寄る辺なき者の疎外された孤独と 狂気

今回は「寄る辺なき者」の疎外された孤独と狂気がテーマです。動画やツィートを紹介しつつ、ゆっくりペースながら飽きることなく駄文を書き連ねて記事更新しています。

 

宮台真司氏が語る「空洞化する社会」において「寄る辺なき個人」を社会にどう包摂するか、という切り口はよくわかるのですが、氏がよく「クズ」とカテゴライズする不特定多数の者たちの中に、山上容疑者のような生い立ちの人が混じっているわけですね。

一部のインテリとか先生とかソーシャルワークの専門家等がツィッターでクソリプ扱いしたり馬鹿にしている者のなかにこそ、まさに山上容疑者のような生い立ちの人とか(非公開の)障害属性の人々とか「包摂が必要な弱者」が混じっている構造があるわけです。

「疎外された者の孤独」ゆえに対人感覚もアンバランスになり、それが他者に対する変な反応極端な反応として現れることはよくあり、その結果「包摂が必要な弱者」ほど「助けたくない・かかわりたくない」と思われることも多く、

そうやって疎外され続けることで承認飢餓に陥りますます過剰な承認欲求となって、自分のことにばかり捕らわれ他者を思いやる余裕もなくなるので、さらに距離をとられ悪循環に陥りやすいのです。

これが一定期間つづくと人格化してしまい、もう瞬間的に誰からも避けられるくらいに「何か強烈なもの」になっていくんですね。

「寄る辺なき個人」の一部はそうやって生まれるのです。たとえ共同体が解体されても、共感されやすい属性は援助希求行動をとりやすいし、社会や「理解ある○○」等になんだかんだで包摂されやすいのですが、

そうでない属性は専門家に金を払えば話は聴いてもらえますが、身近な日常生活では誰も話を聴いてはくれないし、血の通った関わりとして社会・他者に包摂はされないのです。どうにもならずにネットで何か言えばそこでもクソ扱いされ、そして行き場のない心はどこかに何かに向かって大爆発したりするわけですね。

宮台氏の話は個人的に参考になることや面白い話も多いのですが、あんな膨大な学知を誰もが氏の納得できる次元で吸収できるわけではないし、みなが彼のように学べない。それは能力的にもそうだし、それ以外の「余力」においてもそんな余裕がない人の方が多い。

「能力の劣る他者」を「クズ」と一言で決めつけて全否定しながら「他者」の包摂を語る、そういうインテリとか、能力が高い人とか、人生が上手くいってる者たちの「自分たちは上等な側/奴らはクズな側」に置きたがる姿にも多様な形があります。

そしてクズか増えたから社会はクソ社会になったという思考は、包摂を語る側の姿勢ではないんですね。それはどれだけ知的で論理的であっても結局は強者の論理、生存者バイアスの一種です。

私のような若い時期に廃人化するほど精神が病んだことがある人間は特にそう感じるのかもしれませんが、どれだけ知識・経験が豊富で頭脳が優秀だろうと、あるいは仲間が沢山いて活躍しているとか、権威ある人であろうとそこは関係ないのです。

角度を変えて観れば「若い人ほどクズは減っている」ともいえる。両義性をみていかないとただの全否定にしかならず、正論でしゃべり倒して論破しても今の若い人はただ否定されたとしか感じず、二項対立を強化するだけで終わるでしょう。

私が若者だった時代は「打てば響く」ような反骨精神で昇華していく若者もまだ多かった時代ですが、もし私がされたように今の若者に私が接した場合、おそらく一日すらもたないでしょう。

以下↓に紹介のビターチョコデコレーションの歌詞って、「グローバルなポリコレ同調圧力と宗教的な漂白社会」を生きる若者たちをよく表しているようにも感じる歌詞ですね。

ちょっと何か政治的に正しくないことを言えばみんなで寄ってたかって叩く社会、多様性ということで「他者」に過剰に配慮して少しの迷惑もかけないよう傷つけないよう配慮した結果、

一部のノイジーマイノリティとか共感されやすい属性とか政治的に正しいとされたこと以外は本音も言えないような社会となり、批判を恐れて多くの人が「他者」と距離をとる世界。

「こんな宗教的社会に適応した結果、こんな自我の型を量産する」ただそれだけでしょう。そして誰もが「うっすら疎外」され、その中でより不器用でより疎外された者を助けるコミュニティもないし、関わると巻き込まれて「迷惑」なだけなのでさらに距離をとられてジ・エンド。

