適応的選好形成  主体と権力と信仰 

今回は「適応的選好形成」、主体、権力、信仰に関するテーマで書いています。

適応的選好形成」には「認知的不協和」と「合理化(防衛機制)」が絡んでいますが、「認知的不協和」とか防衛機制は過去にカルト問題のテーマにおいても度々用いた概念ですが、今回は「適応的選好形成」の多重構造性、「可視化されたもの」よりも「不可視化されたもの」のほうをメインにテーマに書いています。

 

テーマと全く関係ないですが、まず最初にギター(ベンジー)に関連する動画を一つ紹介です。う~ん頑張ってますね~♪

 

適応的選好形成  主体と権力と信仰 

 

「何が幸せか」を誰が定義するか?「幸せ」の解釈がある特定の思想・イデオロギー・価値基準によって行われ、「あなたがたは不幸」「あなたがたは劣悪な環境にいる」とされるが、このプロセスにも選考形成が存在し、また他者によって外部から相手の選考を変えるよう啓蒙することの権力性、そのパターナリズムが不可視化されている。

ルークスの一次元的権力は誰でもわかりやすいが、三次元的権力はそれが権力だとは気づかない場合があるように、そしてナッジ、環境管理型権力、生権力のような『「不可視化された形」で「相手の選好を変えるような働きかけや作用」』の場合、専門家やアカデミアもそれに意識的・無意識的に加担していることがある。

人間社会において「政治」や「専門」による環境設計も必要ではあるが、それへの依存が当たり前になることで、むしろその依存を抜きにした共同体の創造を人々が自発的におこなっていくことはより困難になっていく。

医学があまりにもアサイラム化し権威化したことで、逆に人は自らの生死の問題に向き合えなくなり、「管理され生かされる」ことに依存するのが当たり前になって「それ以外の多様な死や生の在り方」の選択肢を考えられなくなったように、環境設計と構造があらゆる選択を権威の示す価値へと方向づける。

ポリコレとか多様性とかジェンダーフリーとかもそうですが、「何が道徳的に優れているか」を強制的に叩き込むような手段を使わずとも、「今の時代はこれがあたりまえで優れている行動、考え方です」とそうなるようにそうでないものを排除し選択肢を潰したり、選択させないように誘導しつつ、

「人々が○○させられていることに気づかないままそうしていく流れ」をつくることは可能。

そのような価値基準にせよ道徳にせよ、選んでいるようで選んでない「選ばされている」、だがこの過程は不可視化され、特定の選好形成だけに「敢えて」スポットを当て続ける。

前回書いた「アジェンダ設定」「フレーミング効果」もそうですが、「何を問題として強く意識させ、何を問題として意識させないか」をコントロールすることで選好形成を方向付けすることができるし、それが日常的に行われているということ。( 過去記事 ⇒ 縦の分断 集合知の独立性と学問の中立性  )

ナッジ、環境管理型権力、生権力によって「意図的に生み出された構造」への「適応」、そしてアジェンダ設定、フレーミング効果等によって「認知」そのものを方向付ける、この内外の干渉・作用によって生じる選好形成は、

「(自発的にしているようで)実際は○○させられた」結果であり、状況依存的な意思決定+適応的選好形成といえます。

しかしこのような「不可視化された選好の操作」にはスポットがほどんど当てられず、「酸っぱい葡萄」とかアンコンシャスバイアスが~とか、左派や特定の思想等の政治的正しさの文脈で一部の選好形成にのみスポットが過剰に当てられる。

選好形成にも両義性や多元性があるのに、アジェンダ設定、フレーミング効果等によって一面のみが重要視され単純化される。この力学それ自体が権力による主体化、選考形成であり、かつそのやり方が巧妙ゆえにより深い権力作用の浸透をもたらすともいえるんですね。

「あなたは○○が幸福な状態だと思いこまされている」とか言っている側も「何を幸福と感じるか」の「選好」を他者に内面化させようとしている=「そう思いこませようとする側」であり、同時に「幸福とは○○だと思い込んでいる人」でもある。

つまり「あなたは私が信じている幸福のほうを選ぶべきだ」というメタメッセージになってるわけです。

あなたが美味しいと思っているその食べ物は私には酸っぱくてまずい葡萄。私がおいしいと思っている食べ物は誰にとっても甘くておいしいに違いないから、私が甘くておいしいと思っているものをみなが選び、私が酸っぱくてまずいと思うものは誰も選ばないよう啓蒙します!」という特権性

 

