身体化された知と無分別知  ロゴスとレンマ

 

前回の記事で、西洋二元論、二項対立的思考では捉えられないものが東洋にはある、ということを少し書きましたが、このテーマは過去にも別の角度から扱っています。今回は禅・瞑想のカテゴリー記事で、「思考の型」の多元性の視点から書いています。

 

ではまず一曲、ダズビー COVERで、安次嶺希和子「忘れじの言の葉です♪

 

 

 

ico05-005 「矛盾はあっていいんだ。自然は多くの恵みを与えるが、時には容赦なく人を殺す。だいたい人間だって自然の一部じゃないか。それに全部を白黒つけようったって、そういう訳にはいかないんだよ。 光と陰、夏と冬、男と女、両方あるから世界が成り立っている。」  インディアンのことば 「自分を信じて生きる」より

 

身体化された知

 

過去にカルトや新興宗教の教義を分析・検証していた時、様々な新興宗教の信者の話しを聴いたのですが、中にはかなりの知識を持っている人もいました。ですが私は知識の豊富な彼等・彼女たちに全く「知」は感じませんでした。

その当時、宗教の知識の全くない生物学専門の友人にも教義への見解を聴いたのですが、彼は一瞬で「これはエゴでしかないね」と即答したのを覚えています。その峻別は「美感」と「身体化された知」によるものだったんですね。

 

 

私は福田恆存氏ほど大和魂の持ち主ではなく、「美感」も結構異なりますが、ただ、「教養とは生き方によってしか培われないもの」私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくる」という福田氏の言葉には共感するところがあります。

 

 

『私の幸福論』(筑摩書房) より引用抜粋

福田恆存はこの『私の幸福論』と同じ時期(一九五五年前後)に、日本人の国民性についてこんなことを書いている、

日本人の道徳感の根底は美感であります。

私は、日本人のさういふ美感が、明治以来、徐々に荒されていくのを残念におもふと同時に、またそれだけが頼るべき唯一のものであり、再出発のための最低の段階であると信じてをります。

 

日本にはキリスト教的な神(超自然的な絶対者としての神)は伝統的に存在しなかった。しかし、その代わりにたくましくデリケートな「美感」があったというのだ。
(中略)
オウム事件といい、「援助交際」といい、例のベストセラーといい、今の日本の不幸は「知識(あるいは情報)はあっても教養がない」――これに尽きるような気がする。

エリオットは「文化とは生きかたである」といっております。一民族、一時代には、それ自身特有の生きかたがあり、その積み重ねの項上に、いわゆる文化史的知識があるのです。私たちが学校や読書によって知りうるのは、その部分だけです。

そして、その知識が私たちに役だつとすれば、それを学ぶ私たちの側に私たち特有の文化があるときだけであります。私たちの文化によって培われた教養を私たちがもっているときにのみ、知識がはじめて生きてくるのです。そのときだけ、知識が教養のうちにとりいれられるのです。教育がはじめて教養とかかわるのです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 『私の幸福論』(筑摩書房)

 

 

一般教養という意味ではなく、「教養の持つ力」というのは単に「何を知っているか」ではないんです。「物事の本質、価値がわかるかどうか」、「理屈よりも配慮ができるかどうか」、そういう人間精神と結びついた「身体化された知」で他者を物事を判断できる力です。

 

「生き方」と「創造性」が人の精神の核の部分を形成します。道徳的に振舞うとか言葉が綺麗とか、単にそういう外面的な形ではなく、その核の部分を感じ取れること、それが身体化された知です。

 

ico05-005 私が人格的となるといふことは、創造的なるものに接するといふことでなければならぬ。人格的となればなる程、創造的なるものに接するといふことができる。逆に創造的なるものに接すれば接するほど、私は人格的となる。出典:西田幾多郎 論文『現実の世界の論理的構造』

 

