく存在としての人間」は肉体的な死を以て消滅するようなものではなく、死後もなお他者との「つながり」の中で生きていく存在であり、「つながり」によって共同体が成立していた、その「つながり」を物語るところに宗教の役割があると、大田俊寛氏は書で述べていますが、
伝統宗教文化の本来の役割のひとつは「つながり」であり「自我の保護」だと私は思っています。それはむしろ安易な原理主義的な一体化から守る作用があり、そして無意識に飲み込まれた自我が崩壊してしまう危険から守るための防壁であり観念にもなるものなんですね。
大田俊寛氏は、政教分離の主権国家という「虚構の人格」には問題点がはらまれていた、と指摘していますが、それは「彼岸と此岸との分離」によって「葬儀」=「死」の公的性質の剥奪による私事化の問題と、
「宗教」は「主観的内面性」であると考える矛盾によって、歪んだ「宗教」が数多く発生しやすい構造が生じ、私的妄想と区別のつかない「宗教」でも「信教の自由」の下で保護されたり、逆に「政教分離原則」で一方的に弾圧されたりというダブルバインド的状況を指摘します。
また大田俊寛氏は、近代における啓蒙主義へのアンチテーゼとしてのロマン主義が、感情の重視、自然への回帰、不可視の次元の探究、個人の固有性、民族の固有性などを求めると書いていますが、
こういう感覚はカルトに限らず、昔も今も多くの人々が持っていた、持っている感覚でもであるでしょう。「無意識下での大きな過不足の状態」「アンバランス」があり、そこを感性的に捉えた人々が反応しているわけなんですね、だからこの反応自体は健全なものでもあるんですが、
要はこの種のアノミーを解決するものが今の社会には非常に不足している、ということなんです。
巨大化・流動化・複雑化した社会の中で、誰とでも交換可能のような自分という不確かな存在の希薄さが、「世界の全体像を知りたい」「自分が生きている意味を知りたい」という極自然とも言える問いかけを生じさせる。
特に自我のまだ不安定な若い世代の人には強く感じれることもあるでしょう。そしてロマン主義の世界観に触れた時、人は、『 この複雑な巨大化した社会のなかで一つの部品のように訳もわからず生きている自分は「本当の自分」ではないのではないか?「真実の自己」は隠された見えない場所に存在するのではないか? 』と考え、
それを追求したいという飽くなき欲求を生じさせる。
同著167・277ページから「全体主義」「原理主義」を簡潔に定義表現している以下の文を引用します。
「淀んだ快楽と倦怠に満ちた孤独の生を過ごすか、あるいは、ある全体性のなかに身も心も没入してゆくか──近代の群衆の前にしばしば突きつけられるのは、このような究極的な二者択一である。そして、前者の生活に耐えることができなくなった群衆は、やむなく後者を選び取る。
自由の基盤であると同時に、苦悩の源泉でもあった自律的自我を放棄して、カリスマの人格や閉鎖的コミュニティの秩序に深く没入することは、それまでに経験したことのないほどに強烈な恍惚的享楽の感情を、彼にもたらすことになる。
彼は幻想的な充溢感のなかで、自分自身が新たな存在に生まれ変わったかのように錯覚する。そして彼は、かつて自分がそうであったような生のあり方、すなわち生きていようが死んでいようがさして実感のない淀んだ生、無用な生のあり方に鋭い敵意を向け、その存在を抹消するために、歯止めの利かない暴力性を発動することになるのである。」
「ロマン主義は「本当の自分」という生死を超えた不死の自己を、全体主義は他者との区別を融解させるほどに「強固で緊密な共同体」を、原理主義は現世の滅亡の後に回復される「紙との結びつき」を求めることによって生み出される幻想なのである。」 -引用ここまで-
以下に紹介のサイト「読書日記」の記事は 大田俊寛「オウム真理教の精神史」の内容で、私の記事では書いていない部分の内容も含まれていて、とてもわかりやすく詳細なので紹介しておきますね。
⇒ 大田俊寛「オウム真理教の精神史 ロマン主義・全体主義・原理主義」
「霊的な自己肥大者」の誕生からカルト組織形成まで
ここからは、精神分析及び心理学の概念を使い、そこに私の変性意識体験を加えた複合的考察になっています。
「虚無」、そこからの生じる問いかけに、社会は全く答えられていないゆえに、個人は無意識の大きな流れに無防備に飲み込まれてしまうんですね。そしてその時、自我が分裂的な方向に向かいある種の「退行」が生じます。
この時に「適切な問いかけへの応答と保護と癒し」があれば、自我はこの危機を適切に乗り越えることが出来ます。それが本来の伝統宗教の役割のはずですが、これも現在はあまり機能していないんですね。
