心理学の可能性と矛盾 「自己物語」 ナラティヴアプローチの長所・短所
心理学の可能性と矛盾part1です。
「思い感じ生きている私」とは何でしょうか?そして「私が語る私」と「思い感じる生きている私」と同じでしょうか?
今日は「自己物語」という角度から、自己の生成・維持・変容する「ナラティヴアプローチ」の可能性と矛盾点を見ていきましょう。
「ナラティヴアプローチ」というものが何か?をシンプルに説明すると、人々の言葉で「語り語られた物語」とコミュニケーションによって、人の現実は相対的に構成されるとするもので、社会構成主義的な考え方から派生したものです。
「ナラティヴアプローチ」の長所は、ある人が全く建設的でないネガティブな悪循環の思考パターンに陥っていたり、固定観念が慢性化して抜け出せない状態で周囲の関係や状況の捉え方をあまりにも一面的な角度からしか見えなくなっている時などに「補足的に」有効だとは思いますね。
また世界の多様性を理解し許容する時にも、自他を完全なる絶対者にせずに相対的なものとして捉えることで、頑なな在り方を和らげる効果、そして才能や能力の開花やアイディアなどにしても、発想の多様性によって見出される可能性を広げる「補足的な」効果もあるでしょう。
ようは使い方とバランスなんですが、ナラティヴアプローチが使われている「ナラティヴセラピー」の言わんとしていることは、以下に引用紹介の記事を読めば「ああ、それよくわかる」と感じるでしょう。
「現代文明学研究:第7号(2005):410-420 知的障害児・者の「主体」援助の陥穽を問う 西村愛」より引用抜粋
従来のソーシャルワークでは、「成熟した」ワーカーと「未熟な」クライエントというような明らかな権力関係が存在していた。
そのような関係において行われる援助では、ワーカーの一方的な指導や指示に陥るきらいがあり、クライエントの語りは重要視されてこなかった。
クライエントは、一般的に規範とみなされている「ドミナント・ストーリー(優勢的な物語)」に合うように、自分の生き方を変えていくことが求められていた。
しかし、「ドミナント・ストーリー」に違和感を持ちつつ、そのストーリーに合わせて生きていくことは、益々クライエントにとって生きにくさを感じるものとなってしまう。
一方、ナラティブ・アプローチは、「現実」は人々の日常的なコミュニケーションのなかで不断に構成され、つくられていくという社会構成主義[2]の立場をとる。その特徴の1つは、ストーリーの多様性を求めていくという視点である。
木原は、「知と権力とは再帰的な関係であり、権力を有する側の言説や声が結果的には支配的となり、真実とみなされるのに対して、権力を有さないものの言説は周辺に追いやられ、征服され、そして
彼らの物語は語られないまま終わってしまう」[3]というHartmanの言葉を引用しながら、これまでの社会福祉の領域で援助する側の論点や物語が主軸となり、援助される側の語りは語られなかったことを
指摘する。現実は、権力を有している側のストーリーだけで構成されているのではない。被抑圧者の物語もまた1つの現実を構成している。ナラティブでは、クライエントが抱えている問題は、クライエントが「ドミナ
ント・ストーリー」に適応できないことではなく、クライエントの持っている固有の「オルタナティブ・ストーリー(代替的な物語)」と「ドミナント・ストーリー」との間に生じているズレ[4]と理解されている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
先に引用の記事は「ああそれよくわかる」という内容であり、「ナラティヴアプローチ」が何故生まれたのか?ということをよく表してもいます。これは「パターナリズム」とも関連していますので、以下に二つの関連外部サイト記事を参考用に紹介しておきますね。〇 医療におけるパターナリズム
一見「ああそれよくわかる」という感じがする「ナラティヴアプローチ」には矛盾と短所があるんですね。先に紹介の記事の引用元に具体的な「ナラティヴアプローチ」の矛盾と短所の詳細が書いてありますので、参考としてリンクを張っておきますね。 ⇒ ナラティブ・アプローチの批判的考察をもとに
上に参考として紹介したナラティブ・アプローチの批判は、言葉やコミュニケ-ション手段をもたない知的障害児・者や認知症・精神障害の人々にとっては、「主体性」や「自己決定の尊重」という綺麗事が通用しないということを問うものであり、
「ナラティヴアプローチ」をする側とされる側では、対等なポジションに立つことが不可欠な前提としつつも、「そもそも最初から本質的には全く対等ではないではないか?」という「アプローチをする側の在り方」への批判ですね。
だから「従来のソーシャルワーク」を否定しつつも、「ナラティブ・アプローチ」だって相手の状態次第では結局「抑圧者と被抑圧者」という関係性が構築されるというジレンマに陥る可能性があるというわけです。
では、言葉やコミュニケ-ション手段をもたない知的障害児・者や認知症・精神障害の人々を除き、「ナラティヴアプローチ」をする側とされる側が対等なポジションに立つことを前提にすれば「ナラティブ・アプローチ」による「ナラティヴ・セラピー」は、条件付きで有効な面も確かにあるでしょう。
条件付きで有効な「ナラティヴ・セラピー」は以下PDFを参考に紹介
します。 参考PDF ⇒ ナラティヴ・セラピーとケア
そして「従来のソーシャルワーク」のアンチテーゼとしての「ナラティヴ・セラピー」は条件付きで有効な面もありますが、ナラティヴ・セラピーというものそれ自体の「本質的な限界及び問題点」も存在します。そのことに関しては以下の記事を参考として引用紹介しますね。
「社会学玄論」 「ナラティヴ・セラピー批判」 より引用抜粋
ナラティヴ・セラピーによって人格システムを構築したとしても,心的システムとの差異やズレは常にあり,人格システムと心的システムの構造的カップリングがうまくいかないおそれがある。
また,人格システムは社会システムとの構造的カップリングも存在しており,社会システムと不調和(社会不適応)を起すような内容をもつ自己物語は否定されることになる。
(中略)
つまり,語ることでつくられる自己物語,つまり人格システムを維持するための物語の内容は,社会システムと心的システムによって制約を受けているのである。
ナラティヴ・セラピーの対象は、その理論からすると、本来、人格システムであるにもかかわらず、心理(心的システム)が対象だと勘違いされている。心理療法として位置付けられ、心理的問題が解決すると思われている。
ナラティヴ・セラピーは、心を対象としないので、心理的問題は解決できないのである。語る自分を制約するものを除去するためには、社会環境の改善や精神分析や別の心理療法なとが必要なのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ ナラティヴ・セラピー批判
「自己物語」「ナラティヴ」「相対主義」「社会構築主義」に関する参考記事
◆ ポール・リクール「物語的自己同一性」に関するノート
◆ 病いの身体とナラティヴ ―医療人類学の射程
◆ ナラティブアプローチの可能性と限界をめぐって―「異文化」理解の詩学と政治学―
◆ 相対主義と社会構築主義についてのメモ(下)
◆ 社会構築主義批判