自立的な自己回復へ 「治療・自己実現・自己超越」と瞑想の原則
「自浄能力・ストレス耐性」を高めて自立的な自己回復へと向かう感性アプローチ「東洋のイメージ療法 part2」です。前回は「初期マインドフルネス」、「フォーカシング」「イメージを使う無意識へのアプローチ」の基本説明をしましたが、
前回の記事の終わりでも書いたように「瞑想」の「落とし穴」「原則」を今回書きますね。 そして先に「治療」と「自己実現」と「自己超越」の意識へのアプローチの違いを書きます。
前回の記事 ⇒ 感性アプローチ 東洋のイメージ療法 part1
現代の社会システムには自浄能力がまだまだ不足しています。つまり「更新」がされない、あるいは非常に遅いまま機能不全状態に置かれている状態がアチコチに偏在しているのです。
その歪みが様々な心・精神の病や社会問題の背景にありますが、それは巨大な利権や権力が複雑に絡んでいるために、個人では太刀打ちできませんし、それらの利権や権力の下部にも相互依存的に存在する組織が存在するため、
それぞれの自己保全での対立や不調和関係が形成されているために「早急には変えられないややこしい性質のもの」です。マクロな単位での「心・精神の病」の問題解決は簡単には進まないでしょう。
ですのでこのブログでは「社会学」的なマクロなアプローチはメインではなく、それは「視野」として意識しつつも、やはりミクロな「個人」の心・精神の病をテーマにし、
今現在、心身のバランスを崩して苦しんでいる人たち、その身近な日常の中で、置かれている現実的な「個人」の人生の時間と空間と体力と能力の制限の中で、どうそれを乗り越えるか?、を中心に扱っています。
「自己回復する」ということは「元の自分」「元気」を回復することであり、それは「失われた自己」「内的調和を取り戻す」ことを意味します。
それはそれぞれの個人が、目の前の現実的な課題を解決するとか、「自浄能力・ストレス耐性」を高め、自立的な自己回復へと向かうことでかなり対処できます。
個人がその能力を養っていけば「先天的な機能不全や、重度の精神障害、ししてあまりにも劣悪な環境下に置かれている人」を除けば、治療や保護、そして逃げ場として「心理カウンセラー・精神科・伝統宗教」などの力を借りる必要は殆どなくなるからです。
「自己実現」と「自己超越」
そして「自己実現」の場合は「元に戻す」だけではなく、「元」の自分を拠り所にして能力を開花していくことです。そのためには「内発的な目標」が必要です。
治療や保護、逃げ場という、マイナス方向ではなく、「自己実現」を目指すプラス方向への場合でも、心理学や精神医学、そして東洋思想・伝統宗教等を参考にしつつ、そのエッセンスをシッカリ理解できれば、大金を払って学ばなくても個人で十分可能なのです。
能力開発やら成功哲学セミナー、あるいは新興宗教や霊能者、、一人教祖やカリスマ的能力者などを盲信して依存者=信者になどならなくても、大金を貢がなくても、個人で十分可能です。
そんなこと一切しなくても成功し自己実現して幸福に生きている人など世の中には幾らでもいるのです。そして何をもって成功とするのか、何をもって幸福と感じるかは人それぞれです。
「自己超越」の場合は二つの方向性があります。それは「自己実現」のために今の自分の能力的限界を乗り越えさらなるプラス方向へと向かわせるのか、
それとも「自己回復」のために今の自分の「マイナスの囚われ」を乗り越えるのか、です。これはどちらも「自己超越」ですが、「自己実現」の場合の方が「超越」する領域が広いのです。
さらに「悟り」という「自己超越」もありますが、この場合は現実で何かを達成するとかそういうことではなく、「存在の全体性への気づき」がさらに深化していくその先にあるもの、といえるでしょう。
東洋の「瞑想」を行っているアメリカ人は既に数百万人を超えているとも言われています。欧米では虐待でのトラウマは深刻であり、都市生活の孤独や、現代社会の機能不全の影響によって自我の崩壊の危機に直面した多くの人々にとって、
この東洋の「瞑想」による心理療法がますます必要とされているのでしょう。
※ 「治療としての瞑想」と「能力開発のための補足のエクササイズとしての瞑想」は異なります。以下の記事も参考にどうぞ。⇒ 無意識と顕在意識と能力の関係 意識の状態で異なる効果
瞑想によって内面=意識⇒無意識へと注意が深く向けられていくると、今までは気づかなかった思考や感情に圧倒され、また他者の無意識に対しても敏感になりすぎて、振り回されたり、
現実面での知覚・感性が研ぎ澄まされることで逆に過敏な反応や、強い好悪の感情などの不安定さが現れてくることがあります。
これは気功などをやり過ぎた場合も、他者の気や外気に敏感になり過ぎておかしくなる人がいます。「偏差」や「クンダリニー症候群」「魔境」などもその一例ですね。
瞑想での有害な方向性とは、内面の世界に入り込み過ぎて、外側の秩序を軽視・無視した反応や、霊的な自我肥大者の思想などにかぶれて、現実の軽視、社会への過剰な攻撃・排斥の念を高める方向性であり、
内外の世界の観念的な二元的区分けが強化され、例えば「霊と物質、光と闇」などという「意識の全体性からの分裂作用」で生じる対立構造を内的に形成していく方向性です。