そんな「寄る辺なき者」が藁をもすがる思いでカルトに入ったりすれば、「絶対悪」として日本中から吊るし上げられる。そして「迷惑な邪魔者」の社会的排除が達成される。これが「クズ」とカテゴライズされた者たちの合理的排除&袋叩きシステムのひとつです。

 

ビターチョコデコレーション 歌詞(一部)

人を過度に信じないように  愛さないように期待しないように かと言って角が立たないように 気取らぬように目立たぬように 誰一人傷つけぬように 虐めぬように殺さぬように かと言って偽善がバレないように  威張らないように

無駄に自我を晒さぬように 話さぬように分からぬように

毎朝毎晩もう限界 宗教的社会の集団リンチ でも決して発狂しないように

欲やエゴは殺して土に埋め ビターチョコデコレーション 僕は大人にやっとなったよママ

 

 

 

 

以下↓に紹介のツィートの指摘はそのとおりですが、しかし「嫌み・皮肉」とか「暗喩・隠喩」もそうですが、現実には「ご飯が美味しい」だけで終わらない意味、というものはあります。

前後の文脈とか、周囲の状況、語る相手の状況等、その組み合わせ次第では「ご飯が美味しい」という表現を使って「別の意味合いを持たせる」ことは可能なんですね。

もちろん語る側にはそういう意識がなくても、たとえば受け取る側の方に卑屈さやコンプレックスが強くあるような場合、「嫌みを言われたように感じる」という「解釈」は起こりえるわけです。そしてこれ自体は止めることはできません。

しかし何かを書く際にそういうことも考えて「前置き」したり、ひとつの主張だけで完結せず「しかし○○だから△△というわけでない」と書いていても、「○○は△△ということか!」的な解釈をされることもよく生じるんですね。

しかし「書いてないこと」を勝手に深読みすることとか、想像したり様々なものと関連付けること自体は自由で止められるものではないにせよ、そこでただ関連付けるだけにとどまらず、現実に対象を「悪」として叩き、制裁を加えていくような場合には現実的な問題になります。

そしてこの手の「特定のフレームからの主観的解釈及び関連付けからの他責」がSNS(主にツィッター)という文字言語中心の文化ではよく生じるわけですが、そのひとつの力学がポリコレ的なるものへの過剰適応の結果ということです。

そしてこの手の細かい深読みする人は「他者」への思いやりがあるわけでも何でもなく、「私は他者を配慮できる正しい人間 / あなたは他者への配慮のない有害な人間」で人を潔癖に区分けし、自分を優とし相手を劣として『正義を盾に人を裁きたがる「無自覚な加害者」』なんですね。

そういう「道徳的優位性」でマウントしたがる人間が増えてきた、ということです。

強制」というのは「権力や威力によって、その人の意思にかかわりなく、ある事を無理にさせること」ですが、↑のツィートはただ「○○は○○とは言っていない」の論理を書いているだけ。そして「無駄に喧嘩しない」ための言葉の解釈の仕方を書いているだけで、「強制」していないし誰も「制裁」していない。

しかしポリコレは他者に対して集団で威圧し、それを強制し際限なく押し付けつつ、基準もないまま主観的解釈で社会的な制裁・私刑を行うわけです。そこがダメということ。

 

ポリコレは脳の認知機能を低下させるようです。米国のテキサスA&M大学(TAMU)で行われた研究によれば、人間がポリコレ(特定の人々に不快感を与えないための配慮)に基づいた言動を行った場合、脳の認知機能が低下し、私生活の質が棄損される可能性が示されました。 引用元 ⇒ ポリコレ強制は脳の認知機能を低下させると判明!

 

インテリも含めて「みんなそれぞれに異なるクズな面」があり、誰もがドクズになりかねない弱さを持っている、それが人間。いえそれどころかすでに無自覚なクズ性をなにかしら発揮しているものです。

多少のクズ性があるのはまったく恥ずかしいことではないのです。「みんな違ってみんなクズ」それが人間の一面であるということ。

クズ性を隠して無理してええかっこしいするから頭でっかちなドクズになっていくのです。多かれ少なかれクズ性があるのが人間の自然。

壊れたもののクズ性、優れたもののクズ性、どちらも優劣関係のないクズ性。「お前はクズ」とそう上から言える権威性がある人とない人がいるだけ。そして「権威性の全くないクズ(特に男性)」は社会に包摂されにくいんですね。

しかし誰もがお互いに思いっきり「お前はクズ」と言い合えるフラットな関係がラップには存在します。ラップはその意味で「みんな違ってみんなクズ」の対等な世界(笑)みんな違ってみんなクズなんだから多少の迷惑もお互い様。

