「性格・人格」の形成   心理学・社会学でみる社会と人格    

 

心理学的に見ると、その人の「人格」「性格」の全体性というのは、「先天的な気質」+キャラクター(基本の性格特徴)社会的性格+役割性格です。

 

乳幼児期に見られる個人差を発達心理学では「気質」と表現しますが、「気質」は先天的なものであり、生物学的・遺伝的なものです。キャラクター(基本性格)は、「気質」をベースに、もう少し発達したその人の基本特性ですね。

 

これは生物学的・遺伝的な先天的要素に加えて、後天的に両親の無意識の一部が子どもに転写され、さらに子ども期の家庭・生活環境での経験・刺激などが複合的に組み合わさって形成される「初期性格」です。

 

ウソかホントかわからない「三歳児神話」というものがありますね、そして「三つ子の魂百まで」、ということわざもありますが、これは「その時期が重要である」ということには変わりはないのですが、過剰な盲信や決定論的な見方はしない方が良いでしょう。

 

要は0~3歳までに天才教育しないと絶対駄目とか、その三年間はずっと側に母がいなければ絶対駄目とか、そういうものは事実ではありません。そういうことよりも、「親や養育者の意識の状態や関わり方、生活環境がどうであるか?の方が重要です。

 

親の意識が健全で調和的であることと、生活環境の設定、この二つの土台があれば、先天的な機能疾患がない限り、子どもはそれぞれに特性を発現させ伸ばしていくように出来ているのです。

 

親の満足や希望だけを優先して「無理やり何かにさせる」ような能力教育ではなく、子どもの特性に見合ったものを伸ばしていく方が良いでしょう。

 

3歳までにシナプスネットワークは物凄い勢いで形成されることは確かに事実であっても、「成人後は形成されない」というのは事実ではありません。努力次第で挽回は可能です。

 

「社会的性格」というものは、集団社会において類型化されている性格特性のことで、深層心理学的には、集合的無意識ミームと呼ばれる無意識の作用の結果生まれるものですね。

 

例えば「日本人らしさ、男らしさ,母親らしさ」などのように、特定の観念・文化・イデオロギーを元に共通の行動様式をとる働きをなすものですが、これをベースにさらに、立場や状況に応じて使い分ける性格「役割性格」といいます。

 

 

「社会学」でみる社会と人格

 

そして「社会学」では「人格」や「社会」をどういう風に捉えているのか?というと、心理学と同じではないのです。「社会学」と言えば、以前にブログでデュルケム、マートンの「アノミー」の理論で犯罪心理や自殺問題を考察する記事を書きましたが、

 

「犯罪心理学」は他の心理学とは少し異なって、心理学だけでなく、犯罪社会学がセットになっていますね。社会との関連が非常に強いので、社会学の要素が結構含まれています。

 

私はデュルケム、マートンなどは理論的にだけでなく感覚的にもよくわかるんですが、パーソンズルーマンは、どんどん抽象的で掴みどころのない観念的な論理世界へと突っ込んでいっているようにも感じます。ですがルーマンの「社会システム理論」は個人的にはとても興味深くユニークだと思います。

 

「社会学理論・研究ノート-大昔の偉い人は何を考えたのかー」 より引用抜粋

「ルーマン(自己準拠的社会システム理論)」

彼は、我々のおかれている場の総体を<世界>と呼び、この世界は<可能性の過多>にあると指摘する。彼はこの可能性の過多にある事態の総体を複雑性と呼ぶ。この複雑性は、可能性という事態を前提とした社会の<不確定>な事態を表している。

彼は、この不確定な中に社会システムが創り出され、秩序をもたらすものと考える。社会システム創出の単純な形は、個人と個人の相互作用に始まる。この時も、不確定な事態は堅持される。

それはすなわち、お互いが不確定な存在としてそこにあることを意味する。この事態を彼は二重の不確定性と呼ぶ。このような事態のもと、社会システムが創られ、多様な可能性は制限され、秩序がもたらされるという。

そして、この様々な可能性を社会システムによって制限すること、すなわち、秩序付けることを彼は複雑性の縮減と呼ぶのである。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ルーマン(自己準拠的社会システム理論)

 

 

次は「社会システム論」の参考として、以下のページを紹介しておきますね。 社会システム論

 

社会学の文章は難解なので、学者やその道の勉強をしている人以外は、あまり読む気がしませんよね(笑)私は難解な文章も特に嫌いではありませんが、耳慣れない専門用語があまりに多過ぎると、もっと平たい言葉、わかりやすい文章にした方が良いんじゃないか?と思います。

 

学者だけに通じる言葉だけではなく、物理学のリサ・ランドーのような人がもっと現れることを期待します。科学や社会学を一般の方が「楽しい」と思わせることが関心を高める最初のキッカケになるからです。

 

