世界はあなたの眼差しと共に 見失われ疎外された人の在り方
暖かで鮮烈な日差しがまぶしい春の日が続いていますね。みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
私にとって春は素晴らしい心穏やかになる季節です。木々や空の変化、川や森の輝き、その光の陰影の無限の変化を見ているだけで、今ここに存在していることの奇跡を感じます。
三月の記事は今日の記事で終了です。記事を書くのに時間とエネルギーを使ったのと、他にやることも沢山あり、時間の都合と心身充電のためしばらくお休みします。
今回の記事テーマは、十年以上前の過去の私の心境・問いかけを書いたものの紹介と、他に関連するテーマの記事を加えた内容です。
私自身は凸凹人生の過程を生きている途上の者であり、不完全で未熟な一人間に過ぎませんが、自身の体験や感性的な理解が、今同じ時間をどこかで生きている人々の極ささやかな癒しや、理解のキッカケになればそれだけで十分ですし、
同時に私自身の終わりなき探求の道の過程として、ブログ記事を書いています。
表現力もまだまだ全然不十分で、記事内容には説明不足や表現の偏りも多いですが、私は心・精神の様々なテーマで記事を書く際に、特定の記事や同カテゴリーの数記事のみで最終的な結論を出そうとしているわけではなく、
かなり長期的な目線でゆっくり書いて総合的なものとして心・精神の様々なテーマを複合的に見ていこうと考えていて、まぁそういうブログなので悪しからず(^-^;
私は昔はよく詩や日記を書いていました。そしてその時々の現実で気づいたことを書いたり、生じた問いかけに応えることをしていました。現在は詩をたまに書くことはありますが日記はつけていません。絵を描いたり芸術的な創作活動などは今もやってます。
では十年以上前の過去の私の問いかけへの応答を書いたものを以下に続けて紹介ですが、その後に続けて「見失われ疎外された人の在り方」のテーマで記事を書いています。
自分を信じれない人は 人も信じれない その時人は 疑念か盲信に両極化する 自分を信じれなくなったのは何故だろう? それは信じれなくなるような生き方をしているから してきたから
自分を自然に信じれる人は 疑念か盲信かに偏らず ただ自然に人を信じれる 自分を信じれなくなったのは何故だろう? それは自分の発したコトバを自分で裏切ってきた 裏切っているから
自分の発するコトバを大事にしなければ コトバには生命力がなくなり 言ったコトバは何も実現しなくなり つじつま合わせで放つコトバは 毎回コロコロ変わる浅はかなものになっていく
コトバを大事にする人は 言霊などと言わなくても 本当のコトバの力を持っている
自分を信じれなくなったのは何故だろう? それは自分の意志で自分の本質を裏切って行動してきた 行動しているから
だから自分を信じれなくなった心は 「信じれない自分や他者の心」を 盲信し狂信することで 疑い否定し嫌悪することで自分自身から目を背け続けるしかなくなる
「私は誰からも愛されない」 いやそうじゃないはず ただ「私が誰も愛していない」だけ そう気づけば 自らは人に心を閉ざしたまま 「完全に満たしてくれる人」など求めたりしない 自らは人を憎み蔑みながら 完璧な愛や対応など 人に求めたりしない
「世界は社会は誰も私を理解しない」 いやそうじゃないはず ただあなたが世界や社会や人間というものを理解していないだけ そう気づけば 自らは世界に心を閉ざしたまま 完全に満たしてくれる世界など求めたりしない
自らは世界を憎み蔑みながら 完璧な愛など世界に求めたりしない そう気づけば 自らは世界に心を開き 「不完全な今」から少しづつ前進していくだろう 自らは世界を憎まず 不完全な世界と共に生き共に前進していくだろう
たとえそれがどんなに小さくささやかな歩みだとしても それは間違いなく先に進む確かな一歩
相手が自分を認めてくれたから理解する 自分を肯定するから肯定するのなら ただあなたはやられたことをやりかえしているだけの生を生きる
依存しているだけの心は 外側からの干渉への同調か反動でしか存在しない
そう気づけば 他者と自分を比較ばかりして「自分の色や大きさ」を嘆き卑屈になることはなく 逆に反動での闘争に明け暮れることはないだろう
そして心の内から湧き出るエネルギーを表現して咲かせることが あなたの目的になるだろう そこに全力を注ぐ時 自分が他者と比べてどんな色か大きさかなど どうでもいいことだろう
そして自らは世界を憎まず 不完全な世界と共に生き 共に前進していくだろう
もしあなたが本当に気づいているのであれば 生の見え方も 人の見え方も 気づく前とは全く異なるだろう
「同じもの」が人によって異なるように見えるのは 「見ている角度」が異なるからだけではなくて 「眼差しの質」が異なる時にも起きる 憎んでいるものには憎んでるものしか見えなくなるように 「囚われ」は眼差しの広がりも深さの質も失う
「ただ見る」ことから 人や世界の姿が少しずつ見えてくる
全てが思い通りにいく人生はない あったとしたら独裁者のような暴君だけ 誰が傷つこうがどうなろうがお構いなしの未熟な人間だけが 全てを思い通りにすることばかりに囚われる だれもが沢山の思い通りにいかない何かを抱えて生きている
喚かず騒がず 不満を殆ど表現しないだけで 多くの苦難を抱えて生きている人など幾らでもいる 多くの人々と楽しそうに笑って過ごしているなら気楽で幸せな人生か? 自分と比較して優位な社会的立場にいれば幸せな人生か?
