「行動主義心理学」と「深層心理学」  心理学の可能性と矛盾 

 

心理学の可能性と矛盾part2です。今回は「行動主義心理学」と「深層心理学」がテーマです。

 

ユングは集合的無意識を「アプリオリ」的なものとして唱えています。「アプリオリ」という概念は、カントおよび新カント学派の用法であり、経験的認識に先立つ先天的、自明的な認識や概念のこと

 

集合的無意識というと知らない人も多いかもしれませんが、「ミーム」という言葉であれば知っている人はもっと多いかもしれませんね。

 

私は十代の頃より科学の中でも生物学や宇宙物理学には特に興味があり、リチャード・ドーキンスもその頃によく話題になっていた科学者の一人でしたが、

 

ミームという用語は、動物行動学者、進化生物学者であるリチャード・ドーキンス1976年の著書『利己的な遺伝子』で使われたもので、その後、ミームはドーキンスと他の学者らにより、生物学的・心理学的・哲学的な意味が考察されるようになり、

 

その結果、それはユングの集合的無意識とほぼ同じ概念を違う言葉で表現している類似概念になりました。

 

ミーム学の分野でも業績を残しているスーザン・ブラックモアは、「ミーム」が真の進化的複製子であるとし、遺伝学が生物の進化を扱うように、ミーム学が文化的進化を扱うものと考えていますが、

 

これは集合的無意識そのもので、(ドーキンスはユングを批判していますが。)ただ、私はスーザン・ブラックモアの定義する「ミーム」の概念にはあまり惹かれなかったんですね。

 

何故かというと、スーザン・ブラックモアのミーム考察は、ユングに比べるならば限定的な意味での無意識領域を扱うものであり、より抽象度の高い深い無意識の特質と捉え方においては不十分なんですね。

 

ですが、一般的なより具体的・現実的な世界に限定するならばミームで十分だとも思うわけです。

 

ミームにおいても「文化は脳から脳へ伝達される情報」と見做しているわけですが、ドーキンスは「進化」が起きるには「複製、伝達、変異」という三つの条件が必要であると考えていて、

 

それを満たしていれば「遺伝子以外の何か」であっても同様に「進化」が生じると仮定しているわけです。

 

そして、無意識においてはこの「複製、伝達、変異」が日常的に起きている、と考えているわけですが、これは感性的なものなので科学的にはわかりません。

 

ただユングやその他の「変性意識の状態で無意識を体感的に分析的に観察している人」にとっては、比較的自然にわかる感覚でもあります。

 

霊能者タイプは「無意識内に立ち上る現象」に飲み込まれて同化しているので、「無意識の構造そのもの」は全然見えていません。無意識において起きている「複製、伝達、変異」、それが集合的無意識・元型の作用であるわけですね。

 

この無意識の「複製」は転写されるこで起きます。そして人間が「地球上で成熟するのに最も時間がかかる生き物」であることと、この「文化の転写」には深い関係があるんですね。

 

そしてまだ発見はされていませんが、ミラーニューロン以外に「他の情報」を感受する「無意識の機能」もおそらく存在するでしょう。

 

何故そう言えるのか?それは「無意識」を長年にわたって感覚的・感性的に観察してきた結果、明らかに感受され伝わる「自と他の無意識の繋がり」が存在するからです。様々な情報が無意識下では感受されているんですね。

 

実はこれを感覚的に知っているのは、「科学者以外の人」の方が感性的にリアルに知っていることがよくあるんですね。直観的に知っていても、それを観察して概念として明確化する・できる人が少ないだけですね。

 

科学はまだ証明には辿りついていませんが、いずれは概念化・仮説化され、そしてミラーニューロン以外の他の情報を感受する無意識の機能が登場してくるかもしれません。

 

 

 「行動主義心理学」の科学性・限界・矛盾

 

「行動主義心理学」に関しては全否定はしていませんし、有効性を認めています。ですが、「行動主義心理学」には限界及び矛盾があるんですね。そのことの参考として、以下のPDFとその引用文の紹介をします。