ここで、「権力によって何らかの主体にさせられた」というフーコー的解釈がフェミニズムにも応用され、バトラーによって行われた「主体」の脱構築等、そういったフェミニズムの「人間」批判はどこへ向かっていったのか? この過程をわかりやすくシンプルにまとめた研究者 高橋 幸さんのPDFを参考として紹介しておきます。

フェミニズムの「人間」批判はどこへ行きついたのか ——「ポストヒューマン」という新たな主体の社会学理論的可能性について——

 

適応的選好形成にはある特定の思想・イデオロギー・価値基準に適合するように物事を解釈する「合理化(防衛機制)」が絡んでいる。

「自分たちの信仰する思想や政治的正しさ以外の個人の幸福感」=「抑圧によるもの」「○○だと思わされたもの」と定義、解釈し、「自分たちの信仰する思想や政治的正しさによる幸福感」は「主体的で非抑圧的なその人本来の気持ちによるもの」とするまさにその前提にこそ選考形成の力学が働いている。

つまりフェミニズム自体が「フェミニズムによって○○だと思わされれる、フェミニズムによって○○させられた」という選好形成を生み出すひとつの思考の型でもあり、またそれが思考フレーム・判断の前提になることでフェミニズムもひとつのバイアスに基づくパターナリズムになっていく。

「○○バイアス」の構造と同様に、バイアスから完全に離れた意識は存在せず、バイアスをから解放されたと思っている状態もまたバイアスによって支えられている。

だから「○○させられる」という力学は野生でも社会でも存在し、生きている以上は何らかの形で常に作用しており、フェミニズムによって目覚めたと思っている人もまた「フェミニズムに○○させられた状態」の一形態であるということ。

たとえば「フェミニズムをやめました」という女性の体験談は、「○○教をやめました」の元信者の体験談とよく似ていて、いかにその思想への信仰、あるいは理論や概念への同化によって「○○させられた状態」になるかを物語っている。

 

「フェミニスト」の皮を被り、男性を言い負かすことに快感を覚えていた私の話 より引用抜粋

大学でフェミニズムという学問に出会いました。「男性と女性は対等ではない、対等になるためには女性の地位が向上しなくてはいけない」と授業で聞いたときに、ガーンと頭を打たれたような気になりました。「これまで笑って受け流していた発言も、許されざる女性差別なんだ!これからは声を上げ、反論しなければ!」と。
(中略)
それからは男性からの心ない発言を“きちんと正す”ようになりました。
(中略)
「何を言っても言い負かされる」という空気を察知するのでしょう。私にはそれがすごく快感でした。「これからは“男なんて”正論で黙らせてやろう!」と思うようになりました。
男性を言い負かすことに慣れてくると、次第に怒りの対象は「男ウケ」を気にする女性にまで及ぶように。
(中略)
怒りの沸点はどんどん低くなっていき、「守ってあげたいと思われるメイク」とか「彼ウケする服装」といったファッション誌の文言にすらキレるように。
(中略)
いよいよ男性との衝突が多くなり、一部の女性へのイライラが募りすぎて社会生活に支障をきたすようになりました。結婚したいという女性に「男なんてセックスできるお母さんを求めているだけだ」と水を差したり、

付き合っている男性に対しても、気に入らない発言があるたびに指摘して険悪になったり。「これは女性をバカにしてる」「この男は女性を見た目で評価してる」と言わずにいられないため、彼氏は私と楽しくテレビを見ることもできなかったと思います。
(中略)
「男性はみんな差別主義者で女性を性的な目でしか見てない」「みんな下半身でしか物事を考えておらず、頭が悪い」と思い込む。それに“気づいていない”女性も含め、「みんなバカ」と見下す――そんな調子でいたとき、ふと、「もしかして私、ミサンドリーになってない?」と気づいたのです。
(中略)
「正論」っぽく聞こえる意見を突き付けて、相手を黙らせることを繰り返す。私はフェミニズムという皮をかぶったロジハラモンスターになっていました。特に男性は女性である私から「それは女性差別だ」と言われたら、言い返しにくいでしょう。相手が反発してこないのをいいことに、偏った価値観を押し付けていました。

どこで間違えてしまったのか、思い返してみてもはっきりとはわかりません。ただ、息をするように、男性を差別していました。大学で学んだはずのフェミニズムの知識を振りかざして…。とても悪質だったと反省しています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「フェミニスト」の皮を被り、男性を言い負かすことに快感を覚えていた私の話

 

フェミニズムバイアス」に基づく「こうあるべき」の啓蒙、社会へ同調圧力をかけ制度化していく流れは新たなる抑圧の力学となっていく。フェミニズムの問題は「それ自体のもつ権力性・特権性」を自覚できない「信仰」の性質にある。

