心の存在と存在の徳性
なかなか更新する時間がとれずに、ようやく更新できましたが、久しぶり過ぎて文章を書く調子が何だか狂ってしまいました。ワクチン二回接種完了したのですが、通常の人の副反応と異なり、接種後に逆にやたら体の調子が良くなり、元々変わったタイプの人間ではあるけど、体も変な反応するなぁと驚きました(笑)
今回は「心の存在と存在の徳性」をテーマに考察し、後半では自己肯定感を概念についての補足を含めた記事を書いています。最近感じたことや無意識を含んだテーマになっていますので、やや抽象的な内容を含んだ記事になっています。
理不尽な目に遭ったときに「嫌だと声をあげていい」「人に伝えてもいい」「正攻法で反撃してもいい」と考え方を、幼少期から教えることも必要だと思う。「嫌なことがあっても我慢する」ことを、「いいこと」だとする教育は、「いい人でありたい」人を都合よく利用する社会をつくっていると思う。
— Nikov (@NyoVh7fiap) September 6, 2021
↑上のツィートは大方共感ですし、過去にも「良い子」に関する逆説的なテーマで記事は書いていますが、このような「ある現象の捉え方、こうあるべきの考え方」の作用が○○な負の結果を生む、という内容のツィートとか話は様々なタイプがあり、
そして、この捉え方それ自体を絶対化したり全体に強く意識させようとすれば、今度はそれが新たな「こうあるべき」になり、「人の感情を特定の方向へ向かわせる扇動効果」として負の作用にもなりえる、という正負の両面を持つことは多いのです。
少し話を変えて、「社会運動等で共感の力と集団の力でメッセージを前面に出している人達」の場合の「声を上げる」の場合、
「嫌だと声をあげていい」は運動の目的に対して合理的で、そして運動にはなくてはならない態度なので積極的に推奨される、つまりそういう人が拡散する時はそういう方向性に意識を向けさせようとしている、ともいえるのですね。
また、社会運動とは無関係に、「良い子」「優等生」「真面目な人」というスタンスを「受動的に生きてきた人」、「外発的な動機付けでそうなっている」、この「硬直した統合状態」が、何かの限界に達して本心が解放された、という個々のケースもあるわけですが、
実はその場合、「心根が優しい良い人」かどうかというのはまた別の要素を含んでいることがあるのです。(これに関しては後で書いています。)
そして「何が理不尽なことか?」「何がされて嫌なことか?」は人によって同じ場合も異なる場合も多々あり、「正攻法で反撃」は、「あなた」に対して「相手」が行う権利もあり、「声を上げる」とはいってもみな同じ方向ではなく多元的な方向に発せられるものなので、
「どちらもが己が感情と判断に基づいてそれを使う」という場合、「あなたが相手を正攻法で殴る(制裁の意味)権利があるのと同時に、相手があなたを正攻法で殴り返す権利もある」ということです。
個々の主観と現象の捉え方が一定でなく多元的である以上、「理不尽」や「嫌なこと」も多元的な解釈が生じるのは当然で、そこからの「制裁」も多元的な方向性と形が生じるので、
「不快と感じたらすぐ殴る」の怒りの閾値を下げ続けると、その集団は興奮しやすく怒りっぽくなり、常に互いに「お前が悪だ」、「いやお前こそが悪だ」を言い合って掴みかかっているような世界になっていくでしょう。そして実際に今どんどんそうなってきているのです。
そして「お気持ち総合格闘技」みたいに、「不快な対象」「邪魔な対象」を集団で徹底的に叩き潰すか、徹底無視で排除するかのような極端な善悪二元論の闘争になっていくのです。そのような状態では、未来は決して特定の人達の理想の全的な達成にはならないでしょう。
SNSはまさにこの曲↓のような感じになっていますが(笑)、しかし岡崎体育さん、この風刺はタイムリーですね、凄いリアル感です♪ コーヒー吹きました(笑)
型としての徳性・存在の徳性
今回は、「型としての徳性」と「存在の徳性」の違いが主なテーマです。「型としての徳性」は今世界中に溢れています。しかし、「存在の徳性」は失われ続けています。それは「心」が消えた(傾向性として)からです。
今回は心理学の専門家の東畑 開人さんの新刊「心はどこへ消えた?」とは異なるアプローチでこれを考察しています。
