昭和と中動態  

 

今回は、「昭和と中動態」がテーマです。7記事まとめてアップ、ここまでで去年の下書き状態の記事がやっと更新完了しました。冬眠期間で多少時間が出来たおかげです。

 

ではまず一曲♪ 前回も紹介したSalomonさん、今回はQueenの曲「Another One Bites the DustYuval」のピアノcoverです。この体に伝わるピアノのリズム感、とても気に入りました♪

 

(Piano cover) – Yuval Salomon

 

 

 

たとえがわかりやすくて思わず笑いましたが、アンガールズ田中じゃダメなんですか?オラつかないし、優しいし、洞穴にも入っていく勇気とワイルドさもあるし、背も高いし、稼ぎだって悪くない、なかなかのいい男じゃないですか彼は。

 

しかしそれでも「顔と見た目」で全ての長所が無に帰す、所詮男女共にルッキズム上等!ってことですよ。田中隊長、「何だコレ」観てますよ~。

 

逃げ恥」を観て思ったのは、森山みくり(新垣結衣)と津崎平匡(星野 源)は様々な意味で「強者」であり、リソースに恵まれている、ということですね。そして「逃げ恥」とかいいながら、今回の逃げ恥は二人とも全然逃げていない(笑)現実と向き合い、なかなかの意志の強さで戦っています、メンタル面も強者です。

 

「逃げ恥」というより「ポリコレが社会常識と葛藤する物語」という感じですね。「政治的に良い子&グローバルなポリコレガールとポリコレボーイ」が、豊かなリソースに支えられた恵まれた環境の中で弱さを表現する、というリベラル万歳の「政治的に正しいドラマ」です。

 

個人的には、もっと逃げる、もっと弱い人間としての逃げ恥が観たい。「政治的に正しくない森山みくりと津崎平匡の生身の人間らしいリアルな逃避」が観たい。「非政治的な逃げ恥」が観たい。

 

まぁしかしそんなことよりも最高に驚くべきは、ガッキーと石田ゆり子がハグしたとき、石田ゆり子の透明感がガッキーに劣らない、という驚異的な「非政治的事実」でした。

 

まさに美の強者、超人的な美のリソース、こんな美の超人の姉妹から応援され支えられている津崎平匡とかいうラッキーボーイ、弱さも恥の要素も見当たらない。私にとって「逃げ恥」は「石田ゆり子とガッキーを観て癒される物語」です(笑)

 

まぁ石田は石田でも、「リアル逃げ恥」は、カイジに出てくる「石田のおっさん」、あれこそ政治性のない人間の弱さと葛藤、そして逃げ恥の自己実現者

 

時代と共に変化する理想の男性

根源的な意味において、アンコンシャス・バイアスは単純にショートカットや効率化のためだけに必要なのではなく、相互依存的に強化されているもので、「思い込みで見られることを求める受動性」と「思い込みに応えようとする能動性」で双方が「思い込み」を必要としているわけですね。

 

求められる性の姿に応じようとする性の姿」、この役割期待は、一方の側だけが決定するのではなく、双方向からの期待として相互依存的に成立し、環境、状況の変化と共にある要素が強化されたり弱められたりしながら変化していきます。

 

そして「何が求められるか」は社会・時代の変化や構造に左右され条件づけられるので「中動態」的なものなんですね。受動と能動、そして中動態、これらの力学が合わさった複雑系としての役割期待なんです。

 

とてもおおまかな流れですが、バブル景気の時期に流行った「3高」、求められる男性の姿は「高学歴」「高収入」「高身長」でしたが、2012年頃から「3平」へと変化しました。「3平男子」というのは「平均的な収入」「平均的な見た目」「平穏な性格」です。随分と変わりました。

 

そして「3平男子」はさらに変化し、「4低男子」へ向かいます。「4低男子」というのは「 低姿勢、低依存、低リスク、低燃費」の男性で、平たく言えば「草食男子」ですね。

 

そして2015年以降は逆に「強い男」へ向かい、それが「3強男子」で、これは「生活力・不景気に強い・身心が強い」、という「男らしさ・マッチョイムズ復活」ですね。

 

