似て非なる光が総取りする領域では光も影も見えにくくなる

氷河期」って一枚岩ではないんですね。団塊世代と比べると遥かにバラバラで、「俺たち氷河期」みたいに一括りには出来なくなった世代でしょう。

「それなりに上手くいった氷河期世代の成功者バイアス」は、「完全に見捨てられた側の氷河期世代」には何の意味もなさないのは、「全く異なる現実を生きた」という深い溝(身体性)があるからです。

仮に「氷河期」がまとまるとすれば、「それなりに上手くいった側」ではなく、「完全に見捨てられた側」の方でしょう。その方が数が多く、しかも社会はその語りにスポットを当ててこなかったから、「氷河期の大きな物語」を創造するとすれば後者でしょう。

「氷河期世代の完全に見捨てられた側が団結する」というのは現実にはほぼ起きないといわれていますが、私は絶対にそうとは考えていません。

たしかにオールドメディアしかなかった時代はほぼ不可能だったし、今のSNSでもまだ広く可視化されていませんが、今後のSNSの進化次第ではありえます。とはいえ社会は「絶対にそうさせたくない」でしょうから、それが起こるかどうかはけっきょく「運次第」とはいえるでしょう。

 

似て非なる光が総取りする領域では光も影も見えにくくなる

 

貧乏人から貧乏すら奪う」という表現は、過去にSNSで登場した表現ですが、この言語化のセンスにとても驚きました。実に的確で見事です。「SNS版 夏井いつき先生」がいたとしたら、10段認定ですね(笑)

 

「Human|俳人、夏井いつきさんの添削」 より引用抜粋

じっさい、直すことがあたりまえになってくると、テープ起こしをまとめるかのように、人の原稿をまるで自分の原稿のように直してしまう。しかし、夏井先生の直し方をみていると、はっとさせられる。

「あなたは、こう書きたいんでしょう?」と、著者や筆者が書きたい情景を引き受けたうえで、その情景がより伝わりやすい表現に添削している。この直しが、論理的で、迷いがなく、しかもその効果が目に見えてわかりやすい。著者や筆者がもつ世界が、ありありと受け取り側に伝わってくるのだ。

これを見ていると、僕がこれまでやってきたライターさんとの原稿のやりとりは、相手を無視した独りよがりに思えて、とても恥ずかしくなってくる。

夏井さんは、著者の俳句をより良くしたのに対し、僕は、人の原稿を自分の原稿にしていただけなんだと、反省させられる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ Human|俳人、夏井いつきさんの添削

 

夏井先生にはとても豊かな身体性がある。だから他者の身体性を引き受けることが出来る。一部の高学歴人文系・インテリは身体性が乏しいので、他者の語りを身体で引き受けることができないまま、己のフレームで一方的に解釈し、全く別の何かに置き換えてしまう。

それはある種の「知的、言語的な暴力」ともいえるもので、他者不在(身体性なき質)ゆえに「奪う」ことに無自覚なんですね。

 

妖怪」はあらゆる場所に点在します。いうなれば「不可視化された存在たち」です。「氷河期の妖怪」は、「完全に見捨てられた側」「その語りを聞かれることがなかった者たち」です。

しかし、「それなりに上手くいった氷河期の語り」だけが「氷河期の語り」とされる。このようにして、「それ自体を生きる者の言葉」は聞かれず、「それ自体を生きていない者」が、全てを奪い取っていく。

 

弱者そのものから弱者すら奪う」、それが「妖怪」を生み出すのですが、さらに進んで「妖怪から妖怪すら奪う」段階が、「存在を殺す」段階です。そしてこのようなことは実際に起きていますが、そこにオールドメディアがスポットを当てることはまずありません。

 

 

「太陽の人」って「星の人」が輝いてる姿に一生気づくことがない、「SNS版 夏井いつき先生」がいたとしたら、これはもう「掲載決定!」でしょう。

 