たとえばよく、「成功するには成功した人と話したり一緒に行動するのがいい」というのは、文化的資本やリソースが少ないと、自分の日常から自分の思考で捉えただけではイメージが湧かないんですね、成功とか何かの豊かさのイメージがそもそも貧弱というか、イメージの壁によって想像ができない。想像してもかなりズレていたりします。

身体が持っている知、本だけ読んでもそういうものはわかりません。創造性の豊かな人もそうですが、実際に話をしたり、行動を共にしたり、その時に相手の存在・身体性から伝わってくる感触というのは、ただの知識とは全く別次元のものです。

そもそもそういう人は知識だけではないんです。行動、振る舞い、その全体に、「生き方そのもの」にその人特有の「非言語的な知」と、「生き方としての教養」が身体化されているため、個々に表現の仕方が異なります。それに直に触れることで、イメージの壁が一瞬で超えられることがあります。

 

私の家族は無宗教ですが、親戚には仏教、キリスト教の数十年以上の信者が複数います。それ以外にも知人には複数の宗教信者がいます。私は数十年に渡って彼等彼女たちの「プライベート」「生き方」を含めて観てきましたが、そこに私は「美」を感じなかった。

 

にも拘わらず私はマサイ族には確かに「美」を感じました(笑)それはニンゲンではなくヒトの美しさ、ですね。

レンズ越しに、人間本来の「美しさ」を見つめてきた/写真家・ヨシダナギさん

 

「美」を全く感じなかった=悪い人、醜い、ということではありません。みなそれなりにいい人達です。そして宗教によって支えられている人を否定はしません。それどころか「自我を支える力」という意味では宗教は最も強力なもののの一つであります。

私が「美」を感じなかったのは、それは自我の虚無を支えてはいても、ニンゲンの自我範囲、概念の範囲でしか「神」を思考できないからです。なのでここでの美は、「実」としての美が宿っていない、という意味ですね。

 

ロゴス的知性のジレンマ

理知に傾くタイプの中で、概念・理屈の次元で物事を捉える観念的な人が「信仰」する時、その多くが西洋的な神の捉え方になります。思考の型でいえばバーティカルシンキング(垂直思考)ロゴス優位な人ですね。

形式論理(同一律・矛盾律・排中律)と二元論での思考法は西洋だけでなく、現代は日本も同様に最も一般的な論理的思考ですが、このロゴス的知性の思考の型では捉えられないものがあるのです。

近代的自我による思考というのは結局、概念が元々有する二元性の両極で「葛藤」に行き着くんですね。たとえば「神という概念」への「信と疑念の二元化」は、西洋的思考で真面目にやれば必然であり、

「真面目で理知的で信仰が強い人」ほど二元分離の両極に揺さぶられて深い葛藤に陥ります。概念と思考の質」+「性格傾向」から観て当然の結果であり、必然的に二句分別によるジレンマに陥るわけです。

そして「それでも信仰が勝つ人」というのは、「認知的不協和をエポケーしちゃう無邪気な妄信状態でいられる人」か、逆に、「整合性が得られない矛盾に対して有耶無耶に出来ない生真面目なタイプ」の場合は、「そういう疑念や絶望を含めて神への信仰である」的な、「よくある結論」に行き着くしかないんです。

「疑念や絶望を含めて神への信仰である」も「認知的不協和」の合理化の一種でしかないんですが、信仰が強い人は現実の方を信仰の方に無理やり合わせるしかないため結局そうします、まぁそれが自我の運動パターンです。

信仰者はよく、「私」を放棄し神に委ねる的な他力を語りますが、実際はその世界観の全てが「私」の強化そのものなんですね。そういう人々はどれだけの苦悩や試練を経ようが、本当は一切「私」を放棄していません、それどころか「神」を「私」に同化させようと人すら現れます。

この状態は、非自我領域から観れば、「神を締め出す(比喩的表現)」ことなんですね。世界に閉じ、最も「私」を強化した状態に自己完結した絶対状態、それを「絶対の神」への「無私」なる信仰だと錯覚している自作自演の自我トリックなんです。

 

