西田幾多郎と無意識の世界 「定義する」ことは「見る」ことと同一ではない
今日は「禅・瞑想」と「うつ」を含むカテゴリーテーマで、「西田幾多郎と無意識の世界」を中心に書きます。
西田幾多郎、鈴木大拙と言えば日本を代表する哲学者・思想家ですが、二人は共に石川県生まれの同級生です。そして石川県は「禅」と縁が深い場所で、二人が「禅」の世界観に深く精通しているのも、その縁なのでしょう。
西田幾多郎はとても有名な方なので、大概の方は御存知だとは思います。知らない方は一般的知識として右リンク先を参考にどうぞ ⇒ 西田幾多郎 もうひとつ、参考PDFも紹介しておきますね。⇒ 直観と反省をめぐって──西田とフッサール──
西田的世界に生きている「絶対矛盾的自己同一」という概念は、インド哲学の不二一元論に似ています。そして西田幾多郎 という方はただの哲学者ではありません。かなり徹底して禅をやられていたようで、
「無意識領域にかなり深く入り込んでいるなぁ」ということは、本を読めばよくわかりますが、深い哲学の本なので、一般向けではないかもしれません。
今回は西田幾多郎 の言葉を幾つかの言葉を解説付きでシンプルにまとめている以下のサイトを紹介します。哲学初心者の方でもわかりやすい内容だと思います。 ⇒ 哲学者 西田幾多郎のことば – NAVER まとめ
また、彼の家庭環境は非常に複雑であり、彼はある種の機能不全環境による神経症・心身のバランス異常に深く苦しんできた人でもあります。なので、西田幾多郎 はただの理論家ではなく、
以前紹介した精神科医のフランクルに似た「苦悩~解放へ向かう過程」の体験者です。参考PDF⇒ 西田幾多郎の思想形成1)― ある家庭事情の深淵―
西田幾多郎 の著作から幾つかの言葉を引用紹介しますね。
自己が自己の底に自己を超越するということは、自己が自由となることである、 自由意志とは客観的なるものを自己の中に包むことである。出典:西田幾多郎哲学論集Ⅰ 「叡智的世界」
自己が創造的となるということは、 自己が世界から離れることではない、 自己が創造的世界の作業的要素となることである。出典:西田幾多郎哲学論集Ⅱ 「論理と生命」
真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる。出典:善の研究(岩波文庫)
奥が深いですね、シンプルですがこれは顕在意識レベルの話ではありません、無意識の領域を含む言葉ですね。
このブログで専門用語とは異なる私自身の用語での表現を幾つか使っていますが、例えば、「自我の虚無」と「存在の虚無」は違うというような表現を使ったりするわけですが、
西田幾多郎も違う表現で似た意味のことを書いており、これを明確に分けています。そして彼の言う「純粋経験」というものは、「純粋意識」に近い意味を持つものと感じます。
参考PDF➀ ⇒ 純粋経験と現象学的経験 ──場の理論のための一考察──
参考PDF➁ ⇒ 西田幾多郎の純粋経験1
ですが以前に書いたように、それは一般的なアプローチではありません。無意識領域を深く理解するのは、「思考」では無理だからです。
パラドックスですが、自我から見た無意識は「無=ゼロ」なのですね。だから、主観的・内観アプローチに深入りした場合、「自我の虚無」の奥には行けず、逆に「無意識の投影である自我」の罠に落ち、
「自我肥大」や「退行による原始的無意識との一体化」、あるいは虚無主義へと至ったり、「幼児的万能感と天上天下唯我独尊が同一化」の方向性に向かったりします。(例;カルト系教祖)
幼児的な自己愛と、存在の自己肯定感の違いを以前書いたように、天上天下唯我独尊は、本来は幼児的万能感とは全く異なる意味を持ちます。
まぁ、この手の話は表現ひとつで錯覚や誤解を生ませたりしかねませんので、私あまり詳しくするつもりはありません。「悟りの方向性」に関しては、一般の方は日常に役に立つ範囲で十分だと考えているからです。
無意識領域を深く知らなくても人は生きていけるし、むしろ「安易に知らない方が良い、という領域・構造」もありますよ。また「知識的」に知ってもほとんど役には立ちませんし、囚われ盲信すれば、逆に病的になります。
叡智的性格は感覚の外にあってこれを統一するのではなく、 感覚の内になければならぬ、感覚の奥に閃くものでなければならぬ、 然らざれば考えられた人格に過ぎない、 それは感ずる理性でなければならぬ。 出典:西田幾多郎哲学論集Ⅰ 「場所」
この領域の概念や知識はかえって障害になる方が多いくらいですが、危険性と有害性を知識として知っておくことは大事なので、そこを過去の記事では重点的に書いてきたわけです。
無意識領域は内観以外に知ることは絶対に無理か?というとそうではありません。「関係」によって理解する、という方法があります。人は他者の無意識の「一部」は見えるからです。また「関係によって引き起こされる自身の感情や意識状態」を見つめることによっても、その一部を理解することは出来ます。
ただこの場合も、自他の観念的囚われや好悪の感情によって、見たものの全体性は分離されるので、あくまでも条件づけられた形で知ることが出来る、という意味に限定されます。
「行動主義心理学」のように、「無意識なんてわからないもの」だから、「目に見える外に現れた運動・変化を科学的に観察しよう」というスタンスでも、観察者の解析力・実験の精度次第では部分的には無意識領域を理解する助けにはなります。
この場合も、あくまでも条件づけられた形で知ることが出来る、という意味に限定されます。そしてこのような外的な認識によって指摘されるものというのは、「見る側・観察する側」の一方通行に終わることもあるでしょう。
ある人の行動を観察して専門用語で否定的にレッテル張りしてラベリングしたところで、「自我の運動そのもの」が本人に理解されない場合、あるいはする気もない場合、
社会的に言動が不利・損となると判断した場合にのみ、理性的に「そう思われないよう、そう見せないよう」な言動をとることで表面的に修正・対応・適応するだけに止まります。
実際は本人がその全体性を自覚する時しか、意識の状態は変えられないからです。ちょっとしたズレた勘違い・思い込みや部分的な考え方のクセ程度であれば言語化された思考分析のみでの「自覚」でも修正は十分可能ですが、
「無意識に深く根付き同化した自我運動」の場合、それだけでは全く不十分であり「感性を含んだ立体的・総合的な自覚」が必要になるのです。
「定義する」と「見る」ことは同一ではない
心・精神というものは「相互作用しながら変動する、不規則で複合的な動的な質」を持つものであり、生物学的であるのと同時に社会的な力学を含んだものでもあり、
静的で固定的な目に見える物とは異なり、例えば工学・数学や技術の領域のような、公式・定義にカチッと計算通りに当てはまるような明確なものではないのです。
対応としてラベリングも必要不可欠ですが、それ以外の目線も同時にもってないと、条件反射的にタブロイド思考のみで見る場合は、「そこしか見えなくなる」ことで、かえって「他の要素」が見過ごされ、問題を根深くさせる、という逆説的な結果が起こるわけですね。
これは実際に「精神医学で起きていること、過去に起きてきたこと」でもあります。(精神医学に限りませんが。)ゆえに、「ものの考え方や受け取り方に働きかけるアプローチ」の認知療法だけではなく、感性そのものに働きかけるアプローチなども必要なわけです。
その一つが、マインドフルネスをはじめとする身体性・感性を含む心・精神へのアプローチなのですね。
善とは自己の発展完成であるということができる。 即ち我々の精神が種々の能力を発展し 円満なる発達を遂げるのが最上の善である。(西田幾多郎)