無意識を観る、ということ  モヤモヤの言語化の恣意性

 

前回はバイアスのパラドックスについて書きました。 前回の記事 ⇒ バイアスの背景にある隠れたバイアスとパラドックス

 

そして「無意識を観る」という表現は多元的で、ひとつの意味ではなく、バイアスについてあれこれ書くのは主に社会心理学的文脈で、「社会の側」から観たものであり、概念的思考での解像度を上げていく、という意味での「観る」で、

 

それは、「概念以前に触れること」ではなく、その意味での「無意識を観る」とは全く異なるものです。そして今回は「禅・瞑想」のカテゴリーを含んでいる記事で、その視点からの考察がメインです。

 

ではまず一曲、RuRuさんのピアノcoverで、ファイナルファンタジーVII「プレリュード 」です♪

 

 

 

バイアスについて、たとえば過去にも書いてきた「内集団・外集団バイアス」ですが、それが極端化した結果の「カルトと地域住民の対立関係」と同様に、「一方的で極端なやり方」は、当然多くの人々の反発を受けます。

 

そしてその反発も「運動」であり「主張」なんですね。他者に「運動を否定するな、冷ややかに観るな」というのであれば、まずその人自身が「自分とは異なる他者の運動、主張を冷ややかに観ない」ということから実践してみてはどうでしょうか?

 

(まぁ私は他者の運動にどう反応しようが、法律・ルールの範囲内であれば全部自由だと考えているので、自分も自由に反応し主張しますが。)

 

しかしそういう人にかぎって、気に入らない相手の批判や運動は一切耳に入れず、拒絶していくわけです。それでは「無意識」を理解するということは出来ないでしょう。

 

歯切れのよい大きな声わかりやすい二元論での短い表現は、時にSNSで多数の「いいね」がついたりもして、それで「賛同者が多い」と思い込んでいても、実際の現実はSNSとは全く異なることがあります。

 

何故違うのか?といえば、それはSNSで主張・反応する人よりも、その賛否のどちらの次元でもない現実を生きる人々の方が遥かに多いからです。

 

そういう人々が仮にSNSでそれに触れても、その姿を見て「静かに避ける」だけなんですね。だから可視化されない。その結果「可視化された僅かな賛成者と反対者」が意識に強く残り、後はそれへの反応がループしていくだけなんですね。そうやって「SNSに条件付けされる」わけです。

 

 

「参加者わずか0.5%の“怒り”に惑わされるな 「炎上」の実態を科学的に解き明かす」より引用・抜粋

通常の世論調査では、訪問・電話いずれであっても、基本的に「聞かれたから答える」、いわば「受動的な発信」である。例えば、政党支持率の調査であれば、電話で聞かれたから、あえて自分の支持政党を答える。

 その一方で、ネットでは、「発信したい人が発信する」という極めて「能動的な発信」に基づいている。発信したいと思わない人は、例え自分の考えを持っていたとしても発信しない。

発信したいという思いが強ければ強いほど、一度ならず何度も同じ情報を発信して、その声が大きくなる。 つまり、ごくわずかの人が形成している炎上によるネット世論だが、その中にさらに大きな偏りがあるのだ。

加えて、炎上を恐れる人たちが情報発信を控える「表現の萎縮」の偏りもあり、極端な意見ばかりがネットでは目立つようになっている。このように形成された炎上によるネット世論が、社会全体の意見分布と一致しているとは考えにくい。

引用元 ⇒  参加者わずか0.5%の“怒り”に惑わされるな 「炎上」の実態を科学的に解き明かす

 

事あるごとにすぐに弱者強者に人間を分け、被害者加害者に人間を分け、に分け、人間の複雑さを見ずに対象を単純化して固定化して叩く、

 

それは一見わかりやすくて、そして運動するには「感情的」な方が盛り上がるわけで、単純化された「敵」「味方」の構図の方が「怒りのエネルギー」は集めやすいでしょう。

 

ですが、そうやることで逆に見失わわれている人間の多元性、複雑さ、や大事なものがある、ということです。特に最近はそういう傾向がどんどん強まってきています。

 

「無意識」を理解するには、多くの場合、「外集団」の視点の方が「自分・自分たちが気づけない視点」を教えてくれる、ということに気づくことが大事です。 内集団との同調で自己完結してしまうと、「外集団」はただの「敵」「無知な連中」になってしまうんですね。

 

内集団の中で、特定の思想、専門性等の概念で現象を意味に分割していくことは、「無意識を観る」ことではなく、それは概念による解像で理解することあり、現象・対象を「内集団に最適化された意味範囲」に限定し、置き換えるだけであれば、逆に対象を、あるいは無意識を全く見えなくしていくことに繋がります。