「貧乏人から貧乏すら奪う」というのは「影から影を奪う」流れですが、それとは逆に「光から光を奪う」という流れもありますね。

言説の権力としての知的権威、そして第4の権力としてのメディア、こういう「疑似太陽」が、ローカルな個々の身体の語りを「聞かれないもの」として隅に追いやっているけれど、見る人が見れば、それは常に咲いているように。

 

そして「似て非なる光が総取りする領域」においては、「光」も「影」も見えなくなる流れ生じることがあります。「太陽」ではなく「闇夜に輝く星」でもない何か が、時に太陽であるかのように、星であるかのように語る領域では、「光」と「影」の身体性に触れる機会そのものが失われていくからです。

ニンゲン界に弾かれた「妖怪」、そして「漫画的な生」の多くは、非インテリ、非人文・非アカデミア的な身体に根差します。それに対してインテリ、人文・アカデミアはニンゲン界そのものです。ゆえに社会的にマイノリティとか、そういうことは関係なく、後者の質は非妖怪・非漫画的なんですね。

 

「嫌われ役」と「嫌われ者」は同じではない。この文脈において構造的にみるなら、貧乏人は「嫌われ役」を「やらされている」ともいえます。そして「貧乏人から貧乏すら奪う」のが「嫌われ者」ということ。

しかし、似て非なる光が総取りする領域では光も影も見えにくくなるため、言語のレトリックで錯覚を生み出し、「嫌われ者」が「人気者」や「売れっ子」に成り上がることも特に珍しくない。

「売れる」とか「結果」を出すとか、その方法や力学が単純で明確な実力主義、勝負の世界なら、「結果から見て帰納的に判断する」ことはできますが、

明確な実力の世界・勝負の世界ではなく、様々な力学・構造が作用している分野や場における結果の場合、帰納的に判断するのは単純化につながります。その場合、「まったくの別物」が数字的には結果を出すなんてことはよくあること。

 

ところで、「高校中退後にブルーワーカーをしながらチャンピオンまで上がった魔裟斗」や、「高校退学から紆余曲折を経て這い上がってきた武尊」のように、学校化社会の外部で「権威なき野生の身体」を磨き上げ、その身体性から語る人を心底嫌うような人は非インテリほど少ない。

周囲の氷河期世代だけでなく、親の世代を含めて、他の世代においてもそういう人は少なかった。魔裟斗はむしろ若い時の方が人々の好き嫌いの評価が分かれていて、年を取ってからの方が、その語りに広い世代が納得しているように思う。

それは身体の学びによる「器の広がり」だと思うんですね。人はお勉強的な努力だけはああいう風にはならないし、なれない。イチローもそこは似ている。身体性が変容し続けている。

人によって好き嫌いはあっても彼らはやはり「光(スター)」であり漫画的な存在。

「影」は「光」を否定しようがない。それ自体を生きている身体は「実としてただそう在る」のだから。同じく「影」の身体性も否定しようがない。

それに比べて、高学歴人文インテリの「権威ある高級な語り」を嫌う人はずっと多かったように思う。それは「努力の仕方」とかそういう話ではなく、身体性がまるで別物だからなんですね。

「似て非なる光」は「光(スター)」を己と同一視するが、『それ自体を生きていないことを見透かしている「影」の身体から放たれる言葉』に敏感に反応する。 そこで自己投影して防衛するから嫌われる。

この手の「嫌われ」は、見方を変えれば、「虚」を「実(身体性)」の方に引き戻している作用ともいえます。なので、身体で受け取れば「無形の学び」となり得ます。

「敵」「下」と思っていた作用は、「味方」「無形の師」の作用に変容可能ですが、

「似て非なる光」は自分を常に肯定してくれる人だけを味方とするので、それ以外を「敵」「下」「外」として「虚」で応戦し続けてしまい、結局学べないまま、頑固な権威主義になっていくだけなんですね。