弱い心と強い心の心理 「乗り越える」ことと「抑圧」の違い
「本当に強い心」というのは「非情で恐怖も痛みも感じないような鈍感麻痺した心」ではなく、しなやかで心身の調和のとれた心です。
「本当に強い心」を持つ人であれば、弱者を傷めつけたりしません。ですがネットでもリアルでも「弱者が弱者を批判してプライドを満たす」、という卑屈の裏返し心理が溢れています。
※ ここでいう弱者や強者という意味は、社会的なラベリングとは関係ありません。「心が弱いもの、心が強いもの、という状態」のことです。心の強さ・弱さに地位も肩書きも勝ち組・負け組も何の関係もありません。
本当に大きな害毒を持つ強い者には下手に出て向かっていかず、自分より弱く、ほっといてもそんなに大したことは出来ないような小悪に対しては執拗に叩きのめし優越感に浸る、大義名分を盾にしたイジメの心理があります。
『自分は「相手より上」と思いたいが、実際は無自覚なコンプレックスをもつ者』が、「コンプレックスを素直に正直に表現している相手」を見た時に、それを叩くことで「自分自身の無自覚なコンプレックス」を解消しようとする心理ですね。
ですがこれは単なる他者への投影なので、解消できません。むしろどんどん「無自覚なコンプレックス」は強化されます。この無意識の反動力で、その人はさらに敵意を持った状態に向かい、そしてその「闘争的な力の感覚」を「強さ」だと勘違いするわけです。
何故そうなるかと言うと「怒り・嫌悪」は生物学的にも強い排斥・攻撃の感情であり、他の感情を麻痺させる力があり、「怒り・嫌悪」によって「自身の無意識から生じる他の負の感情」を排除しようするのです。
それが一見「強さ」のパワーとして主観的に感じられるから、そう錯覚するわけですね。そしてこれが、心の中の「嫌なもの」を抑圧して鈍感化させ、そして無自覚化する心理過程なのです。
そしていつか、自身が心身の状態を崩した時、そして自身が誰にも優越出来ないほど追いつめられた時、他者に投影が出来なくなり、今まで人に向けていた「闘争的な眼差し」が今度は自分自身に向かいます。
そして自分自身がそれによって追い詰められてしまう。何故追い詰められるのか?それは「見たくない」から今まで無自覚化し、他者に投影していたわけで、
こういう場合、孤立無援で一人になっても自分の無意識を静観することは出来ないのです。だから意識は調和されることなく分裂化していくのです。だからどんどん状態が壊れていくわけですね。
そして一部の人はその不安的状態から抜け出そうとして、妙な観念(例:カルト系新興宗教・排他的な過激な思想)などを盲信した場合は、
「今ある空虚さ」をその狂信によって排斥して「強さ」の実感=「自信・安定」に置き換えて自我を肥大化させてしまうことが起きますが、
これはコンプレックスをさらに無自覚化しながら強力にするため、さらなる認知的不協和を生み出し、退行へと向かうわけです。つまりこれは、「自身の等身大の無意識」とそのまま向き合うことからの逃避なんですね。
そしてこういう姿が、アダルトチルドレンやメンタルヘルスでのやり取りの中にもよく見られます。しかも、そういう人は「自分は乗り越えた」と、そういう言い方をすることがありますが、
本当に「乗り越えた人」であるのなら「他者の弱さ」に「自己の弱さ」を投影し、それに感応して嫌悪したりしません。
乗り越えていないのに「自分は乗り越えた」、と思っている人 ほど、その人は「目の前で弱音を吐いて悩んでいる人」に敏感に反応し、やたら強い批判的なコトバを投げかけるのですね。
これがイジメの心理の原因になっていることも実際よくあるんです。自分の嫌な要素を乗り越えたのではなく「抑圧しているだけの人」の場合、同じ要素を持つ人に刺激され、嫌悪や怒りが湧くのです。
そして「自身が抑圧しているもの」を「目の前で相手に表現される」と、「自分自身に対してやっているように、相手にもそれを抑圧させようとする」わけですね。
それが相手の人格への嫌悪・否定・拒絶の言動となって現れるのです。こういう人をリアルでも掲示板とかでもよく見かけますが、実際には全然「乗り越えてはいない人」です。
毒親から子へ引き継がれる「無自覚な心」
そして「私は弱さを乗り越えた」と思って「実際は抑圧して無自覚化しているだけの人」が親になると、子どもに「自身が抑圧した否定的な要素」を無自覚に転写していきます。
そして自己正当化だけが強化され、他者のことは四六時中細かく批判していても、「自身の無意識」には一秒たりとも気づこうとさえしません。
こういうタイプの人はまず簡単には変わりません。ですが、それでも「周りが従順」であれば、こういう人は「楽」なわけです。
自身の嫌な部分を周囲に投影し、本人が無意識でいられるうちは。そしてその関係性が反転した場合、今度は一気に「自己嫌悪」や過剰な「自己批判」に向かいますが、少し極端に言えば、「人を責めるか」「自分を責めるか」の二者択一しかないんです。
なのでパワーダウンして能動 ⇒ 受動へ向かっても、「対象が変わっただけでやっていることは同じ」なわけです。「気づき」というのは「自己嫌悪」「自己批判」することではありません。心理的攻撃性を外や内に向けることではないんですね。
まぁ心理的な自己防衛と攻撃は表裏の反応ということです。そして、本当に「乗り越えた人」でない場合は、「自分自身の弱さや負の意識を絶対に認めたくないもの」として抑圧しているわけですね。だから他者に投影し、他者を責め続けるわけです。
「常に相手に自分の否定要素を投影して相手を叩く」ことで、自身を「超えた側・正しい側」にしてしまっているので、相手は「負の身代わり」にされるわけですね。だから毒親であり続けられる、というわけです。
「私は弱さを乗り越えた」と思って「実際は抑圧しているだけの人」が親になり、そしてその子どもが自己表現する年頃になって、その言動の中に「親に似た要素」が見つかると過敏に反応して嫌悪が生じて徹底的に叩くのですね。
そうやって強く嫌悪否定されることで、その子どもも、またそれを抑圧化し無自覚になるのです。そして無自覚化された負の要素が自他に投影されて心身の不調和を生み出す時、それは「有害」な作用として出現するわけです。
健全な親の場合
これが健全な親の場合は、「それが自身の負の要素であることが意識されている」のと同時に「それを調和的に共存させている」ため、そこまで気にはならないのです。
いえそれどころか、それを調和的に優しく受け入れているならば、似ている負の要素の発見は、逆に可愛くさえ思えることなんですね。弱さや欠点など誰でも持っているのです。だからそれを相手に見つけても、それほど気にはならないのです。
なので子どもは、親の転写した負の意識を無意識化せずに受け入れる事が出来、全体性と自然に調和させて無害化=健全化していくんですね。