「私」と身体 マインドフルネスと仏教   

 

今回は「身体」と「事実(科学を含む)」で「私」を観ていきます。そして前回に続いて「マインドフルネス」もテーマですが「仏教」に関しても少し考察しています。

 

ではまず一曲、羊文学「光るとき」です♪ 清々しい旋律と声、これぞ普遍的なJPOPワールドっていう感じです。

ico05-005 何回だって言うよ、世界は美しいよ 君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても 今だけはここにあるよ
君のまま光ってゆけよ     羊文学 「光るとき」より

 

 

「私」と身体 マインドフルネスと仏教

「科学的」には人間の心理は全て物理現象に過ぎず、「私」という意識現象は脳によって生じ、心理は現象に付加して生じる副産物、随伴現象に過ぎないのです。

言い方を変えれば、「あなた/私」の意思決定は「無意識(実)」が先に行い、「あなた/私」という意識は「無意識の行為を翻訳して鑑賞するだけの受動的なもの」で、

非意味かつ非連続のバラバラの情報をエピソードに置換し、「あなた」と「私」という連続した物語として意味化して「記憶」し、「あなた/私」という「虚」の統合された意味世界を創造する。

「身体の思考」は「私の思考」とは異なります。行動は「身体の思考」が先に決定する、「私の思考」は後からそれを物語化するんですね。

もし記憶を全て消されれば、「私」は消える。「私」とは「エピソード化された記憶の総体」。そして「身体の基本構造」と『「私」の構造』は釈迦であれキリストであれ同じなんですね。

まず「記憶」とはどんなもので構成されているでしょうか。心理学では「感覚記憶」「短期記憶」「長期記憶」の大きく三つに分けられ、「長期記憶」には「陳述的記憶」「非陳述記憶」が含まれます。「短期記憶」作動記憶(ワーキングメモリ)ともいわれます。

 

上座部仏教において、「心」というのは五蘊(色受想行識)の中の「識」に該当するとされますが、ここで現代の知の概念に置き換えて仏教的な身体観を掘り下げてみましょう。

「五蘊」は脳・身体に随伴して生じる「心理現象」であり、そして「」は肉体(形而下)、「」は感覚(身体における主観)、「」は「陳述的記憶」と「非陳述記憶」を元に形成される表象,概念、「」は「身体の意志(無意識)」、「」は心理的な主観。

つまり釈迦の教えも仏教も同じく脳・身体に随伴して生じる「心理現象」のひとつであり、その修業は「身体」から脱してはいないのです。釈迦もキリストも「記憶と身体」に基づいたメタファーを用いて語る。(以下「メタファー」に関連する論文を紹介)

 

つまり「陳述的記憶」と「非陳述記憶」から形成される表象,概念を元に語り、「四念処」などの基本的な瞑想・行を含めた活動を含めて「意志」に基づいて活動しているので、「身体を基盤にした活動の範囲」なんですね。

なので「身体そのものを罪や悪」とするなら釈迦もキリストも悪そのものでしかないのです。「身体そのものには罪も悪もない」というのは「実」としての意味・価値は存在しない、ということ。

身体は「意味以前」に在り、「身体は○○である」の概念に収まらない。確かに身体は苦しみをもたらすこともありますが、身体は様々な働きを持っていて、決して一つの意味・価値に収まるようなものではないのです。

その意味で過去にも紹介したダライラマ法王の発言は非常にクリエイティブで、「権威」に追従しない事実への探求心に満ちていると感じました。私は仏教が全てだとは考えていないんです。それは一つのアプローチではありますが、決して世界の全てを含んではいません。

 

2月11日に ダラムサラ の公邸で行われたダライラマ法王の講演より

信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。

その点において、釈尊は非常に賢明でした。「私は人々の苦しみを取り除くことはできません。私は人々の否定的な感情を洗い流すこともできません。私は私自身の心の平穏を人々に与えることもできません」。

釈尊は、ご自身の経験を元にした心の平穏を得る方法を、ただお示しになったのです。素晴らしいですね。1人の人間としての釈尊であり、神様ではありません

 

