犯罪心理学 犯罪と犯罪者の研究 「犯罪社会学」から見た「善」と「悪」
「犯罪心理学」 序章です。
今日からしばらく「犯罪心理学」をテーマにした記事を具体的に書いていく予定です。今回はその序章ですので、「犯罪心理学」そして「犯罪社会学」が生まれた過程をシンプルに書いた後に、
「犯罪社会学」から見た「善」と「悪」というものをテーマに、私とこのブログの「犯罪」「善」「悪」「道徳」に対する基本のスタンスを書きます。
犯罪と犯罪者の研究
違反行為が同一でも、動機・状況・精神状態などによって量刑が相対的に決定されることを「主観主義刑法理論」といいます。これは今の日本や先進国では主流のものですね。
そして「違反行為と同等の刑罰を与えるべき」とする考え方は、特殊なもののように思えますが、実は歴史的にはこちらのほうが古く、これは「客観主義刑法理論」という古典主義の考え方です。
そして個人の精神病理や周囲の環境、様々な個人外部の否定的な力学や相対性を見ることなしに、単に一律に罰しても問題は本質的に解決しないため、「個人」と「個人を取り巻く環境」の具体的な調査・分析・研究が行われることになり、そこから「犯罪社会学」「犯罪心理学」が生まれてきました。
以下の図は現在の「犯罪」と「犯罪者」の研究の相関図で、左側が「犯罪の研究」右側が「犯罪者の研究」です。※ 図は「 犯罪心理学 大渕憲一 著 培風館 」 を参考に私が作成・編集したものです。
「犯罪」の研究の場合は、先の客観主義刑法理論、古典主義的な考え方がベースで、犯罪は個人の合理的な自由意思による行為であり、全ては自己責任と画一的に判断され、公正モデルによる量刑が犯罪のレベルに応じて機械的に科されるという理論公式です。
「犯罪者」の研究の場合は、基本は主観主義刑法理論的な考え方であり、そこに「犯罪社会学」「犯罪心理学」などの客観的・科学的な調査・分析・研究を加えて、多種多様な原因と複合的な力学の存在を明らかにし、犯罪の背景を検証することで、
犯罪を「自己責任」のみに帰することは出来ないと考え、個人的な要因・周囲の環境的・社会的要因を取り除くための改善や治療的な努力が必要だとする。後者の研究が進む過程で両者は相互に影響を与えながら、今日に至り現在進行形で研究は進められています。
以下にこのテーマの参考となるPDFを紹介しておきますね。
参考PDF ⇒ 今日における犯罪論と刑罰論の関係
そしてこのブログでは当然、後者の犯罪者の研究のスタンスであり、「犯罪社会学」「犯罪心理学」によって客観的・科学的な分析を行い、それによって多種多様な犯罪の原因、複合的な力学、犯罪の背景にあるものを検証することを行います。
「犯罪社会学」から見た善と悪
私は以前このブログの他のテーマで、「悪」はそれ自体では存在しないということを書きました。それは悪という絶対的な何かが存在するわけではなく、悪も善も人間が作り出したものです。
そして犯罪社会学の生みの親である「デュルケム」も、「悪」というものが社会の側にある基準・規則やその社会の道徳によって相対的に認定されたものに過ぎないことを認めつつ、
さらにデュルケムは「犯罪は健康な社会の不可欠な一部分をなしている」「社会の健全な機能にとって犯罪は有用である」とさえ述べています。(デュルケムの言葉の真意は次回に説明します)
こういう考え方は学者が言うと認められても、一般人が同じことを言うと「悪を肯定している」的にすぐに批判的な同調圧力が作動しますが、私はこういう風に「考えてみる」ことも大切だと思います。そしてこの考え方は犯罪学者たちの間でも広く認められたものです。
社会というものは変化します。社会は動的なものです。そして社会が変わる過程で、社会規範や規則も社会構造に合わせて変化します。「正しさの認定」は「マクロな社会の基準」によっているわけだから、「善」は社会の変化に合わせて変化し、そして「悪」は「善」の変化に合わせて変化します。
つまり善も悪も 相互依存的な相対的なものということです。「悪」も「善」もそれ自体では存在しないわけだから、人間は「性善説」でも「性悪説」でもなく、社会が「悪」「善」を人間に対して規定するだけです。
だからといって「よし、悪など所詮人間が作ったものであり存在しないのだからやりたい放題やってやろう」というのは愚かな発想です。
逆なんですね、「善も悪もない地上の野生動物たち」は「何でもあり」で生きています。そして「善も悪もない地上の動物たち」と同じく動物の一種である「ヒト科ホモサピエンス」は野生動物とは異なり、
一緒に共同で暮らす「社会」を作って相互依存・相互補完的に生きています。だからこそ「社会」には皆が基準とする「善・正しさ」を決め「悪・不正」を定義することがどうしても必要なんですね。
そして「悪や善」は条件によっては変化することもある相対的なものとはいえ、完全に相対主義的な根なしの構築物というわけではないのです。
善悪の基準を生み出した大元の意識は、生物学的な本質としての人間の無意識と結びついており、人間という動物の生物学的な調和のために必要だから構築されたのであり、
「道徳」は人間によって「作られたもの」であるのと同時に、その種子は人間の無意識から生まれたものであり、それが「社会」「時代」というマクロな環境の必要性によって部分的に意識化されたものが、「その時代、その社会の道徳」です。