男女に拘わらず、単に気が弱いのではなくて、本当に穏やかな人とか「いい人」って、自分事であろうが他人事であろうが、冷静に優しく対象・現象が観れるんですね。
自他境界がシッカリとして、共感に流されず、かといって冷たくない、その時に必要なこと、シッカリと相手の力になってくれるけど、決して情動的・感情的な激しさで同調せず、穏やで優しいのです。
私の心には記憶にはそういう人達が残り続けます。実際に、「数十年間の山あり谷ありの人生の中でもただそうあった、あり続けた人達」が複数の知人として存在するのですが、それは専門家や科学者も同様ですね、しかし残念ながらそういう人は「少ない」です。
今までそういうやさしい人達を当たり前と思って生きてきた。しかしあなたのまわりにいるやさしい人はけっして当たり前の人達ではない。 加藤諦三
「私」の外部にある「それ自体で実在する悪」が「無垢」である「私」を傷つける、という図式は、「害」の因は外部にのみ存在し「自己の無謬性」を得られます。「傷つくのが嫌で自分を守りたい」のは多かれ少なかれ誰でもあるでしょうが、
「疑似イノセンスを纏う大人」が、「全体性(複雑性)としての世界・人間のリアル」に耐えられず、ある種の「潔癖主義・純潔主義的な理想論」に向かうことがあります。そしてその理想は「疑似アジール」なのです。
過去記事 ⇒ 疑似イノセンスを超えて
「悪は外部にそれ自体で存在する」というのは、本質主義的に悪を捉えています。そして悪について考える時、そう単純化して考えた方が基本的に楽で、
これは社会構築的な考え方もそうですが、「本質的、先天的なもの、個人的なもの、集合的なものが複雑に絡み合った因縁の作用としての現象」ではなく、「一方通行的に単純化された原因・関係の図式」で構造が説明されるんですね。
なので「個人の問題か集団の問題か」、「能力の問題か構造の問題か」等、二元論的になりやすいのです。社会構築主義と本質主義のどちらを内面化しても、結局は前提が異なるだけの二元論になりやすく、これは「責任」の問題もそうですね。
本当に「無意識」を見つめ、触れ、無意識について学んでいるのであれば、存在は内発的な動機で自らの生を生き、冷静に優しく対象・現象が観れるんですね。それは無形の「徳性」であり、この「無形の徳性」は社会的教育、専門家等の指導では殆ど得られません。
心がやさしくなると、自分を騙した人が地獄にいることが分かる。そこでその人を可哀想と思い、その人が地獄から抜け出すようにと祈ることができるのだろう。しかしそこまでは普通の人間には無理である。なかなかできない。普通の人間にできるのは、憎むのが馬鹿らしくなるというところまでであろう。
それどころか社会的教育、専門家等の指導によって逆に見失われていくことの方が多いのです。何故なら社会では「型としての徳性」の方が重視される傾向が強いからです。それが一般的に言われる「道徳・規範・技術・資格」等の「意識的に訓練されたもの」です。
そして共同体に適応的な徳性、旧来の保守的な家父長制(パターナリズム)による「あるべき姿」の脱構築を行っても、
リバタリアンパターナリズムが結局のところ「あるべき姿」の普遍主義・全体主義化へと向かうなら、価値基準は異なれど構造においては同様の力学となり、
そして保守的なものへの対抗の過程によってその権力性を強めていく結果、皮肉なことに「保守以上に保守的」になっていく、という逆転現象が生じるわけですね。
そして自我を何らかの価値基準で標準化された「鋳型」に嵌ていこうとする力学が強く作用する時、必然的に「存在の徳性」が育ちにくくなるのです。
道徳・規範の鋳型に嵌めこむ社会的教育によって、「善い子」「真面目」な自我の「型」を人は形成しますが、それだけでは訓練された「型」としての徳性しか宿りませんので、「存在の学び」とは全く異なるものになります。
○○バイアス云々、無意識に気づく云々、ポリコレ等も結局は特定の政治的正しさの「型」の範囲の話でしかないのです。
それもまた「良い子」という硬直した統合状態を生み出す力学になり、そして「いい人のジレンマ」のひとつはこの「型としての徳性」に偏った強化にあるのです。(「本当の意味でのいい人」は内的状態が異なります。)
その結果、「世界を社会を良くしよう」という「良い子の善意」による運動が逆に「理想でデコレーションされたディストピア」を生み出す、ということです。その状態を表した名言が「地獄への道は善意で舗装されている」ですね。