まぁ神様や仏様に祈ることも作用をもたらすので私はそれを否定しません。しかし「誰にとっても必要」とは思いません。ひとつの方法、アプローチだと考えます。釈迦もインドの思想的土台、基本のミームに支えられていますので、ある種のフレーム(有限性)を有しています。

また無名の人々や権威を持たない人々が時に「聖人や偉人と変わらない真実に触れている」ということがあるんですが、そういう人達のコトバの力と仏陀のコトバの力は「同じ力」です。

ソクラテスやセネカと「名も無き農民たち」が同じように生きている姿を観ても、権威に囚われているだけの人には後者が観えなくなるんですね。権威や知識ではなく「生き方それ自体」がコトバの力になっていくだけです。

 

 

仏教的な概念に関しては、上座部以外の仏教哲学も含めて主に二十代の頃に集中的に読んでいるので、私はひとつの流派に拘ってはいませんが、今回は上座部、原始仏教、初期仏教を中心に考察しています。

「実」としての苦は宗教では超えられないのです。そして「虚」に対しても限定的です。また科学も万能ではないですが「実」に作用できるのは科学の方なんですね。

例えば「脳」自体が酷く損傷してしまえば、「私」そのものが壊れ、「認知」そのものが壊れ、回復しようがない状態が生じるように、この場合は(神・宗教はまぁ当然ながら)、いかなる療法においても元通りにはならない。救えないのです。

言い方を変えれば「私の苦しみ」も「機能が働いているから感じられるもの」であり、ある種の「身体の能力」ともいえます。そして仏教やキリスト教で救われるのもある種の「身体の能力」の範囲内なのです。

機能が欠如してしまえばそれも感じれなくなる。「苦しみから回復する」のも機能が働いているからで、機能が欠如してなければ可能なんですね。

それができない時は専門的な科学的介入・補助が必要になりますが、機能が損傷・欠損してなければ、基本的に身体にはそういう回復能力が備わっているのです。「私の苦しみ」もそれがよく機能するようにしてあげることでレジエンスを高めることは可能なんです。(限界はありますが。)

 

言語・概念で「そう働きかける」ことが物事の認識をある方向性へと向かわせる、それによって善でも悪でもない無意識をある種の鋳型に嵌める、そしてその型を身体化することで徳は実体化していき、第二の身体が形成されます。

これを一般人から観れば、宗教的な人格者として感じられるでしょう。

仏教に限らず「修練」には「自然状態(ありのまま)」の変容が含まれています。「身を通した実践」によって身体に働きかけ、今までの身体の型を別の型へと変化させていくわけですね。そうして「今までは出来なかった(自然ではなかったもの)」が「自然に出来るようになる」のが「徳」の働き。

当然、修練の不足や個の取り組みの姿勢や能力等の差によって揺らぎが生じるため、とんでもない僧侶とか、知識だけ豊富な僧侶も存在するわけです。

「陳述的記憶」「非陳述記憶」をシンプルにいうと「頭で覚える」が「陳述的記憶」で、「体で覚える(技能等)」が「非陳述記憶」、「言葉等で説明ができるタイプの記憶」は「陳述的記憶」ですが、

「陳述的記憶」は二種類に分けられ、エピソード記憶(個人が経験した出来事の記憶)と、意味記憶(学習によって獲得した知識)があります。「言葉の意味とか概念に関する記憶」は「意味記憶」になります。たとえば宗教的な「徳」というのは「意味記憶」の次元でありません。

「宗教的考察」は徳を育てませんが、その「実践」には徳を身体化する作用があります。なので徳は「非陳述記憶」の一種でもあり、「教え」には「言葉で説明できるものと出来ないものがある」のは「記憶の質的な差異」ともいえます。

「徳」というのはその本質が「虚」であってもそれが自然状態にまで昇華出来た時(身体化されたとき)、第二の自然として第二の身体として形成される、それが「仏の身体性」であり「変容した五蘊」です。