偉そうにしゃべり倒すインテリ連中をラップバトルの大会に呼んで、ラップ対決してみればいんですね。肩書の権威性を全てはぎ取って対等な人間としてそれをやることでもっとお互いスッキリするでしょう。

まぁそれは実現しないでしょうけど、ラップにおける対人感はビターチョコデコレーションでの対人感とは真逆です。自分のコトバで遠慮なくぶちかましていくのを「お互いにやれる状態」。しかも一定のルールと有限性がある。だから区切り・終わりがある。

ビターチョコデコレーション的世界には終わりがない、ポリコレのような際限のない無限性に繋がっています。

 

社会心理学者のチャルディーニの「説得力の6原則」の中の「権威性の法則」ですが、先生、大学教授とか士業の方々というのはそれだけで権威性を纏っているんですね。だから話を聞いてもらえる。

コミュニケーション能力が高いのではなく、言ってることが一番深いとか正しいからではなく、「権威性の法則」が説得力となって「相手に受け入れられやすい」だけ。

しかも日本は縦型社会なので、年上で権威性があればより話を聞いてくれやすいのです。またこういう方々が体制批判とかをして弱者や下の味方のように振舞うことがありますが、それは「自らの権力性の表れ」でもあるんです。

政治家とか警察とかだけが権力ではないです。「常に弱者側に立ち強い側を叩き続ける人たち」というのは、自身の権力性を強めたい人で、内なる権力性を外部に投影したものでもあるということ。

そしてSNSで見られる一部の教授やインテリ・専門家たちの独善性や了見の狭さ、「自分(たち)だけは正しく世界が見えている」、「自分(たち)が最も深く世界が見えている」的なあの無自覚な傲慢さは、単純に学知や経験に裏打ちされた自信だけではなくて、

指導的立場の優位性と周囲からの承認・敬意によって高められた自尊心ゆえの「主観」の権威化。これが自然科学の場合だと主観を権威化しづらいのですが、

人文系の一部においては、何かの「価値判断」や「定義・解釈」を独占するかのように振る舞うことが権威次第では可能なんですね。閉鎖的環境におけるある種の「政治権力」によって教祖的な精神状態を生み出す。

そうやってアカデミック弁慶が誕生し、権威化した「主観」で特権的な定義・解釈を行い、自らが法であるかのように価値判断する。反対者の意見は全否定し悪魔化を行う。

そして周囲も「道徳的優位性」と「指導的立場の優位性+専門的な権威性」があるような年上の人にはなかなか突っ込んだ指摘もできないし、諫める人もほとんどいないでしょう。

仮に言ったところで、「私の見方、私の言葉が正しい、あなたの見方、あなたの言葉が間違っている」になるように持っていかれるんですね。

そしてこの手の「無自覚な権力者」もまた「寄る辺なき個人」の「寄る辺なさ」を生み出しているひとつの力学であるわけです。

また科学の仮説とかもそうですが、「複雑で緻密な論理」でもやり方次第ではどんな風にでもつじつまが合うように組み立てられるものです。頭のよい人は自分の論理が正しくなるように簡単にもっていきます。

まして科学ではない分野では、主観でほとんど結論まで持っていくような論理構造で断定的に語るケースなど、専門家や学者の言説等でもよく見聞きします。SNS等のやりとりを観察していても、常に自分が正しく「善」であり、相手は間違っていて「悪」であるという形式で結論します。

 

寄る辺なき者の疎外された孤独と狂気

ico05-005 人殺しを許す慈悲は人殺しを育てるに等しい  シェイクスピア

有名人が自殺するなどしたとき、その情報に触れて後追い自殺模倣自殺が起きる、これを「ウェルテル効果」といいますが、これは有名人に対する「親近感」、「共感」によって生じます。

これは「センセーショナルな殺人事件」にも当てはまることなんですね。そして今回の事件はその性質が強いと考えます。にもかかわらずあまりにも報道の「量」が多すぎるんですね。

 

「凶悪犯を報じるほど次の凶悪犯を誘う社会の惨状」 より引用抜粋

模倣犯について研究している犯罪学者のジリアン・ピーターソンは、「これは社会的伝染病の一種であり、自殺伝染病のようなものだ」と主張した。そして身も蓋もない話ではあるが、伝染性のある学校での銃撃や大量殺人を特徴づけているのは、それらの事件が報道された量だというのである(“Mass Shootings Can Be Contagious, Research Shows”/2019年8月6日/NPR)。つまり、国内外で盛んに取り上げられることが次なる事件を後押しする一因になっているかもしれないのだ。