その結果、「無自覚な特権」を外部に自己投影しつづけ無限に他責化、責任転嫁していく傾向性が強められやすい。(これは他のバイアスにおいてもそうですが、「バイアスのパラドックス」については過去記事でも書いているので詳細は省きます。⇒ バイアスの背景にある隠れたバイアスとパラドックス

バイアスとか適応的選好形成とかシステム正当化理論等がフェミニズムの文脈で用いられることもよくあるわけですが、マルクス主義の虚偽意識論、疎外論、フロイトの無意識(精神分析)などが混じったミーム、マルクス主義フェミニズムはこの混合ミームを前提にしていますが、

またそこから「疎外された主体」あるいは「抑圧された主体」、そして「物象化」とか「搾取」とかの概念が拡大解釈された形で様々な物事の解釈に応用化されていくが、「物事をひとつの認知フレームでしか解釈しないモノロジカル状態」によって硬直した頑固な質が生じる。

「思考の前提それ自体が正しいかどうか、それだけで世界を語りうるものか?」を「思考する者自身が問うことはない」それが「信仰」であり、信仰を前提にして思考する=バイアス。つまり「哲学すること」をやめてしまった思考停止状態が「信仰」。

 

「哲学する」とはどういうことかといえば、過去の哲学者・思想家とか偉人の語ったことやテキストを読んで自己の思考を補強したり知識を増やすことではなく、単純にバイロジカル(複論理)で考えることでもない。それらの言葉・語り、複論理などをすべて含めて問い続け、自己完結なく思考し続けるプロセスを生きること。

「フェミニズムもまたひとつの信仰でありバイアスでもある」という事実を「自覚できない」場合、妄信状態が生じやすい。それ自体の絶対性を疑えない信仰を「宗教」というならば宗教と呼んだほうが適切である。

左派の価値基準の前提にあるミームにポストモダンの思想が加わることで応用ポストモダニズムが生じ、特権理論とかインターセクショナリティ理論等に基づいた進歩的左派の運動が生じてくる。

しかしこれらは反証不可能な思想ゆえに科学ではありえず、また自己相対化されない質ゆえに運動そのものの根本的な矛盾や暴走への再考や改善も生じない。極めて権威主義的で絶対主義的な「われらの正しさ」に基づく信仰形態ゆえにカルト化しやすい。

 「アメリカで「リベラリズム」の立場から「ポストモダニズム批判」が強くなっている理由」 より引用抜粋

応用ポストモダニストたちは、自分たちについても他人たちについても、主張の是非について判断する際に「その人の主張の内容は筋が通っていて適切であるか」ということではなく「その人はどんな属性をしているか」ということにばかり注目するようになった。

また、「特権理論」も応用ポストモダニズムに関連している。権力と同じようにマジョリティの特権も存在しているということが前提とされているが、その存在を客観的な知識によって立証することはできず、マイノリティの主観的な経験によってしか認識されない。つまり、マジョリティが特権の存在を否定したり特権理論に対して反論したりすることは、原理的に不可能になっている。

欧米諸国と比べて日本にはリベラリズムの発想が深く根付いているとはいえない点には留意すべきだろう。リベラリズムは健全な民主主義の防波堤であるが、その防波堤が脆弱な社会では、応用ポストモダニズムの悪影響はより一層深刻なものとなるかもしれない。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ アメリカで「リベラリズム」の立場から「ポストモダニズム批判」が強くなっている理由

 

脱北者で人権活動家のパク・ヨンミは、米エリート校に広がる進歩的左派の「お目覚め文化」が「北朝鮮と似ている」ことを指摘しましたが、北朝鮮で生きる女性が強いられる人権無視の状況に適応的選好形成した場合、それは欧米および先進国の価値基準では「愚かな選好」とされるが、

その「愚かな選好」から脱し、米エリート校に広がる進歩的左派の集団の「お目覚め文化」に触れた彼女は、そこにも「北朝鮮と似た愚かな選好」があることメタしてしまったんですね。

適応的選好形成をジャッジする側も適応的選好形成に陥っている」という構造、しかも「ジャッジする側はそれをより自覚できない状態になる」という意味では「不可視化された適応的選好形成」になっているわけです。

この構造はバイアスにおいても同様で、「バイアスをジャッジする側のバイアス」のほうがより不可視化されやすい。この「不可視化できる力」を権力のもつ力の一つの要素だとすれば、マジョリティ1個人よりもマイノリティ1個人のほうが権力を持っている場合もあるということ。

特権理論」のような「主観」に基づくステレオタイプな物事の単純化もそうですが、力関係や非対称性は条件次第で変わるもので、権力というのは「特定属性のみが所有し常に一方向からのみ作用する」ような単純な力学ではありません。下から上から、内から外から、少人数から多人数から、小集団から大集団からも生じる。