ところで、良い子が反抗期を迎えた時、その反逆性は、「ミイラ取りがミイラになった状態」なのではなく、無意識の目線で観れば、「ミイラがミイラ取りを始めた」ということです。元々あった抑圧化された無意識(その人の一面・反面)が開放されただけ、ということです。
それを生み出す力は、無意識の「硬直性」からの解放の過程のゆらぎ(創造性の作用の一種)によるものです。しかし、この「抑圧された無意識の解放時」に、特定の思想や宗教(分離性の強いミーム)に同化してしまうと、
「抑圧されていた一面のみが肥大化する」ことが生じ、この分離肥大状態のひとつがカルトに向かうのですね。そしてこれもある種の「昇華(反面のみ)」であり、「適応」の一形態、ともいえるのですが、この昇華は分離的なものであり、
無意識は調和せず、観念との同化によって「新たな束縛」の状態になり、創造性が抑圧されることで変容可能性を失い、変化したように錯覚しても、実際は以前とは別の形式で「自己完結状態」になっているだけなのです。
同じ「良い子」でも、愛情から「良い子」になる子と、恐怖感から「良い子」になる子がいる。大人になってから問題を起こすのは、恐怖から「良い子」になった子供である。加藤諦三
本当は、そういう観念的な鋳型に嵌ることを解放と錯覚せずに、「個々の実存の問題」として孤独の中でそれに取り組むときに(それは容易ではないかもしれませんが)、個人としての内発性が生じ、創造性が生まれ、そこに「個の無意識の応答」が生じます。それが変容可能性に繋がるのです。
その可能性が開花することによって、内的に分離した無意識は動的に調和する方向に向かい、存在は全体性としての自己を実現させていくのです。
(これは賛否を呼びそうな意見だが)親が子どもに真面目さ・規範を示す“良いお手本”的存在であることを目指すよりも、安全で自由な“安心して乗り越えられそうな踏み台”的存在でいる方が良い気がしている。前者が子の罪悪感や劣等感に関連し、後者は自発性や創造性に関連する…的な研究ないかな。
— 井上祐紀@精神科医/祐生カオル@ヴォーカリスト (@yukichildpsy) September 18, 2021
↑上のツィートは「内発性」「創造性」と確かに関連すると、自身の人生を通してそう考えます。外発的な強制力によっても「善い子」として統合はされるのですが、その硬直性は逆に「内発性」「創造性」を抑圧化するのです。
しかしある種の「逆境」からの反発が上手く昇華され、原動力になるタイプもいます、それは内外(個と環境)のバランスや組み合わせで決まるので、誰もがそうなるとは言えないでしょう。
「実存的孤独」の中で、独自性・創造性と内発性が芽吹いてくると、「偶然」(最近では「○○ガチャ」と言われますが)への応答と問いかけへの応答を通して「誰のものでない唯一性の人生」を創っていく「力」になっていきます。「宿命」と自身の関係性はその時、「一般的な物語」の意味範囲に回収されずに、独自の物語へと「変容」し、その解釈自体に生の意味と価値が宿るのです。
世間の定義した大きな物語、専門家の定義した大きな物語、に飲み込まれず、独自に物語を生み出し変容していく力があることに気づく可能性が高まり、その時、意味と価値が与えられた「道」が「向こうから」訪れるのです。それは誰かと比べてどうだというような道ではないのです。
「偶然」である「宿命」を超えていく力は、その時に得られる「非常に個人的で他の誰とも異なる無形の贈与」です。決して技術化したり汎用的な形式に定義化出来ないものです。しかし、それを逆に奪って「型」を与えて囲い込むことが現在の社会では「包摂」と呼ばれ「優しさ」と呼ばれたりもします。
個人主義化した先進国社会では、人権とか、差別をなくそう、○○平等とか「誰もが傷つかない社会」とか様々な社会運動が盛んですが、
リバタリアンパターナリズムによる「個の包摂が細分化されていく社会」では、あらゆる個は「配慮・計算され事前に用意された型」の中で管理され細かく統御され、鋳型に嵌めこまれることで逆に「個の心が忘却されていく」のです。