社会人類学者のエリオット・レイトンは、「怒り悩める者たちは、社会が価値を認める暴力的アイデンティティを獲得することによって、主流文化に参入することができる」と指摘している。それはマスメディアや彼らが用意した専門家たちが凶悪犯罪それ自体にニュースバリューがあると考え、犠牲者数の多さがわたしたちの社会に対する何か深遠なメッセージを突き付けているかのように反応する構造と一体になっているからである。

(中略)

本当の地獄はどこにあるか

しかし、リアルな人間関係において尊厳を得られない者ほど、その欠乏を実りがない寒々とした物理空間ではなく、自らの存在が誰かの目に触れ、記憶に焼き付けられる可能性のある情報空間に活路を求めようとする。

これはソーシャルメディア上の注目度などで絶えず自己確証しようとするアテンション・エコノミー(関心経済)と親和性が高い。暴力的アイデンティティの獲得による面目躍如が魅力的な解決策のように思え始めるのだ。つまり、本当の地獄は「蜃気楼」に強烈な意味感を持つことでしか自らの心を奮い立たせることができない境地にこそある。ここにこそ肝心の答えが剥き出しになっているといえる。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 凶悪犯を報じるほど次の凶悪犯を誘う社会の惨状

 

しかし同時に、人殺しという罪・行為はそれ自体は許すことなく擁護しないが、その人間そのもの全てを憎まない、それが「罪を憎んで人を憎まず」です。

自分の愛する人を殺されて「罪を憎んで人を憎まず」を出来る人はほとんどいないでしょう。確かに世の中にはとんでもない非道なことをする人間は存在します。

ただ最終的な結果として表れてきたそれを憎んで叩きのめせば、今後はそういう心・精神状態が生じなくなるのか?

今回は人物Aの心・精神がそうなったというだけで、それはまた再び別の誰かB、C、D..の心・精神の状態として現れてはこないか?その人だけがもともと特殊な生まれながらの基地外なのか?

存在そのものをただ憎むだけの姿勢では人物の全体性は見えてはこないんです。

 

山上容疑者は父と兄の死が身近な現実としてあり、そこに母の問題が大きく存在し、そのうえで誰にもその苦しみを表現できずに孤独の中を生きていたわけですが、最近では京アニ放火・青葉真司被告も5人家族のうち父、兄、妹が自死で、孤独の中で生きています。そして二人とも氷河期世代です。

帰る場所がない者、これは加藤智大死刑囚も含め、毒親・虐待・カルトなど過去に書いてきたテーマとも重なるのですが、「ただ苦悩・絶望があった」だけではなく、寄る辺のない「疎外された孤独」の中でその苦悩・絶望と共にあった、ということです。

彼らは「疎外された者の孤独」の中でも特に精神を病みやすい条件が複数重なっているんですね。「虚無」にも深さがあるのですが、虚無の深みに飲みこまれた時の世界の見え方は、あのゾっとする質感というのは、言葉では表現が出来ないものです。

帰る場所がない者の寄る辺のなさ。そして「もはや自力では無理な状態」になっていたということ。しかしもしそこに寄る辺があったなら「他力」が加わることで変われることがあるのです。

 

これは孤独に閉じた個人が思考しても「ぐるぐる思考(反芻思考)」になりやすい、ループ化するわけですね、本などで知識を入れようが結局それを解釈し考える自分の思考そのものは認知限界やパターン性に条件づけられています。

 

後、孤独といっても以下↓のような「よくあるもの」は、多くの人が経験する自然な感覚で、こういう「バランス回復のための選択的な孤独」は今回テーマにする孤独とは全く違う質のものなんですね。「人疲れ」とか「ONとOFF」みたいな次元の話ではないんです。

 

孤独にも多元性があり、「ぐるぐる思考(反芻思考)」にならないどころか創造性がより生き生きと働く別のルートもあります。「私」を超えた「媒体としての身体」が世界とつながるとき、反芻は生じず、今ココにおいて世界に開かれあらゆるものと孤独の中で対話する。

そこにおいて反芻思考のような閉じた思考ループは生じない。そういう「開かれた孤独」があるんですが、これは芸術や創作をしているの人の方が身体で理解している人が多いでしょう。

