子供たちと大人の世界の矛盾 死んだ学びと生きた学び
無意識と意識の関係part1では、無意識(潜在ポテンシャル)を育てることと、顕在意識の役割の違いを、アスリートとカメラマンのある話をたとえにシンプルに書きました。
今日は東北大震災に見る、人々の無意識への影響から、このテーマをシンプルに見つめてみたいと思います。
現在の道徳教育は無意識(潜在ポテンシャル)を育てるのではなく、顕在意識に様々な細かい正論・考え方(すべきこと・してはならないこと)をただ一方的に植え付けていきます。
この方法ではまず子供の内的な領域は豊かには育ちません。もちろん成長過程には様々な働きかけが複合的に存在するため、そして先天的な気質などの違いも存在するので、
一見似たような環境下でも、それが決定的に否定的なものになる場合もあればそうでない場合もあります。ですが「他の良き働きかけを得られた幸運な人」を除き、現在の道徳教育では、むしろ自己欺瞞が深くなり、潜在能力が高められない人の方が多くなるでしょう。
以前、二つの記事で別の角度からそのテーマを書いていますので、そちらも参考にしてください。
ここで言いたいことは、「道徳そのもの」が悪いということではありません。「道徳教育」が人への働きかけ方として「矛盾している」「不十分」ということです。
「道徳そのもの」は必要ですし、意義もあります。ですがそのことと道徳教育は全く同じものではないのです。
死んだ学びと生きた学びの違い
教師・政治家・マスコミ・有識者などが得意とする正論と社会道徳が、私たちの無意識の領域にまで問いかけてくることはまずありません。(ごく一部の素晴らしい教師・有識者の中にはそういう人もいますが)
何故でしょうか?何が違うのでしょうか? 本気度が、真面目さが違うからでしょうか? いえ、教師や有識者等だって、真面目で倫理的な人なら沢山いるでしょう。
でも彼ら、彼女たちからは言葉の理屈や正しさの主張以外に何も伝わってこないのです。
教える側・指揮する側・統制する側の社会的ペルソナ(役割の仮面)が、いくら正しさの印象や権威・肩書でがっちり固められていて、本人もそれらの観念に同化していても、
無意識の領域を見れば、そこには何の違いもない、いやそれどころか、教えられる側・指揮される側・統制される側よりも酷い内容、ということが日常茶飯事なのです。
そして人間の存在ポテンシャル・本当の心は、無意識の領域にこそ本質的なものが存在するのです。だから、社会的ペルソナ(役割の仮面)の優劣などそこには何の関係もないのです。
専門知識や難しい言葉や論理的思考などなくても、何の立派な立場や社会的肩書きや資格などなくても、心の豊かな人は沢山いるのです。
そしてそういう人々は、どんな教育者よりも専門家よりも、ヒトの心を癒し元気づけ変化させるのです。 そしてどんな政治家や有識者よりも、ヒトの心を自然に動かすのです。
それは無意識の豊かな心から発された形なき想い、それが私たちの無意識へ働きかけてくる力を持つからです。 前にも書きましたが、私たちの無意識は内なる自然界であり、繋がっており、人間存在は無意識でヒトの自然心を共有しているのです。
だから感性が鈍くなり共感能力を失い、無意識という内的な自然界が破壊されてくると、ヒトは心・精神の自然回復力・自然治癒力が低下していきます。
ゆえに「理屈で心・精神を説明し治療する専門家」が過剰に必要になってくるんですね。
本来は「本当に重度の人」、支援・介入がなくては安定的な状態を全く保てないレベルの人を除けば、「環境と人との調和」が保たれていればそんなに心・精神の状態は悪化しないはずなんです。
だから社会と人と自然との関係性が調和したものであるのなら、本来は医学的介入が必須な特定の人を除いて殆どは必要ないのです。なので、「変えるべきものを変えず」に「支える役割」を専門家に押し付けすぎているのです。
また「心・精神の問題」には霊能者やオカルティスト、新興宗教なども絡んでくることが多いため、そして彼らはさらに無意識を分裂化・混乱させるため、
そういうものに惑わされないためにも、脳科学や生物学と結びついた心理学のような、「科学的な理論で心・精神を説明する専門家」も必要になってくるわけです。
記事の終わりに一曲紹介、合唱曲「cosmos」です。