しかしその結果、「自我を支える強力な力」にもなっている、というのが「宗教的救済」のひとつの構造です。「私」を放棄できなかった観念的な人々による「私を放棄したつもりの錯覚」と一体化して生きることで、「神と共に在る私」の幻影に力づけられる、という自我の保護作用なのです。

 

「私」を本当に「ただ放棄できる」なら、「絶対的な神」という概念を必要としないんです。「私」の救いのために聖書や経典を読む必要がないんですね。そして「私」を本当にただ放棄できる人には「実としての美」が宿ります。

 

しかしこの美は、とても静かで全く目立たないもので、歴史に残るような感動や崇高さはなく大抵は見過ごされます。そして非宗教的でとても日常的なもの、「何者でもない者」の境界のない行為の内に自然に宿ります。

 

「善を肯定し悪を否定するのが,普通の倫理であるが,今の場合では,善をも否定し悪をも否定して,しかるのち,その善を善とし,その悪を悪とするのである.

しかも絶対愛の立場からは,善も悪もそのままにして,いずれも愛自体の中に摂取して捨てないのである」(『霊性的日本の建設』153 頁).善人を讃え悪人を裁くのが倫理・道徳の世界である.しかし,善人を是とするのでもなく,悪人を非とするのでもなく,ともに否定され,さらにそのままで肯定される.絶対の愛に包まれることですべてが肯定され是とされるのである.

霊性の論理 ─即非と絶対矛盾的自己同一

 

「絶対的な神」を必要とする人は、自我の保護を求める「恐怖と不安」が背景にあり、「わからなさ」への恐れから、世界に開いていくことへの無心さを喪失し、「(根源的な意味で)神を見失った状態」なのです。

 

とはいっても、現実・事実の方へ正直に向かうと「絶対的な神」への信仰が成立しなくなるから、そうするしかない、ということですね。これが西洋的思考のよくある限界です。

 

西洋的な「神」の捉え方(特にキリスト教)は、そもそも「思考、文法、概念の使い方」それ自体に限界があり、自我領域からの神の捉え方の次元では知りえないものを、無理やり「ニンゲンの観念を持ったまま」で捉えようとした結果、「矛盾の辻褄合わせ」になるんですね。

神はこのようであるはずだ」のニンゲンの思い込みは、「ニンゲンの観念、価値基準」がそのまま投影された垂直思考によって「自我が神を型に嵌めているだけ」なんですね。

 

オリエンタリズムを有する西洋は、自らの思考・思想を優位とし、東洋的な思考、思想を「変わったもの、異質なもの」として興味・関心を持ちつつも劣位に扱ってきた、それは芸術においても同様に。ゆえにラテラルシンキング(水平思考)が全然足りないまま世界的に権威化されてきたのです。

 

レンマ的知性

 

知的に霊的世界を把握しようとすると,知は矛盾に直面してしまう.これは知の能力を超絶するものを知が捉えようとする当然の帰結である.そして知がこの矛盾に直面して身動きが取れなくなったとき,知的把握断念の極致において,知的な世界を超えた霊性の姿,その本来のあり方に気づくのである.

霊性の論理 ─即非と絶対矛盾的自己同一

 

 

唯識の概念でいえば、これは西洋的な概念的思考における「分別知」によるパラドックスですね。「分別知」や「垂直思考」は、自然科学とか形式論理で割り切れる領域では非常に強い思考なのですが、概念では捉えられない領域を対象にするときにはそれ自体が障害になります。

 

「神は絶対」を前提にするから、現実の方をそれに合うように合理化して捉えようとし、とにかくその結論に結び付けて完結する、という予定調和。まぁしかし、文化としてこれだけ長い期間人々に信仰され続けただけのことはあり、知恵が随所に込められたとてもよくできた物語とはいえます。

 

しかしそれは「神以前、概念以前の非自我領域」とは全く異なる知の在り方です。西洋的思考(二句分別)では語りえない神以前、概念以前の領域を、何とか言語的に表現しようとした試みが、たとえばナーガールジュナの「中論」でしょう。