 

PDF「行動主義の何が問題なのか」 より引用抜粋

行動主義に対する批判は大きく分けて二つのフェイズがありうるいます。 行動ではないデータを心理学に使ってはいけないのかという問題があると思います。

ただ、この問題は、徹底的行動主義の立場をとれば、全て行動なんすから、あり得ない問題です。データがとれると言うこと自体、全て行動なので。

ただ、一般の心理学者の一般の感性で行けば、たとえばナラティヴデータといえば行動ではないよなぁとおもうわけで、

やっぱり方法論的行動主義を強く持っている心理学者の立場からすれば、ナラティヴのデータは行動ではないからデータにならないだろう言う扱い方をされると思います。

そういう意味で、行動ではないデータが使えないってことで、使えデータがどんどん狭まる、すると、できる範囲もどんどん狭くなって、

心理学者が自然に持ったリサーチクエッションが研究につながっていかないという問題を生んできたのではないかなと思います。

 

6.心理学のとるべき道

今話したようなことをまとめると、方法論的行動主義が、心理学を配してきた。

方法論的行動主義が上手く機能しないと、研究の方法や研究対象をすごく狭めてしまうと言う問題があるときに、ではわれわれの心理学はどのような方法をとっていけばいいんだろうかということを考えることができると思います。

それは大きく3つくらいの道があるのかなと私は思います。 1つ目は、方法論的行動主義の立場はこのまま堅持して行きながらも、その問題点を改 善していく方法です。

つまり心理学の研究対象は、心や人間の内部で起きている過程だが、それ自体は直接捉えられないので、行動のデータを経由して検討しいくという方法論的行動主義の立場をやっていきながらも、その問題点を改善していくという立場です。

行動のデータだが、これまで扱ってきたような、量的で、統計処理できるデータだけではなく、いろんなデータを行動データとして使えるようにする多様性を認める立場であると言えるでしょう。

質的研究と言われているものの中にも、この立場に非常に近いものあると思います。

グラウンデッド・セオリーなどでシステムが非常にしっかりしたものは、方法論的行動主義の立場で、行動のデータのなかに質的なものを持ち込んだのかなという見え方が私にはします。

方法論的行動主義では、客観的なデータっていうことが非常に重視されるわけですが、データが客観的とはどういうことか、何が客観的なのかということについてもう少し広く見ることができないかとか、

あるいは、今まで客観的とされなかったデータについて、客観性を確立するような方法をみんなで考えていきましょうという立場もあります。そういうふうな考え方も質的方法の中にありますよね。

質的方法の客観性を高めることを言っておられる先生が多いですから、こういう考え方は、方法論的行動主義のなかからの多様性としての客観性の見直し、という方向性だと思います。
(中略)
心理学を支配した一番大きな理由は、心理学が科学になろうとしたことだと思います。そうであれば、科学じゃない心理学があってもいいんじゃないかと言うこともできると思います。

もちろん、すべてを科学ではないものにするとなると、方法論的行動主義と同じ失敗をするので、心理学の中で、科学であることを大事にする心理学と、そうでもない心理学などいろいろあっていいと許容することになると思います。

つまり私は、人文学としての心理学の再発見があるべきではないかなと思います。

同様に、心理学の研究が、心理学者であるわれわれの表現の行為である。表現として心理学を行うこともあっていいと思います。そういう懐の広さが心理学の中にあると、いろいろな問題が解決するんじゃないかなと思うときがあります。

参考PDF ⇒ 行動主義の何が問題なのか

 

以下に紹介のPDFは「スキナーの徹底行動主義」にある問題として、

 

「実が刺激制御のすべてを取り仕切っており、個体を個体として全く尊重ず、外界と相互交渉するものとして見ず、単なる変数を取り出すものして見ていたこと」を挙げています。

 

そして行動主義に「不足」した要素を他の心理学で補うことでその可能性を広げるという方法です。

オルタナティブのためのコンティンジェンシー再考:徹底的行動主義と文化心理学をつなぐもの

 

 

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