つまり、「3平男子」「4低男子」が終わって、再び「男らしさ」への回帰に向かう流れになってきている、ということです。まぁ理想とする役割期待がこれでは、男は男らしさからは降りられませんね。

 

そして現在はさらに「3生男子」という理想が登場し、 これは「生存力 生活力 生産力」の意味で、バイタリティのある男性像です。そしてこれに3温(優しさ・愛情・安心感)を持った男性が理想とのことです(笑)

 

理解ある優しい彼君」のケア力・誠実さだけではもう不十分で、「困難を切り開ける活力の在る男らしさ」も同時に必要!今求められている男性像を平たく言えば、「星野君+丹次郎」という究極のハイブリッド型なのデス。

 

理想のファイナルステージの難易度がsasuke級に高い、超人レベルの「強さ」と「男らしさ」が求められる時代、こんなの無理death! 「昭和のおじさんたち」が今の若者だったなら、セカンドステージにも進めず全員池にドボンdeath! 若者よ、君たちはもはや超人だ、超人の卵だ、ファイナルまで生き残ってがんばれよ~、

 

昭和のおじさんたちは、石田のおっさんに見習ってここで降りる、逃げるは恥だが役に立つのdeath!

「人間には二種類いる……と……土壇場で臆して動けなくなってしまう人間とそこで奮い立つ者と……オレは……そのダメな方……ダメなんだ……」 「オレにかまわず……行ってくれ!決して振り返らず……振り返っちゃいけないっ……!」 「勝てよ……勝てっ……!人は勝たなきゃ嘘だ……!オレは敗れた……敗れて……本当に無意味な……無駄な一生だった……そんな……そんな一生をカイジくんは送っちゃいけない……カイジくんは………勝てる人間なんだから……!勝て……勝つんだ……!カイジくん……」

 

 

 

なかなかの斬り返しですが、「税金です」の部分を、「最近の老人の年金です」にすると、沈黙度がさらにグッと深まるでしょう(笑)

 

 

昭和と中動態

昭和は決して良い時代でも素晴らしいわけでもないが、情報も今より少なく、ネットもなかったアナログ時代、人々は今よりも、個々の身体で感覚で物事を捉えようと、それぞれに感覚を研ぎ澄ますしかなかったあの時代は、大地と空はもっと近かった。

 

私の昭和の記憶、空間性、その肌感覚は様々ですが、五輪真弓さんの身体性から生まれる詩、歌声に共感します。五輪真弓さんは、時代的には私よりもずっと上の世代の人ですが、彼女の声が今でも私の身体を振動させるんです。声の力、コトバの魂というものを深く感じさせる歌手のひとりでしょう。

 

「空」「少女」「Wind and Roses」が特に好きでしたね♪    ⇒  五輪真弓 / 空

 

今は悪くしか言われないような「昭和という時代性」、でもそんな時代の片隅に生きていた人々の姿とその詩は、そんなに酷い悪いものじゃない。そう生きるしかなかった制限の中で、中動態的に、人々は今と同じく日常を生きていた。

 

「不可視化された昭和とおじさん」というのは、カイジに出てくる石田のおっさんのような人のリアルさ。私はそういう人の生身のリアルにも出逢ってきた。「不可視化された透明な存在」として視界から消えていった「昭和のおじさんたち」はみな石田のおっさん。

 

しかし、あの当時、石田のおっさんタイプは見向きもされなかった、昭和にも「優しく穏やかで威張らない大人しいおじさん」は沢山いた、でもそういう特徴のない人は「いない」かのように扱われていた(男からも女からも)。でも私の心にはちゃんと残っている。

 

石田のおっさんの人生はまさに「中動態」、そして最後も中動態的に死を選択、しかし彼は最後の瞬間、能動的な優しさを表現して世を去った。「みんな違ってみんな中動態」と言いたくなる存在、それが石田のおっさん。

 

時代に飲み込まれた「透明な存在」、能動的な活力に欠けていた故に、馬鹿にされ劣位に追い込まれていた膨大な「弱きおじさん」たちも、今の時代だったらそんなことはなかっただろうに。しかし時代は変わり、石田のおっさんもそれを追いやった人々も、ひとつにまとめられて「昭和のおじさん」というカテゴライズに押し込まれた。