そしてここで誤って秘教的なオカルト情報やらに癒しを求め、さらに変性意識体験によって神の元型や、そこから派生する霊的ビジョンや無意識下に投影された様々なものを見てしまうと、過剰な盲信が生まれ、
そしてその「集合的な無意識」の体験を「自身のもの」だと錯覚すると(それは個人の所有するものではない)、自我肥大が生じます。
そして霊的な自我肥大、これによって原始的防衛機制の一つである「原始的理想化」が生じ、過剰に理想化された観念との同一化によって「原始的投影」が生じ、内的な閉じた世界を外側の世界に投影しはじめます。
そして「投影による社会化」によって自己肥大化する過程では「独善性・排他性」がさらに色濃く表れ、原始的防衛機制の「脱価値化」が生じ、「対極にある社会の価値の否定」が行われます。
このようにして霊的な自己肥大者の元に賛同者が集まり、彼等に崇拝されることによって「自己の最高価値化」=「神格化と絶対化」を行います。
そしてこの「小集団」が、同じくロマン主義的感性によるアノミー的危機を生じさせた一般人をどんどん取り込み、組織化し、それは全体主義化して、地域社会との文化葛藤を引き起こしながら闘争的に拡大し、
より大きな社会的不調和を生じさせて巨大な認知的不協和とアノミーを生じさせます。つまり最初は社会的なアノミー要因と個人的な心理的要因からスタートした「大きな無意識の流れに巻き込まれた自我運動」は、
最終的にはそれ自身の認知的不協和とアノミーが解決できなくなり、高圧力の不協和が内部圧縮化することによって過激化し「カルト化」してくんですね。そして一旦「カルト化」すると、もう誰も止めれないわけです。
何故なら教祖が「絶対の王様」と化し誰も逆らえず否定できず、「教義は絶対の宇宙の真実」と化しているようなカルト宗教には、それ自体を客観視しつつ根本から問題点を改めるような自浄能力など全く存在しないからです。
ここで視点を変えますが、カルトに向かう人々がみんな「原始的防衛機制」という深い無意識の衝動から接触するのではなくて、たとえば「コーエンの非行文化理論による緊張理論と下位文化理論の統合」という視点でカルトを観た場合、
カルト化した組織がシステムとして完成し、「閉じた下位文化」を社会に形成している状態において、そこに「何らかの疎外感や実存的不安、社会への不満、等の心理状態にあるような人々」が、カルト組織と接触することによってその組織に関心を持ったり、居場所的なものとして徐々に関りを深めながら、
システム化した組織に物質依存・関係依存が強く生じてドツボにハマり、さらに役割志向が加わることで使命化される、という段階を経て内集団に取り込まれていく、わけですね。
こうして本来は、「カルト教祖や初期メンバーからは感性的にかなり遠い人々」「非宗教的な人々」も、どんどんカルト組織に巻き込まれていくという現象が起きてくるわけです。
宗教学的な考察は完璧か?
宗教学・社会学的、そして精神分析や心理学的にはまぁ大体これで十分なのですが、カルトやオカルトをもっと
深く考察するということになると、それだけでは不十分なんですね。
何故か?というとカルトやオカルトで生じる神秘体験や変性意識を知らない学者には、「霊的体験」という非日常な「主観の部分」がどのようなものかを全く想像すらできないからです。
「知識だけの評論家」と、「その道の感性的な経験を持つ者」としての分析では全く異なるのは当然ですね。ピアニストとピアノ評論家では、同じピアノ音楽に対する感じ方や見つめ方の角度は異なる場合が必ずあります。
学者的な考察では、「感性でしか知りえない部分」が見過ごされるわけです。そして「見過ごされている部分」そこが想像以上に深いんです。なので私はこの問題を様々な角度から見ているわけですね。
「霊的な話」というのは、単に教義や霊的な本の世界を信じてそのまま語っているだけの人ばかりではないんですね。「霊的体験」という非日常なことが実際にあるわけです。
それを体験したこともなければ、ただの錯覚の一種だろ、ってことになるでしょう。そして確かにそれは、ある意味では「錯覚」の一種ではあります。
ところが、これは客観的には「非現実」であるのと同時に、「無意識内で本当に起きていること」でもあり、主観的には「事実」なのです。だから問題はそれの「解釈の仕方」にあるんですね。
あなたが「夢」を見た時、それは「嘘」ではありませんが、それは「現実」でもありません。
この解釈の仕方を間違い「夢と一体化してしまったような人」が、いわゆる「霊的絶対者」などのような人物になっていくと考察しているわけです。