釈迦がそうであるように、悟っても身体それ自体が何か全く別のものに変化するのではなく、変化するのは「身体性」ですね。

ではここから、論文「認知療法,マインドフルネス,原始仏教: 「思考」という諸刃の剣を賢く操るために」を参考に、少しだけ掘り下げていきます。

原始仏教で説かれる「三慧(さんえ)」には、〇 聞所成慧: 聞いて得た智慧(経典の教え)  思所成慧:  対象を観察し自ら考えて得た智慧    修所成慧: 実践(禅定)によって体験的に得た智慧  の三つが在ります。

瞑想は修所成慧になりますが、これを現代に置き換えると、「本で知識・概念的理解を得る段階」、「対象・物事を観察する段階」、そして「実践し身体化する(体得する)段階」といえますね。

この三つが揃って「知慧」が「身」につく。

そして瞑想にも段階があります。上座部仏教のヴィパッサナー瞑想で得られる「智」の段階に十六観智があります。そして上座部仏教の修行階梯の七清浄のひとつに名色分離智というものがあります。これは瞑想におけるまず最初の洞察智である「見清浄」です。

名色分離智 色とそれによって生じる名は別の物であることを理解し,それを識別することのできる智慧

ミャンマー(テーラワーダ仏教)の僧侶であるウ・ジョーティカ・セヤドー氏の著書「自由への旅」はマインドフルネスの実践書のひとつですが、これはサティパッターナスッタを翻訳したもので、上座部仏教の基本を押さえている伝統的な瞑想を学びたい方におすすめです。

第一の洞察智(名色分離智)― 意識と対象(感覚)の区別に気づくこと。客観的な観察

最初の洞察智は、存在するのはただ現象だけで、恒常的なものは何もなく、存在者もなく、実体もなく、「私」もなく、自我もなく、人格もなく、ただ純粋な現象があるだけと知ることです。この「私」というのは、心の創り出したものです。心は、我と我が身の重荷を創り出します。この最初の段階の悟りによって、この「私」性、「私」性という誤った見解(邪見)が根絶されます。 引用元 ⇒ サティパッターナ・スッタ

 

 

仏教的修練によって積まれる徳は「五蘊それ自体が仏教的なものに昇華されている」ということ。つまり「五蘊には実体がない(悪の主体でも善の主体でもない)=空」 ゆえに「変われる」のです。

これは総じて「虚」の範囲での「我からの解放(あるいは変容)」ということ。「実」を超えてはいないんですね。

 

「認知療法,マインドフルネス,原始仏教: 「思考」という諸刃の剣を賢く操るために」 より引用抜粋

名色分離智

ヴィパッサナー瞑想で具体的に行っていることを理解するためには,原始仏教における世界の構成要素について知る必要がある。ブッダは,苦を生むこの世界を形作る最少の構成要素として,五蘊(ごうん)を挙げている。それは,色(しき),受(じゅ),想(そう),行(ぎょう),識(しき)の 5 つを指す。

色とは,内的世界を作るきっかけや材料となるもので,皮膚の外側にある物質世界そのものや,そこにあるすべてを意味する。残りの 4 つは全て人の内的作用に関するものである。先ほども述べた,心の方向づけを行う評価作用が受である。想は,その評価を膨らませ内的世界を作り出し色づける作用であり,ここに思考やイメージ等が含まれる。

行も先ほど述べたとおり,変化を志向する衝動作用である。最後の識は,認識したり理解したり了解する作用であり,意識の作用ということもできる。判断や推論の作用を含むという意味で,こちらにも思考の要素が含まれるといえる。

苦の生じる世界は,ほとんどが内的要素により構成されると理解される。外の世界の絶対的事実である色に対して,受,想,行,識によって作られる内的世界を「名(みょう)」と呼ぶ。物質世界と感覚器官が触れ合う瞬間に,精神世界は生じる。ふれあいの刹那に受が作用し,執着の嵐が巻き起こる。

そのプロセスはあまりに自動的で密かに進行するが,このプロセスを分かつことで得られる智慧を名色分離智と呼ぶ。ヴィパッサナー瞑想の目的は,この名色分離智を得ることである(蓑輪, 2008)。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 認知療法,マインドフルネス,原始仏教: 「思考」という諸刃の剣を賢く操るために

 