深い次元で「存在の多様性」が失われ、「型としての多様性」「観念としての多様性」だけが叫ばれる時代です。世界は具体的な「方法」「適切な道」を「教えてくれる人」に溢れています。しかしそれはあくまで「技術」「適応」の領域であり、(それも必要なものでありますが)「核」の部分に湧き上がる内発性が無ければ、それはただの技術的なものに過ぎず、
また「他者が与えた意味や価値」は、自身の宿命への直接の応答にはなりえないのです。そして表面的に社会に「適応」し、硬直した形での「調和」は形成出来ても、それだけでは個の実存も集団も空虚なままであり、「他者との型の比較」と「構造への依存者」として「自我の虚無の穴埋め」で人生が終わってしまうでしょう。
本来の「心」が「構造の外」にあることを知らないまま、「個の心」は社会であり政治である(植え付けられたフレームそのものである)と思い込まされ、そう錯覚して死ぬまで「政治」と「社会」だけを生きる=「自我の虚無からの逃避としての生」を生きるでしょう。しかし「心」は「政治の外」に繋がり、「社会の外」に繋がり、「自我の外」に繋がっているのです。
「誰にも依らずに虚無を超える力」「フレームの外に触れていく力」が、心には宿っているです。その本質は「他者」とは一切比較できない唯一性の生(非社会)を生きてもいるのです。
その領域内において「宿命」は、非社会的・非政治的に解釈される別の個的な意味合いを持ってくるのですが、その応答自体は誰かが(専門家を含む)代わりに教える、教えられるようなものではないのです。自らが応答していくものです。
ですが、他者が最初に「私」の「苦」を予測して類型化し、「私」がその平均化された「定義」の範囲内で「観念の型」の中に生きることで逆にその「応答力」が奪われるのですね。
「代用された概念化された応答」を得ることで、「自身で見出す苦悩の過程」がショートカットされたように一見思えても、実際は「全く異なるもの」があてがわれているだけなのです。それは結局、「実存」が前とは別の仕方で政治に絡めとられる、ということなんですね。
苦しみは、あなたに才覚の使い方を教え、才覚を使うことを強いるためのものなのです。 加藤諦三
そして「心」はその時に消える(弱まる)のです。実は多くの場合それが「社会への適応」と呼ばれるもの、自分以外の力による外発的な動機付けの結果です。
その意味で「社会への適応」とは、標準化されることで失われる「心(個別性)」の喪失であり、動物的・生物学的な条件付けによる身心の環境への従属の結果であり、
専門家集団を含むリベラルパターナリズムによって、心の領域(内的領域のアジール・無縁の領域)の隅々までもがアサイラムに囲い込まれた結果でもあるのです。
それがもたらす硬直性や同調圧力は、旧来の保守以上に強く深い力学にもなりえるのです。
まぁ「適応的なもの」はそれだけ(型のみ)の話ではないのですが、外発的なものであり「型」の範囲である以上は未だ硬直的な統合状態であり、「私」が鋳型に嵌ることで存在を忘却させる「心の喪失状態」でもある、ということですね。
しかし「心(個別性)」を未だに強力に核として生きている人々が存在します。その多くは、標準化されずに自身の実存の解釈を大きな物語に同化させずに、ただ個々の生を生きています。「心」は消えてなどいないのです。
そして先に「力(野生)」が奪われるからこそ、「型としての徳性」がないと人は本当に生きていけなくなる。それが近代的社会の失ったあるいは弱められた「存在の徳性」=「心の生命力」なんですね。
「非社会的な領域」にある「徳性」、この領域にスポットを当てているもの、それを言語で概念で理解するのではなくて身体性で理解するものが東洋の思想に見出せます。
「ロゴス的知性」で理解するのではなく「言葉・概念」で理解するのではなく、「存在の徳性」「心の生命力」がないと知ることができない、それが身体性の領域の知です。なのでこの領域はそれを「身体性で知り伝える者」がいなくなると知が途絶えてしまうことがあるのです。その質は言語では伝えられないものだからです。
その結果、その知は「存在しないもの」とされます。そういうことが近代社会の内部では頻繁に生じています。(その外部にはまだ生きていますが)