 

西洋には二句分別だけでなく、弁証法があります。弁証法は「矛盾」を論理の根本には置きますが、「中間」が存在せず、ロゴス的論理の範囲といえます。そしてレンマ的論理は、『異なるものの「あいだ」』を認める「中の論理」ということですね。参考 ⇒ 無のアナロギア-山内得立における東西の〈総合〉

 

中論」には神話的な物語性がありません。東洋的な知性と感性で「表現しえないもの」を表現しようとした言語的試行が伺えます。その思考の型が四句分別(テトラレンマ)です。

 

ナーガールジュナ『中論』の「相依性」という考え方

あらゆる《a》が《非a》によってあり、《非a》も《a》によってある。それゆえ《みずからの本質》といったものによってあるのではなく、無自性で《空》なるものだ

 

「仏教哲学の真源を再構築する ― ナーガールジュナと道元が観たもの」 より引用抜粋

インドの伝統的な思考には、《a》でも《非a》でも《aかつ非a》でもない第四の「テトラレンマ」というものがあって、それは《aと非aのどちらでもない》というものです。論理的思考というのは《a》か《非a》かを定めるものだというのが西洋の伝統的な考え方で、《a》か《非a》かのどちらかを取ったらもう間は成立しないというのが排中律ですが、それではインド人は納得しないんですね。《a》にも還元されないし《非a》にも還元されないのは何かというのを、彼らは常に考え続けているんです。

ところが現代の哲学もまた、そういうことを考えるようになってきています。グレアム・ハーマンのような哲学者は、対象というものがあると、それは内的構成要素にも還元されないし、それを取り巻く外的文脈にも還元されない、そうした中間的統一体がオブジェクトである、ということを言います。
(中略)
ブッダの思想はその断片しか伝わっていなくて、その一つが「離二辺の中道(不常不断)」で、要するに《ある》ということと《ない》ということのどちらにも世界を還元してはいけないという独特の考え方。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 仏教哲学の真源を再構築する ― ナーガールジュナと道元が観たもの

 

概念的思考における分別知の形式論理では、「AはAであり、かつ非Aである」は成立しない。しかし、鈴木大拙は「即非の論理」において、「AはAだというのは, AはAでない, 故に,AはAである」と語ります。分別知の形式論理からすれば完全なる論理的破綻です。

 

概念を超えた領域の知そのものは、「分別知」では捉えられません。鈴木大拙の語る「無分別知」というのは無意識の領域です。そして、芸術的なもの、霊的なものも無意識領域を含みます。

 

過去に書いた「ハワード・ガードナーの多重知能理論(MI)」での「霊的知能」「実存的知能」、これらの知能と「無分別知」が合わさることで、一般的な概念的思考での「分別知」では捉えられないものが広く観えてきます。そして「変性意識」がこれらの知能と合わさるときは、「捉えられないもの」が深く観えてきます。

 

大拙は人間の意識・心には分別識・分別知と無分別識・無分別知があるという.この無分別知はまた根本知・自然知といわれ,総じて霊性と語る.「霊性はこの知,この働きに与えられた仮名である.名があると,それに相応した体があると思うのは分別知の常であるが,霊性の場合にはこの考えは通用しない.

霊性は全く分別知では掴まれぬものである.それゆえに霊性を知ろうとするには,霊性そのものになる外ない.これが霊性の自覚である」.私たち分別知の主体が,霊性を知るには分別知を離れ,主体自らが霊性とならなければならない.つまり霊性の自覚にいたらねばならない.