しかし今回はそのような孤独が持つ創造性、世界への開かれがテーマではなく、「疎外された者の孤独の閉じた思考」に変化を与える「他力」にスポットを当てています。

酷い鬱とかもそうですが、それに輪を掛けて「どうやっても抜け出せない状態」というものがあるからです。

ただの文字言語ではなく、「他者の身体性」に触れながらそのリズム・テンポ、エネルギーを身体で感じながら相手の思考や言葉を聴いていくと、強固な反芻思考のループが外れ、「他者の身体性」が認知限界やパターン性を崩してくれることがあるんですね。

なぜ実際に会って他者と話すこととか他者と共に在ることが大事なのか? たとえば「師」とかもそうですが、師の身体性=「他力」なんですね、概念を学ぶ以上に。だから身体を持った師や「他者」が存在するということが大事なんです。

身体性に触れると意識が自然とゆらぎはじめます。自分とは異なる「他者」のリズムとの共振が生じます。だからいろんな人がいた方がいいと思うのは、誰が誰の支えになるかはわからないからなんです。

師や友や妻や夫や子供が「ただいる」だけでもそこには「他力」の恩恵がある。そういう人がひとりもいない状態での孤独、そしてそこで強力な反芻思考が生じているような場合は難しんですね、自力で抜け出すのは。

だから包摂とか共同体の話が出てくるのです。共同体は「疎外された者の孤独」や「寄る辺なき個人」にとってこそ最後の砦になるんです。「自由な個人(他者)」からは拒否される者たちでもそれが社会に繋がるインフラになるからなんですね。

それが解体されたことで、弱者ほど「自力」しか手元になく、強者は妻や夫や子供に囲まれ友人や師に恵まれ、様々な「他力」に支えられて充実し、仕事においてもポジションを得て自己実現できる、という圧倒的な「持てるもの/持たざる者」の格差になっているわけです。

「お金」だけが人を支えるんではなく、それが平均より少なくても楽しく生きている人なんてたくさんいる。それはさまざまな「他力」に支えられて生きているいるからですが、

「自由」と「個人主義」のセットを最大限に生かせるのはそれなりの能力や魅力のある人とか恵まれた人であって、最も「他力」が必要な人にはその恩恵がなく、逆に「既に持っている人」にはどんどん「他力」が集まりさらに豊かに育っていく。

そしてそんな「持てるものたち」が「孤独はいいものだ」とか「○○はクズだ」とか多様性やら包摂やらポリコレ的な配慮を声高に語るんですね。そうやって結局「自分が主役」になっちゃうんです。

恵まれているのにまだスポットライトを浴びたがる、そして肝心の「持たざる者」は影の中で沈黙している。大きな声を出せるのはその力がある人とか援助希求行動をとっても受け入れられやすく共感されやすい属性だけ。

そして世間は60億を稼ぐセレブ女性テニスプレーヤーの鬱告白や声には大いにを耳を傾ける。

「寄る辺なき個人」「持たざる者」は「助けたくない、かかかわりたくない者」として、その「声なき声」はすべて不快なクソリプ扱いで全コミュニティからのブロック推奨。そしてクズとして視界から消され薄暗い透明な世界に排除される。そして彼らはただ影の中を生き続ける。

 

真面目な人が殺そうとするのは「自分自身」 それでも殺しきれなかったとき 「殺そうとした殺人者(私の正しさ)」と存在が分離したまま生き続ける

常に「殺したい存在(自分) 終わりにしたい人生」と共にある解離の中で  唯一の信念が「憎しみ」しかなかったとき  「私を終わらせることが出来ずに生き残った殺人者」は  虚無の中でその唯一のものが絶対的な信仰になり祟り神になる

 

「人生を終わらせたいと考える人」にも多元性があり、個々の違いも運命なのかもしれませんが、先に決まっている何かがあって、そうなった、そういう力が確かにあると感じますね。

「愛」というのは 仏教的な「愛着」の概念でいうならば人間の生きる力の大きなもののひとつでしょう。そこに様々なものが付加していても中心にあるものは「愛着」であることも多い。そして「憎しみ」も「愛着」のコインの裏表。

生きようとする心にはまだ愛が残っていたとしても、愛が産んだ絶望が自我を虚無に飲み込み、我をも忘れて何かに縋りつく。だが自我の危機から逃れようとしても何にも寄る辺のない時、「私」はさらに壊れていく。

やがて自力で回復できるだけの愛の力も失われ、虚無だけが広がっていく。愛ゆえに生まれた絶望なのに、そんな絶望に必要なのもやはり愛だった。

「愛」が誰よりも必要だっただろうに「愛」に救われないパラドックス。仏教的な意味で「病名は愛」ともいえるかもしれない。