哲学は健康に良い。ただし、埃をかぶった図書館の書庫ではなく、体育館で哲学をしている限りは。というのが古代哲学の姿勢だったそう。つまり、かつての哲学にはエクセサイズがあって、それを通じて苦しい日々を生きることに役に立つものとしてあったという話。近代には見失われたガチの臨床哲学です。 https://t.co/0MaPkUCEZe
— 東畑 開人 (@ktowhata) August 27, 2021
自己肯定感の多義性
「個人主義化しアトム化し無縁社会化した世界における近代的自我の自己実現」は、それを支えるために自己愛を強化する必要性が生じる場合があり、その場合、他罰性を増大したり、自己中心性を強固にして自己の精神を防衛していくという、「個人のエゴ・意志・主張の強さ」が「適応」として求められるようになる。
それは自己肯定感の土台が弱く、自他境界が弱い時に生じやすいケースですが、この自己肯定感という概念(心理学的な意味での自己肯定感)は社会の中での必要性で語られることの増えた概念でもあるということです。
ただ「自己肯定感」という概念をどういう意味合いで使っているのかは人によって異なります。私の使う場合の自己肯定感は、「存在肯定感」といった方が意味が近いのかもしれませんね。
「自己肯定感」って心理学的な言葉で、それを心理学的介入によって改善しようという意図をもつ言葉と思うが、実は「自己肯定感」の低さを「心のせいではなく、社会のせいだ!」と怒ったり、悲しんだりしたときに初めて、自己肯定の回復が訪れることはままある。これも心理学のパラドックス。
— 東畑 開人 (@ktowhata) August 15, 2020
このブログの意味では、↑上のような「他者」「社会」の文脈での意味合いではなく、「ただ在ることの肯定」で、そしてこの場合の「肯定」では「私には価値がある」という自尊心を含まないんですね。むしろ「無価値であってもただ在ることをそのまま認める」という意味での自己肯定感です。
メンタルに強いも弱いもない。「メンタルが強い」とされている人と「メンタルが弱い」とされている人がいるだけだ。子どもたちには自分のことをカンタンに強い弱いのモノサシで測ろうとする世の中に疑問を持っても良いことを教えてあげたい。#なんか見た
— 井上祐紀@精神科医/祐生カオル@ヴォーカリスト (@yukichildpsy) September 19, 2021
「強さ」を「安定する力」としてとらえるのであれば、「経済的豊かさ」、「健康で丈夫な身体」、「そして環境の良さ」等もそうだし、自尊心・自己肯定感もその要因になるでしょう。
「ただ在ることの肯定」が自然に生じることが「強さ」として感じられるものの土台でしょう。そして「私には自己肯定感がない」という人は、自尊心の意味でそれを使っているのでしょう。何故ならそもそも「私」それ自体には自己肯定感はないからです。
「自尊心を得られることの強さ」の意味ではなく、この実存的な意味における「強さ」の本質は、社会的なものではなく前社会的な次元にウエイトがあるので、社会的なものである心理学の概念の文脈とは異なるもので、「在ることをそのまま認める」は「私」の前にあるものを土台にしているので、「他者」の評価が不要なんですね。
心理学者も臨床心理士も精神医学の専門家も、この「私」の前にあるものの領域においては不要な存在であり、この領域においてはどのような他者、専門であれ立ち入れません。そしてその強さがない、壊れている時には、それらの人達の「支援」「介入」等が必要になってくるのです。
自己肯定感という概念は市場経済とセットになっている。リスクをとることができて、イノベーションをもたらす個人を理想の人間にしたときに、自己肯定感は徳になる。そしてそのとき、共同体の和を大事にするという徳は「自己肯定感が低い」と貶められてしまう。複数の徳を並び立たせるのは難しいな。
— 東畑 開人 (@ktowhata) August 2, 2020
実は「インディアンのことば」の中にも、このブログでいうところの「自己肯定感」を意味する言葉が出てくるんですね。私はその言葉の意味に近い解釈をしています。つまり↑上の解釈でいうところの「市場経済とセットになっている自己肯定感」とは文脈が異なる話をしているのです。
しかし、↑上の文脈で「それがことさら最近重要になった」ことを考えるなら、「和」の社会が「個人のエゴ・意志・主張の強さ」の能動的な表出を押さえることで、全体と調和し、全体を守ることでそこに包摂された個も守られる、という共同体形式だったのに対し、