ただ純粋な現象だけがある」という洞察智において、「これは悪いあれは良い」などの判定者としての「私」もいないんですね。それどころか『瞑想する「私」』もいない。そしてマインドフルネスにおいて「正念,正知,捨」の三つが伴うこと、という以下の指摘は大事ですね。

 

『この名色分離智を得ることは,私を「私が傷つけられた」という物語の主人公の視点から,その物語全体を見渡すプロデューサーの視点に転換する。これは私という物語からの脱中心化を意味しており,Teasdale et al.(2002)が示した認知療法の効果メカニズムと同一である。

この様に,ヴィパッサナー瞑想はマインドフルネススキルだけでは十分とは言えない。正知や捨のスキルがそれに伴うことで,初めてヴィパッサナー瞑想の効果を発揮するのである。同様に,マインドフルネスに基づく心理療法を行う際にも,正念,正知,捨という 3 つのスキルを意図して指導することが有効であるといえよう(伊藤,
2016a)。』

 

正念(しょうねん) :対象から逸れていることに気づくこと、 正知(しょうち): 対象から逸れたこと自体やその対象を嫌悪したり目をそらすことなくしっかりと認めること 捨(しゃ) :正念・正知をした上で,反応することなくただ手放すこと

正念は気づきやすいのですが、特に、「正知」「捨」ですね。「その対象を嫌悪したり目をそらすことなくしっかりと認めること」「反応することなくただ手放すこと」です。

 

「理想と現実の狭間で キルケゴール、現代、仏教」 より引用抜粋

釈迦は信頼するけれども、釈迦の世界観は受け入れられないのです。なぜかというと、それは2500年前のインドの世界観だからです。(中略)2500年前のインドにあった釈迦の世界観を共有しない時代の私が、それでも釈迦の信者になれるのか。その場合、釈迦の世界観を除外してその後に何が残るのだろうか、ということを汲み取らなければならなくなります。それが現代的に釈迦の思想で生きるということの意味だと私は考えています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 理想と現実の狭間で キルケゴール、現代、仏教

 

上記の仏教学者の佐々木閑 氏の捉え方は私も共感します。世界はもっと複雑で、人間も身体や精神も同様に多元的です。そもそも仏教だけでは不十分なんですね。

過去にカルト宗教の本を分析しつつ複数のカルト信者たちの話を聴きましたが、彼等・彼女達が「原始仏教、初期仏教」の原典を読み「釈迦の言葉だから信じる」という権威主義的な姿勢やある種の「単純さ」が垣間見られることがありました。

同時に、形骸化し堕落しきった伝統宗教の人よりも「原典に忠実に生きようとするストイックさ・生真面目さ」も見出せましたが、この「単純さ」「生真面目さ」「権威への追従」が「狂気」の源でもあったんですね。

ストイックすぎる原理主義・教条主義が「行法」と結びつくと変性意識状態を生じさせやすくなり、ある種の離人感が強化され、やがて現実と妄想の区別がつかなくなっていくのです。過去にもこのテーマは書きましたが瞑想や行法にも両義性があります。

カルト信者たちは、釈迦の語ったように「人間の生は苦しみでしかなく人間それ自体(五蘊)は不浄である」とそのまま考え、煩悩を生み出す身体・感覚と世俗的な思考・イメージ等を徹底否定し、それらを「悪魔」として嫌悪し、「凡夫」を見下していました。

伝統宗教の人ほど「○○は不浄である!○○は悪魔である!」的なことをほとんど言わず、カルト信者の方が「仏典やら聖書やらに基づく概念で単純化した人間観」を何度となく(否定の意味合いで)「他者」に押し付けてきます。

彼等・彼女たちが初期仏教から基本的なものである「四念処」を強く意識し実践していたことも事実のひとつなのですが、しかし皮肉なことに、仏典の原理主義的なスタンスを日々徹底したことこそが、逆に「現実の悪魔」を生み出し世を震撼させることに繋がるひとつの力学にもなったのです。

だから私は仏典であれ原典であれ鵜呑みにはしないんですね。むしろその叡智をどういう風にクリエイトして現代に合う形式で使うかの方に目を向けます。