その笑顔の影で 四苦八苦し泣いて努力している姿を その過程を見たことがない人だけが 今輝く人を理解もなく嫉妬しこけおろす 表面しか見ない人々は表面的な姿の優劣に囚われ一喜一憂する
見失われ疎外された人の在り方
「自分を裏切らない」というのは「誰がどうなろうがやりたいように衝動のままに生きる」という意味ではなく、「正直さ」が「思ったことを何でもそのまま言う」ことや「感情のままに表現すること」だけではないように、
人は社会と個の公私のバランスの中で、そして「役割・立場としての自分」の中で、状況に応じた適切な表現が求められますが、それは社会的生き物として必要な「条件づけ」でしょう。
「殺したい」と思ったから殺した、これも「正直さ」と言えば正直さでしょう。ですが「殺したい」と思ったが殺さない、これも「正直さ」なんですね。 それは人間は「衝動だけの存在」ではないからです。
人は荒々しい原始的衝動だけで生きている野生動物ではありません。荒々しい原始的衝動のままに生きることだけを正直とか ありのままとか思っているのであれば、そもそも人間に社会を作り出すことは永遠に出来なかったでしょう。
原始的衝動だけではないものを元々持っているからこそ、人はその荒々しい衝動を無意識のまま全開放するのではなく、それを意識化し昇華し、自然界とは別の次元としての 人間の世界を生み出してきたのです。
「殺したい」と思ったが殺さない、というような衝動と行動の矛盾を、原始的衝動とは異なる心性を、人間はその本質に内在しているのです。それは幼い頃はまだ素朴でシンプルなものですが、その成長が阻害されなければ 自然に育ってくるものです。
そしてこれは人間だけでなく、生物学的な観察によって一部の発達した社会性を持つ動物にも、荒々しい原始的衝動とは異なる心性が認められるのです。そしてそれが人間の証でもあるんですね。だから「原始的衝動に対しての不正直さ」は ある意味「人間らしい正直さ」なんです。
ですがその成長が不十分、あるいは病的な発達である時は、原始的衝動のままに生きる方が正直な人間に見えるでしょう。
犯罪とまではいかなくても、人が何故、ある種の原始的衝動のままの露骨な表現を「正直」と思いつつも、同時にそれを「醜い」と感じるかと言えば、それは教育とか嫉妬とか偏見とかの作用だけではなく、実際に「醜さ」として感じる心性を持っているからです。
もちろん文化や時代の状況・都合によって、その外面的な「形」は様々なものに変化させられてきたことでしょうが、人の心の本質には 美や醜に関するシンプルな普遍的な心性があり、それは伝統宗教や道徳や芸術などの中にもエッセンスとして表現されてきたものなんですね。
そして「美」の生命力を失い本質が空洞化し形骸化した時に、外面的な「形式」がより重要になるわけです。その時、人は心性から湧き出てくる善性を失い、「原始的衝動を表面的に抑えつける在り方」になり、それによってますます空洞化し形骸化します。
そのためにさらに管理と矯正と抑制強化によって恣意的な外的・表面的な調和・秩序の強要になるのです。
心性から湧き出てくる善性を有している時、人は創造的でありつつ活力に満ちていて、そうでありつつ同時に原始的衝動は内発的に昇華され、過剰な道徳の押しつけや管理・矯正・抑制なしに自発的に「自他調和的」になるのです。
人が全体性として生きている姿と言うのは、元々の本質が殺されず否定されず 尚且つ自然に調和している姿なんですね。
人が自己分離的に生きている姿と言うのは、原始的衝動のままだったり、逆に、ただ自己をがんじがらめに拘束的に抑圧して、「外圧」で型に矯正しているような在り方なわけですね。
このように人が全体性を見失い自己分離的に生きている時、心性から湧き出てくる善性ではなく観念的な「善」への固執が優位になるため、人は観念的な「善」を盾に排斥し合い殺し合うようにもなるのです。
そしてこのような時、人は創造性も個の能力も自然に開花できなくなり、自身の感性と理性で世界を見つめる視野の深さと広さを失い、単に周囲に迎合し流され、外発的なモチベーションに突き動かさされるだけの存在になっていくのです。
それは人としての本来の在り方を疎外された状況のため、本質的な生きづらさと息苦しさを感じ、徐々にそれも麻痺化・慢性化し、ストレスが心身を重く硬直させ、創造性も輝きもない自身の生の姿を世界に投影して絶望的になっていきます。
ただそれは世界自体・社会自体・個の存在自体が絶望なのではなく、そのように変質した意識が絶望的な感覚を生んでいるだけです。なので、再び調和を回復した時、「以前と同じはずの世界」の見え方・感じ方は、それまでとはまるで異なるものになるわけですね。
ここにある詩たちが、心に響きました。
ありがとうございます。
なにか?自分の中の、此処十年でワダカマり、、、と、言うには余りに強固な、、、何かが、自分の中で溶けていく事を感じる事が出来ます。
有り難うございます。
心から、感謝します。
ただそう簡単に?ワダカマリが、全て溶けるわけでは無いし、ワダカマリが在った事が消え去る訳でもない。
反抗と依存、愛と憎しみ、疑念と妄信、、、
其処へ踏み込まざるをえ無かったのは、求める形が初めから噛み合っていなかったからなのかも知れない。