無縁化し個人主義化した社会では、「和」によって維持されていた共同体が解体・弱体化されているため、アトム化した自我は、安定を自力で維持する必要が出てくるために、より「個の強度」を高めなければならず、
そこで自己肯定感(ただ在ることの肯定)の乏しい個人は、自己愛を強化することでその強度を高める必要に迫られることが生じてくる、ということですね。そして脆弱な個人は自らを防衛するために「似た者たち(アイデンティティ)」と集合し一体化します。
そこで抑圧された無意識を解放する際に思想や宗教などと結びついたとき、それがカルト化する力学になることがある、ということですね。(自己愛を強める方向性は、それが魅力に繋がるケースもありますが、とんでもなく肥大した病的な自我に向かうこともあります。)
最近「○○ガチャ」なる言葉をネットでよく見かけますが、今回は「文化資本」の差という角度ではなく、自己肯定感(ただ在ることの肯定)の差が及ぼすその後の適応状態の違いから「ガチャ」をテーマにしていますが、
自我確率以前の原体験の中で、「理由なくただ愛された経験」がシッカリと根付いている時、自己肯定感(ただ在ることの肯定)は無意識次元から自然に生じてくるものです。(そのような原体験がなくても、成長後に体験を通じて生じることは全然あります。)
しかし原体験に「理由なくただ愛された経験」が貧弱であったり、存在を否定された意識が深く根付きそれが残存していると、「他者評価」での「価値」、「条件を満たしたときに与えらられる承認」を通じて得る自己肯定(自尊心の意味)がより重要になってくるのです。(一般的にはこの意味での自己肯定感の話が多いように思います。)
「理由なくただ在ることを認められること」は安心を生み、「安心すること」が無意識に出来るのですが、状況や比較によって相対的に変化するものは、常にバランスを「外」を伺っていなければならず、「意識的に安定する」ようになるんです。これも一種の「徳性」なのですが、これは努力して身に着ける「型としての徳性」の一種なのです。
「子供の頃に子供らしくあれなかった人」が早く大人びるのは、心の安定を意識で調整する、「他者」を意識した社会性を早期に強制され、技術的に身に着けるからです。しかし、そこには自己肯定感(ただ在ることの肯定)が乏しいために、何かの挫折等が生じるとそこから一気に運命が悪い方に向かう可能性も強まる、自我の危機に陥りやすくなる、ということですね。
自分の愛する場所を滅ぼすおそれがいちばんあるのは、その場所を何かの理由があって理性的に愛している人間である。その場所を立ち直らせる人間は、その場所を何の理由もなく愛する人間である G・K・チェスタトン
チェスタトンのこの言葉は有名ですが、「型としての徳性」を強化している人ほど、何らかの理由で理性的に愛する傾向性が強くなるのです。硬直化した道徳・規範意識の作用であり、ある種の「信仰」の力でもあります。
そして「この場(社会・世界)をもっと良くしよう、啓蒙し運動して変えよう」と正義や善意で積極的に干渉することで、逆に世界を地獄に導くことがある、ということですね。
これは「人」に対しても同様なんですね、「理性的な愛」による「条件付きの承認」ではないもの、「何の理由もなく愛すること」が「在ることの肯定力」になるのです。
「弱者だから、可哀そうで共感できる相手だから、意見や価値観が合うから、政治的に正しいから、同じ属性だからとか、何らかの障害属性が付加されているから、マイノリティだから」とかそういう条件、理由ではなく、「何の理由もなく愛すること」なのです。
そして「期待をせずに見守る」という姿勢ですね。何か少しでも「自分の理想」から見て「失敗や逸脱や気に入らない部分」を他者に発見すると、一気に幻滅して全否定、という白黒思考の人(心の専門家にもたまにいますが)、は最近特にSNS等でも目にしますが、
「期待なく見守る」ことで、「自身の価値基準」からみて正もあれば負もある「矛盾や多元性を内在した全体としての相手(存在)」をそのまま肯定できるんですね。「ほぼ自分の気に入るものだけで構成されている人」しか認めない、という姿勢は、条件付きの承認で相手を評価・ジャッジするだけで、