⇒ ⇒ 霊性の論理 ─即非と絶対矛盾的自己同一

 

 

西田哲学での「主客未分の純粋経験」と、それ以後の概念化された知は異なります。そして「神」という場合でも、「その神という記号が何を比喩しているか」「どのような領域の知で捉えているか」が異なれば、人が「神」という概念を用いて何かを語っていても、記号が同じというだけで、その内容は人によって全く異質なんですね。

「神性」というものもそうですね。「神以前、概念以前の非自我領域」、その瞑想的状態というのは、自我領域とは全く異質です。自我の思考・概念で捉える仕方は、「神性が個の存在に内在している」的な、まぁ大体そういう観念的な捉え方をします、というかそういう風にしか考えられないようになっているのが自我です。

「全ての人に神が宿り、現象には神性の作用が働いている」とここで書いた場合、自我は大体そういう観念的なイメージで捉えるのです。

無意識の領域、変性意識ついて、広大な領域があることを詳しく書かない理由は、思考の型に多元性がない人や、「概念」の与えるイメージに意味が固定化されてしまっている人にとって、それを書いたところで何も伝えられないというだけでなく、

それだけならまだいいですが、思考の型に囚われて、逆にどんどんズレていき、似ても似つかないものになっていくうえに、「概念では知りえないこと」を「概念で知ったつもりになる」が増えるだけの不毛さ、空虚さ、そして時に危険性、有害性がある、ゆえです。

 

そして「神の意志」という表現も概念的な捉え方のひとつですね、「自我」は人間的な観念の枠内で、「善悪」「意志」や能動性、計画性として神の働きを捉えます。「生命、精神、現象には神性の作用が働いている」と書いた場合、「意志」の概念や「インテリジェント・デザイン」的なイメージでしかそれを捉えられないのと同様に。

しかしそもそも、「個を超えたもの」を「境界がない状態」で捉えたものがどういうものか?を自我は想像することができません。その場合は、「わからない」のままの方がずっとよいでしょう。

無理に思考で知識でそれを捉えようとすれば、「ほんとうは全く違う内容」でも、自分が知っている概念で論理的に推測し結論してしまい、かえって「知ることができなくなる」からです。

 

 

「心理学におけるロゴスとレンマ」 より引用抜粋

これまで整理してきたように,レンマ的な知性を生命の根底に構想して,ロゴスとレンマを対立するものではなく,包摂し合う論理と捉えることができるならば,ギーゲリッヒが行った魂の衝迫を身体の論理で考えることが正当に位置付けられると思われる。

それは,魂の衝迫をレンマという直接の直感体験で捉えることである。というのも,ギーゲリッヒが指摘した語り得ない魂を語るというロゴスにおける二重否定は,レンマからいえば,両否の論理であるからである。

両否の論理が生じる前提に,空に基づいた縁起の論理を構想するレンマ的な知性においては,魂の衝迫という事象は,事法界と理法界の混合した様相であろう。

言葉にし得ない魂の衝迫についての論理学は,魂についての論理学であり,ギーゲリッヒによれば,それが心理学であるが,身体という情動とそれを考えるという思考を必要としたがゆえに,ギーゲリッヒにおいては,ロゴスにおける弁証法という論理が説かれた。

しかし,レンマ的知性から見れば,情動も理法と事法の混交である。そこに思考という理法が加わり,理事の双方において自在に無碍が実現されれば,身体の物語は思考のロゴス論理としての弁証法を語るレンマ的論理を実現できよう。 - 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 心理学におけるロゴスとレンマ

 

 

「過去にカルトや新興宗教にハマった人」や「地に足のついていない人」に対し、「そういうことを考えることに時間を使うよりも、現実を大事にして行動して生きることに時間を使ってくださいね」、を基本的に伝えます。

人の使える時間やエネルギー、資本は限られていますので、自分の仕事に役立つ勉強とか、現実のことを理解するための知を学んだり、周囲の人や大切な人を大事にして、現実をしっかり育てることに時間とエネルギーを使いましょう、ということですね。その日常の取り組みこそが生きた教養になっていきますので。

「神とか霊とかについて書かれた本など読まず、わからないものはわからなまま無心に生きる」ことは既に「神と共にある」。それが無形の信仰者、無形の瞑想そのものの姿です。

 

ico05-005 神は,この世界において,どこにもないとともにどこにもあらざる所なしと言うことができる(鈴木大拙)