「全て自己責任が正論」 という風潮の嘘 同調圧力という「無責任な悪意」
「全てが自己責任」というのが正論 という風潮が今の日本社会には満ちています。確かに(ある面から見れば)「自己責任」ともいえますが、
ですが私がここでいう「自己責任」というのは、今の日本社会で主流の自己責任というものとはかなり意味が違います。
今の日本社会で主流の自己責任というものを心理学的に分析すると、それは弱肉強食の正当化、「勝った方」のためだけの理屈であり、時には詐欺師の理屈に近いほど一方的に感じるものなのです。
このテーマを社会心理学的に考察した記事を以下に紹介します。
⇒ 「原因」の外的・内的帰属のバイアス 「原因帰属のエラー」
つまりこういうことです。
「騙されるお前が悪い、お前の頭がシッカリしていれば俺に騙されることはなかったし、お前には俺を否定する選択肢もあったはず。それにお前を拷問しそれを強制した覚えはない、結局はお前が選んだんだ、だからお前の責任だ」
というのが、「一方的に感じる」という自己責任の理屈です。
まぁだから「半沢直樹」があんなに人気が出るわけですよ。多くの人が心の中では「納得がいかない」と思っているからです。
あなたはもう気づいていますか?社会の言う自己責任という言葉こそ、「一部の人間の自己責任の放棄」のためにあるものなんだという巧妙な嘘のパラドックスに。
「状況が悪いのも酷い目に合ったのも、全部お前が情弱で意志が弱く能力が低く見通しが甘いからであって、自己責任だ。」と、強者の立場の誰かに言われてスカッとしている人って結構いますよね。
主体性を奪われた人にそういう受け身の人が多いですが、それは「騙されて勉強になった」と言い続けているあの心理と同じです。未だに「自己責任」と「他者責任」の区別もつかない人です。
これは強者が弱者に押し付けている「自己責任」であり、
「他者」の負の干渉が確かに存在するにも関わらず、それを帳消しにし、一方的に弱者に全責任を負わせて意識させ「自責型人間」を大量生産するだけです。 その方が都合が良いからそうするのです。
「自責型人間」は一見真面目で大人の態度に見えますが、こういう人は人生の主体性を他者に奪われていますから、心の奥は負の感情に満ちていて、その投影作用で他者にも自責を強要する人間になっていくのです。
そうやって負の同調圧力が生まれるんですね。それで社会は首の絞め合いばかりになって、うつや自殺者を量産し、社会には閉塞感と無力感が満ち、元気・活力・創造性がなくなっていくわけです。
つまり現代社会の「自己責任」の理屈は、人にも社会にも良い影響を与えていないのです。では誰にとって良い影響を与えているのか?それは一部の強者だけです。彼らにとっては非常にやりやすく都合が良いでしょう。
矛盾するようですが、私は「全てが自己責任」だとも思っています。ですがそれは、今の日本社会で「一部の都合のために」悪用されている「自己責任の理屈」とはまるで意味が違うのです。
本当の意味の自己責任があるならば、それは「自責型」にはならず、「首の絞め合い」にもなりません。
また「馬鹿・クズ・アホ・死ね・甘えるな」などという、何の建設的な意義も生まない言葉が飛び交うような攻撃的な思考の量産にもなりません。
心理学的に見ると、「社会の自己責任の理屈」の本質は「一部の無責任を肯定するためのもの」であり、むしろ「責任の放棄」なんです。
日本と韓国の自殺者・うつの増加は、こういう「無責任」な「自己責任」の理屈を弱者に押し付けた修羅社会化の結果でもあります。韓国の場合はもっと悪質ですが、それが社会の「上」が社会の「下」にやってきた人心操作のひとつ、ということなんですね。
◇ 関連記事 ⇒ 社会の閉塞感 「生きづらさ」の社会心理を生む構造
以下の風刺は、作者が何人で誰なのかは定かではないですが、(アメリカ?韓国?)どちらにせよ、多数派の空気に逆らうと、周りからの同調圧力によって徹底攻撃される社会現象を描いています。
シンプルながら非常に的確な指摘である、とネットでも話題になっています。韓国社会で日本社会であれ、そして閉鎖的なコミュニティや分断化した社会、国においてこれは通じるところがあるでしょう。