機能不全社会と機能不全家族 

 

機能不全社会と機能不全家族、今日は今までこのブログでよく取り上げてきたこのテーマのまとめをしたいと思います。そして健全な家族や健全な社会、調和した家族や調和した社会というものがどういうものなのか?そのシンプルな姿も書いています。

 

最初に「yuhka-unoの日記」というサイトを紹介します。このブログはつい最近見つけたのですが、鋭い記事を書く人がいるなぁと感じたのでブログを最初から最後まで読破してみたのです。

 

読んでみて、ヘタな専門家や有識者などよりもずっとシンプルに鋭い意見・分析だなぁと私は感じました。

 

yuhka-unoさんのブログからの引用記事を以下に二つ紹介します。

 

yuhka-unoさんのブログより

なぜ若者が何も言わないのか? 答えは単純。「言っても無駄だ 思っているから」。

過去にブログで何度か書いたけれども、私の育った家庭は機能不全家庭で、家庭の抱える問題のしわ寄せが私に来る構造になっていた。

そういう環境で育った私から見ると、今の日本社会の構造は機能家庭そっくりだ。そういう家庭に育った子供は親に主張しない。

言っても無駄だと思っているから。この国はいわば機能不全社会のだ。

引用⇒ いち若者の立場から、若者が何も主張しない理由を主張してみる

 

精神科医やカウンセラーの元に、親が子供を「この子おかしいんです」と言って連れて来る。なるほど確かにその子は、引きこもりだったり自傷行為があったり摂食障害だったり深夜徘徊をしたり、何かしらおかしい。

しかし、その子がおかしくなった原因をよくよく掘り下げてみると、実はその子よりも、その子を「おかしいんです」と言って連れて来た親のほうがよっぽどおかしかった。むしろその子は家族メンバー
の中では一番まともだった。こういうことは、臨床心理の現場ではよくあることらしい。

引用⇒  http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110220/1298208187

 

 

 

人格形成の起源

 

人格形成の起源はどこにあるのでしょうか? そもそも人格ってなんでしょうか? それは先天的なものでしょうか?後天的なものでしょうか?

 

もちろん人格は後天的なものです。生理的欲求や気質などは先天的なものですが、人格はハード(先天的な機能)に、教育・経験・情報などのソフト(後天的な意識の内容)が加わって形成されるものです。

 

ハード(肉体・脳)だけが健全でも駄目ですし、逆にソフト(後天的な教育・経験・情報など)は健全でもハード(肉体・脳)が機能不全であればこれもまた駄目なのです。

 

ハード(肉体・脳)は遺伝子によるものであり、「基本的な気質や、性格(パーソナリティー)も遺伝が50パーセントくらい影響していることが研究でわかってきています。ということは、残り50パーセントはその人自身の固有の要素であるとも言えます。

 

そして遺伝には「非相加的遺伝」と「相加的遺伝」というものがあり、これをわかりやすく説明している行動遺伝学者・ 安藤寿康教授の記事を以下に紹介しますね。(2017/2  追加更新)

 

「子どもは、どの程度親に似るのか? 」より引用抜粋
(前略)
遺伝は大まかに、相加的遺伝と非相加的遺伝に分けられます。相加的遺伝というのは、1つ1つの遺伝子の影響は小さいけれど、それらが累積すると効果が大きくなる、そういう遺伝パターンのことです。

一方の非相加的遺伝は、相加的遺伝では説明のできない遺伝パターンを指します。

どんな形質にも相加的遺伝と非相加的遺伝両方の影響がありうるのですが、僕は特に「量」で測られる形質は相加的遺伝の影響を受けていると考えています。身長や体重もそうですし、知識量や体力などの能力も「量」として存在します。
(中略)
これに対して、非相加的遺伝の影響が強い形質は、「質」的な違いとして現れるものだと思うんですね。「AさんはBさんに比べて語彙が2倍」ということなら量的に測定できるでしょうが、

「Aさんの明るさはBさんの2倍」とは、まあ言えないことはないけど、ちょっと違和感を感じますよね。
(中略)
人間の性格なんかはそっちの方に入る形質だと思います。そういう形質には、相加的遺伝だけじゃなく非相加的遺伝の影響も表れやすいんです。
(中略)
行動遺伝学では、一卵性双生児と二卵性双生児を比較して遺伝率を調べます。相加的遺伝に関していえば、おおむね二卵性双生児は一卵性双生児の「半分程度似る」わけですが、非相加的遺伝が強い形質ならば「半分ほども似ない」ことになります。

親から子への伝達に関しても、相加的遺伝の強い形質であれば「子どもの形質は、両親の中間値からさらに平均の方向に寄る」可能性が高いわけですが、

非相加的な要素が強いほどパターンはもっと複雑になり、子どもの形質が両親とはほとんど無関係になる可能性が高くなります。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 子どもは、どの程度親に似るのか?

 

 

そして、ソフト(後天的な教育・経験・情報など)の部分は、変えられるものと変えられないものはあります。(例えば親や教育者、周囲の大人の在り方・考え方など)

 

ではハードは殆どが健康で元気な赤ちゃん状態で生まれてくる人間を、破壊もすれば成長もさせる「ソフト」は一体誰が、そしてどのようにしてそれは作られたのでしょうか?

 

子供が一番最初に出逢い、そして深く長い宿命的な関係性を持つ親がまずそのソフトの形成者です。

 

では初期設定状態の子供の無邪気な意識に対して追加機能としてのソフトを入れる親はどのようにしてそのソフトを作ってきたのでしょうか?