その分野が自然に好きになり、どんどん参加したくなるような「親しみやすい学者」がもっと出てきてくれたら、と私は思うのです。

 

個人的には、科学にしても心理学にしても社会学にしても、西洋的思考だけでなく東洋的な調和の感性がもっと必要だと考えているので、思考分析的に偏ったものより、感覚的に本質のリアリティが感じられる思想の方が好きですね。

 

例えばハイデガーの難解な時間論よりも、道元の時間論の方が本質のリアリティが深く感じられるのです。

 

 

 

「社会システム論」では、社会システム・人格システム・システムというような概念で社会・人格・心理を考えます。

 

そして「人格が異常とか正常」という精神医学や心理学的な定義の必要性というものは、社会の要請に過ぎない場合も多く、マクロな視点から見ればまた違うものが見えてきます。

 

自殺・犯罪・カルト・うつ・心・精神の病などを考察していくと、そこには個人のみに帰結出来ない要素が含まれていて、その大元は、社会システムの機能不全に行きつくのです。

 

社会を絶対正常の基準として、そこで心身の調子が病んだ、あるいは何かおかしくなった人を絶対の異常と一方的に定義することは、過剰な自己責任論なわけですね。

 

そしてそこにのみ注意を向けさせて、「絶対正常の社会に個人を合わせる」ことだけが「健全・正常な状態への回復と調和」とするのであれば、それは自殺・犯罪・カルト・うつ・心・精神の病の社会的要因に目をつぶらせ、連綿と心身の不調者を生産していくだけなのです。

 

とはいっても、日々の生活や仕事の営みを安定的に維持することは生きるためには必要なことであり、そしてそれはどんなに機能不全な家族・社会であれ、心身の不調者のために立ち止まって考えてはくれません。

 

だから心身を機能不全な環境に合わせながら、自らをイビツ化しながらでも「そこでの適応」を迫られるわけです。見方を変えれば、それは機能不全社会に対する「合理的な適応」で、機能不全な環境で生き抜くための正常な自然反応とも言えます。

 

ですが、それがたとえ機能不全社会への合理的な適応、あるいは正常な自然反応であっても、そこでのネガティブな影響力は、心身へのネガティブな影響として自他に対して現象化してくるので、

 

そうなると結局、社会の機能不全のシステムの修正をしない限り、根本的な対策にはならないという必然的な結論に至るわけですね。

 

そして社会を変えるにしても、新しい価値やシステムを創造するのは結局人間が行うわけで、だからこそ社会という大きな単位だけでなく個の人間それ自体への洞察も必要なのです。

 

理論・システムがいくら良くてもそれを運営するのは人間だから、例えば共産主義というシステムが現実には理論通りにはいかなかったように、人間という生き物それ自体への考察を深める必要も同時に含んでいるのです。

 

と同時に、以前に書いたことなのですが、人には「変えやすもの」「変わりにくいもの」「変えられないもの」という状況があります。

 

「社会」という巨大な単位は、そう簡単には変わらないもので、「変わりにくいもの」です。だからこれを放置するという意味ではなく、理解しつつ訴えつつも、

 

まずは自分自身の現実を見つめる自分に無理なく出きることからめることが先ですね。必要であれば周囲に助けを求める、ということもそのひとつです。心・精神の病の回復や自己実現を目指す時は「変えやすいもの」から取り組むことが現実的に必要なんですね。

 

社会全体が変わるのを待っていては一生が終わってしまう可能性だって十分あるでしょう。例えば自分自身の行動パターンや生活パターン、自分の心と体、これが一番変えやすいわけです。 その次に家族や家庭環境などですね。

 

 

「人格」それ自体は、物理的存在のような静的・固定的な実体ではなく、社会・集団によって「規定」されることでラベリングされる相対的な認識・定義です。

 

「国・社会」という認識もそうです。社会・集団の「内外の差異」によって意識化される境界設定が「国や社会」という認識の区分けをしているのです。

 

地球の自然界のシステムは、人間という生命システムを生み出しました。そして人間は地上の動物ですが、言葉・言語によって高度な情報伝達を行い文明を発達させ、

 

そして精神が形而上の概念を生み出すことで「動物的な本能的な充足」だけではない「新たな生の意味・目的・価値」を意識に追加していきました。この部分は東洋と西洋の違い、それぞれの国・民族の気質の差、歴史の違いなどによっても異なります。

 

ですが「形而上」の概念が精神に設定される時期を経なければ、人間は「動物的な生」から抜け出すことは出来なかったでしょう。そして「形而上」の概念、これは何も宗教だけを意味しません。

 

「人間」という社会的な生き物には、単に動物的な欲求原理だけではなく、動物的な欲求原理とは異なる内発的な向上心」が必要なんですね。そうでなければ生は混沌としたものになり、腐敗してくるからです。

 

そのために、生を創造的に活性化させる「新しい価値」を必要とするわけですね。

 

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