① 東洋の瞑想技術による変性意識体験と、② 霊的指導者への盲信(歪んだグルイズム)、これに ③心身二元論の上に発展してきた西洋的観念思想が交じると、いわゆるニューエイジ思想の大本である神智学的な霊的価値への病的な囚われという、オカルトの有害性・危険性が拡大していくのです。
ですが、これは単独でそれぞれを見ていくならば、有害ではないんですね。
①東洋の瞑想技術による変性意識体験、これ自体は禅でもヨガでも極々ありふれた伝統的プロセスでも生じるものに過ぎませんし、
② 霊的指導者への盲信(歪んだグルイズム)、これ自体も、禅・ヨガの全ての指導者が歪んだグルイズムを持っているわけではなく、そして禅を深く学ぶのなら禅の指導はやはり必要なのです。
また、「盲信的姿勢」を否定する指導者も沢山いるのです。そして「指導者」というものは何も宗教や思想だけではありません。権威・権力的な立ち位置における「不正・暴力・搾取」というものは、現実の社会の中でも多々あるのです。
要は「宗教性」に限定する問題ではなく、その個人の「人格」パーソナリティーの問題を含んだものなんですね。
③心身二元論の上に発展してきた西洋的観念思想がオカルト情報と合わさり、そして病的な霊的指導者への盲信的な依存状態で変性意識に投影されると、「排他的で分裂的な二元的世界観」が意識内に強力に形成されます。
ですが心身二元論の上に発展してきた西洋的観念思想だからといって、何もそれ自体が有害で危険というわけではないのです。これもバランスの問題であり、通常であれば、そんなに排他的で分裂的な二元的世界観にはならないはずなのです。
これがカルトや過激な新興宗教であれば、排他的で分裂的な二元的世界観を形成し、それが外側に投影されるため、有害で危険なものともなり得るわけですね。
「心身二元論」で肉体と精神を過剰に区分けせず、「霊対物質」という分離的思考を強化するのではなく、古来の東洋的な調和の考え方の一つである「心身一如」これが大切です。
先に書いたように、盲信的な信念をもつ集団の中で瞑想が行われ、そして変性意識体験が起き、内的世界と同一化すると、「不調和な境界設定」が強化され、自分たち以外の他を排斥し、「自分は特別な人間である」という思い込みが生まれたり、
「自分たちは優れた目的を持って生まれた選ばれた存在であり、すぐれたことをしている特殊な能力の持ち主である」という、霊的な自我肥大による錯覚が起きてしまう傾向があります。
そして、アイデンティティや自己評価の面で「弱さや劣等感」などの「プライド的な問題」を解決出来ない時の「空虚さ」を、「霊的な価値」にすり替えて自己満足することで解決しようとする「逃避目的」として利用される傾向もあります。
「治療」・「自己実現」・「悟り」、いずれの目的にせよ、存在はもともと相反する両面をもっています。なので古来の東洋的な眼差しである、「心身一如」をベースに、「存在の全体性」として「相互に依存した内的・外的な相対的運動」を見つめることを意識することが大事なのですね。
「霊と物質」の比較・優劣をつけない。内面と外面の調和はどちらも大事です。そして「光と闇」とか「悪魔と神」などという闘争的・敵対的な区分けを意識強化する先には「治療」「自己実現」・「悟り」のいずれもないのです。(※分離的で自己中心的な「自己実現」ならあるでしょうけど。)
この原則を意識しておいてくださいね。
「病的な退行」と「創造的退行」
このブログでは、主に自我の「病的な退行」のメカニズムを扱ってきましたが、それは先にそこを強調しておかないと、病的な自我肥大に陥っておかしくなる人がまだまだ多いからなのです。
精神分析においては全てが否定的な面しかないように言われがちな「退行」ですが、これはユングにおいても、そしてその他の東洋的な感性による心・精神の調和的な統合においても、その中に実は「治癒へとつながる肯定的要素、未来への創造的な可能性」という側面があるのです。
ユングが治療回復で用いる場合の「退行」が「創造的退行」と呼ばれるのは、「病的な退行」と一時的には似てはいるのですが、そこを通り過ぎたその先の結果が全く異なるんですね。
瞑想の基本ポイント
知識や技術よりも「ありのままに観る・聞く」ことが大事です。力まずに深く規則的な呼吸をしながら常に「今ここ」を意識しつつ、自分の注意がどこに向いているかを「観る」、その訓練を焦らずに日々繰り返し行いながら、内外のありのままの気づきを徐々に深めていくのですね。
例えば、ストレスによって人に引き起こされるストレス反応は殆ど場合、自動的に無自覚に起こり、その反応に同化している状態です。
ですがその人がもし「それが起きている時」に、そこに何が起こっているのかを同化せずに「ありのままに観る」という観察視野を持つのであれば、自動反応の時とは全く異なる「リアルな何か」を見出すでしょう。
このようなストレスへの「自覚的な観察」は、レジリエンス(精神的回復力)を高め、ストレス・リダクション(低減)が可能であるだけでなく、ストレス以外の他の様々な感情に関しても、それが生起した時に「その様」を見つめることで、様々な気づきがあるのです。
大事なことは、人それぞれが「今そこ・ここ」からそれを行うことであって、誰かと比べたり競争するような姿勢は必要ありませんし、方法やペースに均一な型や量を固定化する必要はありません。
原則・基本・ポイントさえ押さえたら、後は人それぞれの現実と状況の中でその人に今出来る段階を無理なく一歩一歩進めば良いのです。