 

それは「親の親」からの影響と、親が子供を生むまでに生きてきた人生の経験・社会の観念や情報で形成された親自身の人格が、そのソフトの内容です。

 

つまりここには、親の人間性・価値観だけでなく、社会やコミュニティーの価値観・精神性も含まれた総合的内容なんですね。

 

なので親自身がどういう状態であるか、社会がどういう状態であるか、これはどちらもが起源なのです。

 

「いや社会が絶対の根源であり、家族も個人もその悪影響を受けた過ぎない!」というのならば、その社会を作ってきたのは一体誰なんですか?と問わなければいけません。

 

原始的な野生の生存状態には安住できず、ヒトは社会を作り、そしてそれに依存するしかなかったのが他ならぬヒトという生き物なわけですから、この問題も全ての起源は「人間それ自体の無意識の働き」にあるのです。

 

ですが機能不全家族に見られる親の特徴は、機能不全社会をそのま子供に転写している姿でもあるのです。健全な親というのは、社会・大人の世界というものをダイレクトに子供に見せないでガードしているんですね。

 

ところが機能不全家族の場合は、大人の世界、社会の姿がダイレクトに子供に投影されます。 いやダイレクトというよりも、場合によってはもっと凝縮したものともいえるでしょう。

 

大人の世界の攻撃性・嘘・同調圧力・損得勘定・搾取・支配・抑圧・嫉妬・嫌悪・排斥・人心操作などの「社会で行われていること、会的関係性から生まれる否定的な心の働きやストレス」が、子供にノーガードで投影されるわけです。

 

こんな否定的な内容物が「ソフト」として子供にインストールされたらどうなるでしょうか? 子供はせっかく健全だったハード機能を不健全にしか生かせなくなり、その結果ハードまで壊れてしまうんですね。

 

そして脳や体というハードが限界値を超えると徐々に壊れ始め、うつ重度の精神疾患などになっていくわけです。

 

しかもこの「親」の否定的なソフトが影響を与える子供のハードの部分は「無意識」を含んだ深い領域に及ぶので、壊れると根本から自力で治すのが難しいんですね。

 

自我や人格は構築されるものであり、それ自体で存在するものではないとはいえ、本人にはどうしようもないような無意識に根付いたもの、愛情の歪みから負のループが起きてくるようになるのです。

 

ですが、そもそもこの否定的な親のソフトの内容というのは、社会・大人の世界の本質にある負の心の働きと一致しているわけです。

 

 

では社会を変えるのはどうすればいいのでしょうか?それはシンプルに、人格が統合(内的・外的に調和した人格)される教育を重視し、社会のシステムも人格の統合を重視したシステムに変えることです。

 

こう書くと、何か凄い立派で真面目で倫理的・道徳的な人のようなものをイメージするかもしれませんが、そういう「型」としての優秀さを観念的に一律に形成させるのは「硬直した統合」と私は考え、

 

このブログでいうところの人格や統合というものは、一般的な意味でのそれとはとらえ方が異なります。そのあたりのことは他の記事で補足的に書いていこうと思います。

 

ですが、現代社会は「人格なんてどうでもいい、人や世界が病んでようが壊れようが誰が何人自殺しようが、結果と数字と利益と評価が全て」がホンネですからね。結局は能力主義・結果主義なのです。

 

しかし能力主義の癖に、政治家や権力者の横暴さ、組織の不正や世の理不尽さや暴力などに対しては、「不誠実」「厚顔無恥」「狡猾」「傲慢」「嘘つき」「悪人」などと、人々は叩くわけで、

 

結局それは全部「人間性(人格)に対する評価」じゃないですか。「そういう人間性が許せない」から怒っているのでしょうに。

 

だからいくら能力が結果が数字がといっても、人間性の欠如が生み出す世の姿、世界の不毛さを人は憂いているわけです。

 

そういうものが生まれる背景には、外部の環境としての構造やシステムの問題もありますが、同時に個々の心・精神の状態が相互に作用しているわけですね。

 

もちろん「その仕事に求められる能力」も必要でしょう、結果や数字も大事でしょう、ですが、目先の合理性のみを優先し、一見すると非合理的で非効率的なものを無駄としてカットし過ぎてしまう、

 

そういう社会の傾向性が様々な別の領域で様々な問題を生み出している、だからもう少しそういう部分にも目を向け育てましょう、という問いかけなんですね。

 

基本的に、私たちは「ハードの部分」の気質などは、生まれる前に遺伝子操作でもしない限りは変えられませんが、ソフトの部分はられます。(無意識領域を含む)

 

そしてソフトの変えられない内容として「宿命的な存在である親や生きている時代全体や文化など」があり、こういうものは全く違うものに変えることはまずできませんが、

 

「関係性を変える」ことで経験や情報を選択し、ソフトの条件を変更したり内容を追加することで「後天的な性格」を変化・成長させことはできるんですね。

 

(※またこれよりも難しいですが、無意識に直接アプローチしてそれ自体を変える方法もあります。)

 

そこが人間の強みで、他の生物にはマネのできない進化の産物でもあるのです。他の生物の場合、先天的なものはほとんど全てです。つまりハードが殆ど全てです。

 

人間みたいに生後に変なソフトを入れられて壊れてしまうことは動物の場合は非常に少ないでしょうが、

 

逆に「ハードだけ = 初期設定状態」で生きるよりも高度なことが、生後のソフト次第では出来てしまうというのもまた人間の優れた点なのです。

 

では、健全な親が健全な子を育てるように、もし社会が健全な親のように健全であったらどうなるでしょう、もちろん実際の社会はそうではないので、これはあくまでも、「もし健全だったら」の場合ですね。

 

この場合はおそらく先天的な機能異常があるものを除いて、殆ど人健全な大人として社会ですくすくと成長し、個々の能力を良い形で発揮していくでしょう。 

 

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