まとも以外「私」じゃないの

 

今回は、主に前回書いた「ラカン」のつづき、補足の記事です。

 

 

「幕末明治初期の読書階級の学力」もそうですが、近代日本を作ってきた人々はやはりみな変態、化け物ばかりです。 「啓蒙」とか「革命」とか「自由」とかの訳語、こんな「当たり前」に感じることひとつとっても最初から当たり前だったわけではない。

この世にある全てのもの、日々使っているもの、SNSだってツィッターだって何だって、誰かが生み出したものを当たり前のように使っているだけで、それを自分で生み出せるか?といえば生み出せない人がほとんど。

そしていろんな能力の質や見えない価値もあるけれど、日々お世話になっている「当たり前」を生み出した人、それを維持し支えている人、キラキラした「虚業」よりも目立たない実直な「実業」に勤しむ人々、それは素直にリスペクト&感謝していいんじゃない?と私は思います。

「当たり前」「日常」「実」を馬鹿にするから、「非日常」や「当たり前でないもの」、「虚」も支えられなくなっていく。アメリカがそうやって陥没したように、日本もそれに続いているように思います。

 

 

 

知識人は大衆よりも本や新聞を読んではいても、なんか思いっきりズレている感じの人も多い。トランプ現象ひとつ掴み切れていない人も多かった。「自称 シャーマン?」もピンキリでいろいろいるように、党派性(支持政党の意味ではない)バイアスが強い書き手もいろいろですね。

だから「潮」を感じているようで実は「表層の波」だったりもする。「多読の人」で「思慮の浅い人」も結構いたりする。

「多くを知っている」、「時流を捉えている」という思い込みが、むしろ「波」に囚われ「潮」を感じとる能力を落とすことさえある。

仮に「自称 シャーマン?」が深い知恵、豊かな身体性を持っていたとしても、その伝わりは聞き手の身体性と知性の質に大きく左右されるでしょう。

 

では一曲紹介です。 中国の音楽クリエーターMo Yunさんの古箏(こそう)、いい響き♪

 

 

まとも以外「私」じゃないの

ラカンの凄いところは、近代的な自我というのが、ある面でまさにラカン的に存在している、というところ。彼の無意識の捉え方そのもののうちに西洋的な思考があり、そこに西洋の限界があるということ。

そしてその枠組み自体の限界に疑問を投げかけ、破壊しようとする試みを含んでいるところです。

ラカンの理論は静的な完結したモデルではなく、それ自体が彼のいう「無意識」のプロセスそのものだった、ともいえます。

 

ラカンの理論は、フロイト、ヘーゲル、ソシュールといった先行する思想家たちの影響を受けつつ、その上に独自の理論を「つぎはぎ」的に構築しています。これはある意味で「滅茶苦茶」で、理系には我慢できないレベルの論理的破綻が見出せます。

 

そしてその意味でソーカルは「意識的」で「まとも」で「正しい」です。しかし「無意識」は固定的なものではなく、常に流動し、再構成される動的なものです。

ここでの「まとも」という基準は、合理的であること、すなわち科学的・近代的自己が求める規範の側面を象徴しています。

つまり、科学的合理性を基盤とした自己は、非合理的・無意識的な領域を排除することで自らの整合性を保とうとするため、その規範意識があまりにも強く働くと、異質なものを排除する傾向が強くなるということです。

 

「無意識」はほんらい全くまともではなく正気ではないのです(笑)そして「無意識」は多層的で(全てではないですが)ラカン的な領域があります。

「まともな意識」が「まともでない無意識のプロセス」を見れば、まともな人は「こいつまともじゃない!」と判断するのはまぁ当然なのです。だからソーカルは間違ってはいない。科学っぽく見せるから余計に腹が立つ、というのもわかる。

ソーカルが問題視したのは、現代思想が科学の外観を身にまといながら、その中身が不確定で統制不能な領域を抱えている点です。ちょうど、スピとか新興宗教が、自説を強引に科学っぽく合理的にみせる時がありますが、そこで生じる怒られに近いのでしょう。

スピや宗教もその多くは「無意識」の領域にあり、非合理的です。科学的・合理的な近代的自我は、こういったものを「まともじゃない」と意識化することで成立しているので、まともで正しい人ほど当然そう言うのです。

しかし、科学的・合理的な近代的自我は、「まとも」以外を「私」じゃないとして抑圧することで、無意識の力を失いました。それは「全体性としての人間」から分離している状態です。

「まともでないものにまともは支えられている」ということが、見えなくなり、「まともでないもの(無意識をそのまま表出する者)」に対して「自身が抑圧しているもの」を投影し、過剰に叩くようになる。

この集団的な圧力が「自己家畜化」を進めていくわけですね。こうして科学的・合理的な近代的自我は無意識の力を失い、土台から崩壊していく。

 

ラカン自身、著作の中で何度も自らの理論の誤りや修正を認め、理論のヴァージョンアップを繰り返してきました。彼のテキストは一度完成されたものではなく、常に読み手や後続の思想家によって再解釈・改訂される対象となっています。

