存在の虚無 「存在意識の深淵」と瞑想
「虚無を生むもの」ようやく最終回です。重く暗いテーマで読むのがきついと感じた方もいるかもしれません。
ですがこのようなテーマを全く理解できない場合でも、現代社会は「影・闇」に蓋をしている社会なので、人によっては全く意識することなく生きていけるでしょう。死の直前までは。
虚無はいつも生と共にあるのです。そして「影・闇」も常に「輝き・光」と共にあるのです。目を背けて生きても、いずれ虚無と向き合う日が来るでしょう。
最終回では「存在の虚無」と「存在意識の深淵」「瞑想」をテーマに書きました。
私の虚無そのものとの体験
無意識の深い領域への感応には危険性もあります。
なのでこのブログでは昨年からそこあたりを重点的に書いてきたんですね。ですがこのような領域の理解なしには知りえないリアリティがあることもまた事実なのです。
しかもそれはより本質的・根源的なものなんですね。そして顕在意識での自我・思考的認知は仮象のリアルを捉えたものでしかありません。
なので「ある種の根源的意識」に触れた場合、通常では理解できない意識状態になる人が出てきます。そういう人を西洋的な自我意識内での方法ばかりで解決しようとするとやはり無理があるんですね。
西洋的な自我意識内での方法で済む人はそれで良いでしょう。ですがそれでは済まない人もいるわけです。心・精神というものは多様性の領域です。なので理解・方法も多様性を持つ必要があるんです。
「存在は苦しんでいません。そして存在はただ今この瞬間を生きているのです。」この言葉はシンプルですが、自我との一体化が強過ぎ、その結果「思考の錯覚」が強い状態にある時、それにはなかなか気づけないのです。なので「一切皆苦」になっちゃうわけです。
そして「シンプル=簡単」という意味ではありません。思考的なシンプルさではなく、思考では理解できない「感性的なシンプルさ」だからこそ難しいのです。
ですが存在は苦しまない、というのは、「自我の生み出す苦しみ」とは無関係、という意味であり、「存在には別のリアリティ」が存在するんですね。
精神科医 加藤清 氏の本に「この世とあの世の風通し―精神科医加藤清は語る」という本があります。この方はある種の感性が発達した方にとっては参考になるところも多いでしょう。
◇ 精神科医 加藤清
1921年、神戸生まれ。京都大学医学部卒業。72年、国立京都病院に精神科を設立、医長となる。86年、同病院退官、京都博愛会病院精神科顧問を経て、現在、まるいクリニック顧問医師。精神病理・精神療法学会、芸術療法学会などの設立に貢献し、精神医学界の指導者ならびにセラピストを数多く育てた。⇒ 伝説の精神科医 加藤清医師をご紹介します。
「瞑想」と「瞑想法」の違い
瞑想法なるものにはいくつかの種類があります。客我を強めるもの、主我を強めるもの、客我を弱めるもの、主我を弱めるもの、どちらも強めるもの、どちらも弱めるもの、客我と主我を調和させるもの、客我と主我を対立させるもの、など。
西洋的な瞑想というものは、「客我を強めるもの」「客我と主我を対立させるもの」が多く、東洋的な瞑想を取り入れているものでも「自我を調和しながら強めるもの」が基本的に多いですね。
つまり自己実現・個性化の方向がメインです。東洋的な瞑想というものはいろいろあり、自我を強めるものもありますが、「自我を調和しながら弱めるもの」が「悟り・全体性」の方向です。
「自我を調和しながら弱める東洋的な瞑想法」は、「悟り・全体性」へ向かうための前準備であり、無意識領域に深く入るための訓練と言ってもよいでしょうそして本当の意味での「瞑想」は「方法=形」を持ちません。
形なき生の瞑想
以下は私が二十代の頃に書いた文で【全的な気づきとパラドックスの発生 】という題です。これは私が虚無から抜ける少し前に頃に書いた文ですね。
【全的な気づきとパラドックスの発生 】
「存在真実の全的な気づき」は「私の思考パラドックス」の中では起こらない。それは「時間」の関数ではないからである。
変わらない「ありのまま」は非時間的なものであり、「現在」であるのに対し、「私」は「思考」であり「過去」であり「未来」であり「時間」なので、「私」には「発展、達成、成就」が現れ、同時に「そのための方法、そのためのプロセス、そのための道」が現れる。
「そのための導師、そのための指導者、そのための権威、そのためのカリスマ、そのためのリーダー」は「私が何に自己投影したか」で決まるだけの「自己投影産物」であり、
「私」は「彼」の「ありのまま」を信じているのでも観ているのでもなく、「彼」に投影された「私」を信じ、観ているのである。
「私」は「過去」であり、「記憶」であるため「現実、現在」に触れることが出来ない。このパラドックスは「私」の構成そのものであり、同時発生したものであり、
これがある限り「本質的不完全、不安定」であり続け、そのため「恐怖、不満、葛藤、苦悩、」などが現れ、同時に「快感、一時的満足感、理想、希望」などが現れる。
「気づき」が起こらなければ「私」は「解決」を起こす。それによって「問題」を起こし、さらにそれによって「次の解決」を起こす。
こうやって「私」が連綿と続く。これらすべての過程が、《 「気づき」が起きないことで続いている、〈 「私を追いかける私」という徒労のパラドックス 〉なのである。
「いまここにおいて起こるすべてのことを何の定義づけもなく、感応する感性」を精妙化し、深め、広げることによってしか明かされえないリアルの姿が存在し、その奥行の深さに気づくだろうか。
「集中なき存在の眼差し」が「私・思考の運動の全体性」を直接見る、その過程全体を「瞑想」と呼ぶ。「私・思考」が世界を分析する、それが即「全体の部分」への「集中」となり「分離」を生じさせる。
瞑想法なるものは無意識を見つめるための訓練であり、 瞑想法なるものに囚われるのであれば、それによって「瞑想」が遮られる。
瞑想とは、「あらゆる信念、信条、絶対、集中、分析、概念化がない瞬間」にのみ存在する。瞑想法なるものを修行する時、瞑想は起きない。それは無意識との同化をむしろ強める場合がある。
「自我と同一化することで社会の中で自己実現する」こととは真逆の方向性とはいえ、「人の世」を離れて「自我の在り方」を眺めるという感性を持つ方々が社会に一定数存在します。そのような方々は必要です。
そして悟りの方向性で、伝統的な瞑想修行をきちんと積まれ人格的にも調和した徳のある方々は、感性的に無意識の構造や危険性を理解しているので、良き道案内人ともなれるのです。
どの領域、どの状態にあるかで、必要とされる道案内人は変化します。また形も変化します。そういう意味ではどの伝統宗教・伝統的瞑想法も相対的な存在意義を持っているともいえるんですね。
そしてそれもまた存在の多様性のひとつの表れであるのです。
社会での自己実現や幸福に関心がなく、この世・欲を離れたいと本心から思っているのであれば、禅を初めとする伝統的修行を本格的にやってみるのも良いでしょう。
ただし、宗教には様々な罠や危険性があるので、それに関しては、以下にまとめてあります。⇒ 病的な精神世界・オカルト・カルト系新興宗教 心理学的検証のまとめページ