「権力の複雑性」を見落としてしまうとき、不可視化された権力が肥大し暴走することがある。だから「自らを権力と自覚している可視化されたもの」よりも「無自覚で不可視化された権力」のほうが質が悪いともいえます。その意味で強者のそれは質が悪くない。これは「悪」においても同様。

 

ただこれはすべてのフェミニストがそうであるということではなく、ネット、SNSとかテレビ・メディア、アカデミア等で目立つ人とか有名な人とか、野党と政治的に連携している活動家等にそういうひとが多い(と感じる)だけであり、哲学的な動的思考を失っていないフェミニストもいる。

「この世で一番正しい宗教は?」に絶対的な答えがないのと同じ意味で「本当のフェミニズムなんてない」といえばそうであるが、カルト宗教と新興宗教、伝統宗教の違いのように質的な差異はある。思想や宗教に基づく活動は国によっては明確に区別され規制もされる対象となる。

古今東西の思想には質的な差異があるようにフェミニズムもフェミニストも一枚岩ではないため質的な差異がある。

哲学的な動的思考を失っておらず、先鋭化、カルト化もしていない思想および運動、あるいは政治性よりも創造性にウエイトがあるもの、そのような創造的なフェミニズム運動ほど表にはあまり出てこない。党派的な政治的なものだけが前面に出てくるからどんどん印象が悪くなる。

先鋭化した思想的運動は社会との文化葛藤を引き起こし、そこで生じる「認知的不協和」を常に信仰する理論の文脈で合理化(防衛機制)し続けることでカルト化していきますが(カルト宗教も同様)、政治的なものであっても二項対立をアウフヘーベンしていければその運動性はマクロな形で昇華されていきます。

しかしカルト宗教においても「思想・理論に救われた、幸福になったと感じる人」がいるから信者がいるわけで、ある種の適応的選好形成が生じるんですね。「個人の主観における救われた感や幸福感」はカルトだけでなく、先鋭化した思想的運動の内集団においても生じます。

マジョリティ規範、あるいは「常識」でもいいが、宗教はもともとそれに対立するあるいはそれとは異なる別の理論体系を有し、それを最上の価値とする。

「あなたは○○が幸福な状態、真実だと思いこまされている」という形での「社会通念の否定」や「マジョリティ的な価値の否定」はカルトとか自己啓発とかもよくやるもので、教義(理論)によって「本当の幸福」「本当のあなた」「真実への気づき、目覚め」みたいな方向に誘導する。

フェミニズムもマジョリティ規範や常識とされているものによって「○○させられた」と捉え、フェミニズム思想、理論によってその囚われから解放され「救われた」「真実に目覚めた」と語る人々もいるが、

しかし、教義(理論)によって「救われた」「気づいた」と個人で感じることと、その理論をあらゆる物事に当てはめ普遍化しようと社会に働きかけることは全く別のもの。

 

「アカデミック・フェミニズム」が上から押し付けるパターナリズム運動となるとき、その『「無自覚な特権性」を「不可視化できる力」』ゆえに解釈を独占しジャッジや選別を独断的に行う権力者と化す、ゆえに質が悪くなりやすい。

この「自らのしていることを不可視化できる権力」は、「広く可視化された権力」や「常に批判や責任や再考を求められる強者属性・マジョリティ」に比較して教祖化しやすいんですね。自浄作用なく自己相対化もないゆえに絶対主義化し、自己愛性と権力性が肥大化しやすいともいえます。

「信仰形態」は内部からは自覚しづらい、それをメタするには「信仰の外部」から、「思考の型と同化していない、前提を絶対化していない状態からの視点」が必要になる。信仰は硬直した自己統合状態を生み認知フレームを強化するので、特定の選好形成を強化していく。

仮に信仰の内部で弁証法が生じていたとしても、それは内部の二項対立から内部に再帰する閉じた運動でしかなく、開いた運動としてマクロな弁証法の力学が生じるには「信仰の外部」からの視点が加わることでしか生じない。

思考の型そのものの違いも「思考の多様性」であり、人種とか国籍とか性別とかが異なっていても価値基準が均一で思考の型が均一なら内面における多様性は限られているのと同じで、見た目や属性が異なるというだけの外面の多様性でしかない。

まぁ私は「宗教的なるものそれ自体」は否定しないんですね。それはあらゆる人間社会の価値の前提にある根源的なもののひとつだからですが、問題はその宗教がどういう質か?どのような作用をもたらすか?どのようなやり方で活動しているか?です。だから「カルト化した宗教的なるもの」に関しては批判、否定します。