 

当時も「いない」かのように扱われ、今も「いなかった」かのように扱われているその透明度は摩周湖を超える。

 

黙って死んでいく人々、器用さがなく、相手にもされず、存在に気づかれることもなく、でも心根が優しいおっさんやおばちゃん、そういう昭和の陰に生き、生きた人々のリアルは無視され、まるで全てが卑しく汚く暴力的で、ただ悪であるかのように全否定された膨大な人々の生、その単純化と全否定はとても残酷な暴力性。

 

属性でひとくくりにする暴力性、というものはそういうもの。でも否定的な対象としての「外集団属性」に対しては、そこに働く「無意識の暴力性」を人は見ない。

 

「昭和の人」というのは中動態的なもの。「○○時代の人」というのは、ほとんど中動態的なものでそうなるのであって、人は、能動的・意識的に「昭和の人」になる・なったのではなく、中動態的に「昭和の人に構築された」、のであり、「ザ・昭和的感覚」は個の意志や責任の概念では問えない社会構築性を多く含んでいる。

 

にも拘わらず、そうであることが個の責任の問題に還元され、個人の罪・悪であるかのように「昭和性」が叩かれる。「昭和性」は平成、令和に対しての前ミームであり、異文化。 仮に、社会的合意・制度に基づいて「悪習を脱構築する」というのであるなら、この場合の対象は文化、あるいは社会の構造であり、個人ではない。

 

「ある人が昭和的で在る」という「属性(昭和的なる言動・振る舞い)」への「不快感・違和感」だけでその人を叩く、というのであれば、異文化への「差別」と構造は変わらない。

 

明治、大正、昭和、平成、令和、全て異文化であり、文化はミームとして動的に相互依存的に存在するが、生物学的な実体ではない。「昭和人」という生物学的実体は存在しない。

 

にも拘わらず、「構築的、中動態的、非個人的なもの」を「本質主義的な実体、個の意志と責任の問題」にして叩く現象は日常茶飯事であり、それは「男性」が本質主義的に叩かれる構造と相似形をなしている。

 

「性差」は脳・身体に基づいた異文化を生み、そして「文化資本の差異」も異文化を形成するので、「同じ世代で同じ性」であっても異文化は存在し、マクロではなくミクロとしての「無意識」を観ていけば、「元々他者は全て異質」でもあるわけです。

 

「弱者属性」の現実が、「構築的、中動態的、非個人的なもの」として「個の意志や責任」から一部免除され、「属性ひとまとまり」で守られつつ、

 

「強者属性」の現実は、属性ひとまとまりで「本質主義的な実体、意志と責任の問題」に扱われ、構築的なものも含めて「個の責任」とされて叩かれる、という方向性は、数多くの透明な存在を生み出す負の力学になっている。

 

そして時代の変化が速い現代は、ミームも変化が速く、同じ時代に同じ国に大きな異文化が複数形成される。

 

より新しい支配的なミームの「異文化に対する不寛容さ」から、排除の力学が強力に働く。この淘汰圧によって、かつての支配的なミームは衰え、徐々に適応的な新しいミームに移行していく。大きな流れではあるとはいっても、多くの人にとって現代は変化・淘汰が早過ぎるのかもしれない。

 

何十年とかけて文化的な集合的な無意識の作用を受け続けて「身体化された心・精神」を、別の新しい価値基準で性急に斬るという暴力性は、異文化間葛藤で生じる否定性と本質的には同様であるが、

 

ミームが身体化された「文化的身体」は第二の身体でもあり、人は「身体化された心」としての「私」を生きている。肉体を斬ることだけが暴力ではない、異文化を斬るいうのは「身体化された心を斬る」ことでもある。

 

「欧米の文化的身体」が「非欧米圏の文化的身体」を斬る、斬る側には心の痛みがない。異文化の「身体化された心」を知らないから簡単に斬れる。

 

しかしこの無意識性を否定するというのであれば、平成、令和の無意識性も同じように受動・能動の態で責任の概念で否定されるループから逃れられない。それらの人々も「基層の時代的ミーム」を「罪」「悪」として斬られるその痛み・疎外を味わうことだろう。