「まともじゃないラカン」を面白いと感じるのは、平たくいえば彼もある種の「変態」だからなんですね。

ラカンは「完成された理論」を求めているのではなく、むしろ流動する無意識自体の不規則性や断片性を表現しようとする意図でそうしているため、科学の厳密な方法論や論理性と、ラカン的な無意識の探求との間には本質的な隔たりがある。

彼が小説や他の芸術等の創造的な流れでそうしたのであればソーカルも批判はしなかったでしょう。ラカンは精神科医、哲学者という体で、科学的な文脈や論理的な枠組みを用いながら理論を提示したことが、ソーカルの批判を招いた主な要因だと考えられます。

科学的・合理的な近代的自我には耐えられない代物である、というその気持ちはわかります。しかし無意識領域はラカン程度で表せるものではなく、もっと多元的で深く広い。ラカンにドン引きしているようでは、無意識の旅は無理でしょう。

 

まぁそういったいきさつは抜きにシンプルにラカンを見た場合、西洋の近代的自我の一面を見事なまでに表現しているともいえるんですね。

ラカンの「空虚な言葉」と「充満した言葉」の違いは、言葉が持つ意味の安定性や固定性に基づいて区別されますが、ラカンは、「空虚な言葉」が持つ曖昧性や流動性が主体の欲望や無意識を探る契機になると考えました。

ラカンが「空虚な言葉」を用いて言語で構築された自我に干渉し、主体の揺らぎを促すという発想は、彼以前から西洋における神秘的、弁証的、批評的な伝統の中にすでに見られる要素をさらに体系化したものと考えることができます。

ラカンはこれらの先行的実践―たとえばアポファティック神学や逆説的弁論、実存主義的な断片―を自らの精神分析理論の中に吸収し、言語の構造と無意識の関係を新たに問い直そうとしたと言えるでしょう。

ラカンはおそらく禅の経験はないでしょうが、前回の記事で触れたように、「空虚な言葉」を用いることで主体を揺さぶる手法は、禅の公案が論理的思考を超える一助となるのと類似していると解釈する見方もあります。

 

ラカンの理論では、主体は言語的な記号体系にしっかりと位置付けられる一方で、欠如や分裂を抱えるとされます。デリダはここで、主体が言語によって規定されるという考えが、しばしば固定的かつ排他的な枠組みを想定していると指摘しました。

デリダは、言語の展開が常に「痕跡」を伴い、決して統一された自己や完結した意味を生み出すことはできないという点を強調します。そのため、主体を一定の「像」として再現しようとするラカンの試みは、実際には常に未完成で多義的な領域を内包していると主張しました。

デリダ自身はラカンの洞察を完全に否定するわけではなく、ラカンの語る無意識・主体論を、「固定化された言語の枠組み」による一側面として位置付け、その限界と不確定性を明らかにすることで、両者の理論を対話的に再配置しました。

 

しかし、ラカンが「無意識は言語のように構造されている」と述べ、無意識そのものを言語的な記号体系として捉えた視点は、まさに西洋近代の主客二元論や主体の自律性という側面を反映しているように思います。

「象徴的秩序が無意識を構造化する」という捉え方は、「硬直した状態(ある種の強迫観念的な統合状態)」をよく表現できていると思います。

日本において、一部の非常に生真面目で自己を規律する傾向のある人々の中には、ラカン的な自己のようなタイプが結構いるのではないか?とも感じます。

日本の教育システムや社会構造において、言語能力や記号的思考が重視され、これは、無意識を言語的な記号体系として捉えるラカンの理論と親和性がありますし、

日本社会における「空気を読む」文化、「世間様」の高圧力は、個人の無意識を社会的な言語構造に適応させる傾向を生み出すに十分な威力があります。

 

 

もちろん、↑上のツィートが全てではないにせよ、『外面的には洗練された礼儀や振舞いを示しながら、内面的には極めて自己要求が高く、「あるべき姿」への固執、すなわち硬直した自我や強迫的な規律が形成される傾向』強めな国ではあるでしょう。

よってラカンのいう「分割された主体」、意識と無意識の間の矛盾葛藤が、西洋的な二元構造と類似した形として生まれやすいともいえますね。

ラカンの理論は、主に西洋近代の文脈、特に言語、象徴、主客二元論といった前提の中で展開されており、これが非西洋、非先進国、あるいは少数民族の文化や伝統的な価値体系には必ずしも一致しないでしょうし、日本においても非ラカン的な質はありますが、

ラカン理論は身体性そのものよりも記号体系や象徴秩序を重視するため、身体を通じた直接的な感覚や経験を十分に説明しきれない。 この辺りがかなり異質に感じます。近代人ってなんか大変だなぁと感じます(笑)

 

後期ラカンやそれ以降のラカン派は、この「言語的アプローチ」の制約—つまり、すべてを言語や象徴界に還元してしまうことによる限界—を乗り越えようと試みています。

たとえば、身体性や情動、さらには現実界の異質性に注目する動きが見られ、主体が単なるシンボルの整列ではなく、流動的かつ多層的な存在として捉えられるように模索されています。さすが変態です。

 

今月はやや多めに更新できましたが、しばらくブログ更新を休みます。 今は「卒業」のシーズンですね。人類も「家畜界」から卒業できるといいですね(笑)。
ではラストにもうひとつ動画を紹介です。「卒業ソングPops10曲メドレー」ピアノ版です♪