「部分対象」としてしか存在を受け入れられないのです。そういう圧力を周囲から加えられている時、人は「承認」を得るために行動するようになります。その結果、個の創造性は抑圧化され「期待に応えるように振舞う」のです。
そして先に書いた「疑似イノセンスを纏う大人」も、また別の意味で「部分対象」としてしか存在を受け入れられないのです。なので「世界の複雑性」、「存在の全体性」が許せない、受け止められないままなのです。そしてその一部が「理想で世界を殺す良い子」になっていく、ということです。
しかし創造性は存在(全体性)と共に現れるものであり、被抑圧的な遊び・自由さの中で生じるものなのです。
期待に応えるように振舞う時、「型としての徳性」は得ることができますが、存在としての特性を見失っていくのです。そうして人の心は「他者の政治」に絡めとられて、自身の心が消えていくのですね。
以下↓の芦田愛菜さんの眼差しには、「期待しないで見守る」という徳性が自然と宿っていますね。否定なく期待なくそれでいて人を最も自然と伸ばしていくのは、こういう眼差しの持つ力・徳性でしょう。
「信じる」ことについて 芦田愛菜
『その人のことを信じようと思いますっていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、それがどういう意味なんだろうって考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかなと感じて
だからこそ人は裏切られたとか、期待していたのにとか言うけれど、別にそれは、その人が裏切ったとかいうわけではなくて、その人の見えなかった部分が見えただけであって、その見えなかった部分が見えたときにそれもその人なんだと受け止められる、揺るがない自分がいるというのが信じられることなのかなって思ったんですけど』
バランスの良い人、というのはいろんなタイプがいますが、このブログでいうところのバランスというのは、普遍的なカタチがあるというのではなく、動的なバランスであり、
「個々に調和の型は異なっている、それを個々の無意識が発見する」という意味なので、「こういう型が良いバランスの型」とか、そんな風にひとつだけの良い型があるわけではないんです。
「バランスの良い感じ」というのはいろんなタイプがありますが、たとえば「傍目には癖の強い感じのバランスの良さ」もあるのです。
しかし多くの場合それは元々その社会との相性的なもので「極端なものが少ない人」の話で、そうではなく、たとえば私自身がそうであったように、「生きていくこと自体が困難」なほどのバランスの悪さがあった場合、自身のバランス感覚を発見できなければ間違いなく死か廃人に向かうんですね。
廃人か死か、という絶壁が背後に常にあり、無意識が異常なほどの揺らぎを生じさせ、動的なバランスを発見する以外に道がなかった、ということです。
「バランスなんていらない、そんものない」的なことを言っている人を観ていると、そういう人ってこちらから見ていると全然バランスの良い人が多いんです(笑)。
「元々あるもの」を人は意識しないし、する必要もない。元々根の方にバランスの土台があるから、表面が多少アンバランスなくらいでは人生そのものが壊れたりはしないからです。そういう次元のゆらぎの話ではないのです。
つまりそのバランスの意味は「元々当たり前のことは何とかそれなりに出来ている人」という程度のバランスの意味でしかかなく、「異常なゆらぎ」の致死率の高さを知らない、それは人生の崩壊の危機に常に置かれている危険な状態なのです。
だから、「そうせざるを得なかった、そうするしかなかった」という人の必死のバランスを軽く観るのです。それが「命を繋いでいる」こととも知らずに「バランスなんて気にするな」と余裕のあるゆらぎの中で簡単に言い放ってみせるのです。
しかし、そんなもの気にしなくてもそう出来る人は元々バランス良いのだから、確かに気にしなくていいわけで、本人は悪気はないので責めるつもりは全くないのすが(笑)
そしてこの次元の尋常ではないゆらぎ状態にある人は、多くの場合、この分野の専門の人の力が必要になるでしょう。そうでないと本当に危険です。速やかに専門家へ相談しましょう。
ではラストにもう一曲、「竜とそばかすの姫メインテーマ」です、この映像と歌のリズム好きです♪