 

 

無意識を観る、ということ

「無意識そのものを観る」というのは、「目的性・方向性を持った社会運動をしながらお金を貰って誰かに教え諭す」ようなものではなく、非政治的・非社会的で、経済活動とは無縁の「非生産的で目的性を持たない、何の役にも立たない」ものです。

 

ですが、「何の役にも立たない、方向性も持たない」ものだからこそ、無意識から生まれる創造性は、常識を超えた自由運動にもなるんですね。

 

「今やっていることそれ自体がどういうものか」を観るというのは、自分の仕事にとって「プラスにならない、何の生産性もないものを観る、あるいはマイナスにすらなることも観る」、ということで、そういう自由さを排除していくという姿勢は「無意識のまんま」ということです。

 

仕事の役割でそれをやる、というような目的性のある人は、それを「やれない」どころか、「やっているつもり」になってしまうことでかえって脱線していくことがあります。

 

遊び」には「仕事」よりも深いものがあり、創造性は遊びの中で揺らぎます。「こうあるべき」の目的に集中しない、あらゆるものを観ようとする、そこから常識を超えたものが生まれたりする、だからこそ目的性のある運動、生産性の視点からは「排除される・されやすい」わけですね。

 

なので、ある種の「政治的な正しさ」の運動は、ますます観念的に戒律的に、(自分たちから観た)無意識の言動の禁止に終始し、雁字搦めに規制し、その結果、硬直したゆらぎのない意識状態に向かうわけです。

 

一見すると生真面目で真剣なんですが、実際はそういう頑なさは、複雑さを単純化することで自己防衛し他者を攻撃するので、とても不真面目・不誠実でもあるんですね、カルトと同様に。

 

無意識を観る~意識化する、というプロセスは、前段階としてまず「特定の方向性での概念的思考を外していくこと」、そして「無意識を意識化する」というのは、解放された活力が生かされたまま調和的に統合する動的状態を「無意識自体が学ぶ」ことであり、

 

意識が無意識に教え導くのではない」のです。それは禁止の増加、規範の強化による「意識的な行動変容」ではありません。バイアスについて考えること=無意識を観ること ではありません。それは単に専門的な概念で思考的な解像度を高めているだけのことです。無意味ではありませんが、無意識自体はそれでは観れません。

 

無意識を観る、というのは無形のマインドフルネスであり、悪とか善とか、何らかの価値基準で無意識を責めないこと、無意識にも身体にも「特権」だの「原罪」だのそんなものは存在しません。それは制度・構造の側にあるのであって、無意識は、社会化、価値化される「以前」のヒトの全体性であり、男女人種に関係なくみなヒトです。

 

それを観る、ということと社会運動は全く別の運動性です。無意識は非社会であり、内奥に自然界を含むものであり、それを何らかの価値や意味に置き換えるのは、意識と概念的思考による社会的構築です。無意識への評価・ジャッジも社会的に構築化された相対的なものに過ぎないんです。

 

そこには政治性、個々の価値基準が投影されています。よってそれは「観ること」ではなく、「内面化された個々の政治性による自我運動」ともいえるものであり、

 

その相対基準で現在の常識を否定し、新たな社会の常識(マクロの価値基準)にするというのであれば、他の異なる政治性、価値基準との民主主義的なプロセスを経て、正当な手続きを経て社会的合意に向かうべきです。

 

それをすっ飛ばして社会を力づくで変え、全体の規範にする、というような特別な権限は在りません。それこそ「独裁者並みの特権意識」でしょう。自らの肥大化した特権性には気づかず、生物学的な無意識を過剰に否定し抑圧する、というその暴力性に気づかないのであれば、まずはただその運動性を「観る」ことです。

 

しかし「観る」ことは簡単にはできないでしょう。何故なら「信念に基づき同じ方向性で運動していたい」の運動が、その運動自体の持つ矛盾に気づくことで揺らぐわけですから。しかし「他者に言及するだけの人」は、自身への疑念を否定し、反対者を過剰に否定するようになります、そうなったらもうカルト化への一歩ですね。

 

モヤモヤの言語化

たとえば、被害者意識、踏みにじられた思い、やり返したい等の、強い感情がある時、ある「概念」や「思考」が「私が言語化したかったものはこれだ!」と「背景にある感情」と結びつきます。それはその概念なり思考なりが、自分の感情に沿うものであり、感情を肯定するからで、確証バイアスの一種です。

 

しかし確証バイアスを強化できず、自分の感情に沿わない場合は「モヤモヤしてしまう」わけですね。しかし本当は、「私が言語化したかったものはこれだ!」に落ち着かず、「モヤモヤしたままであれる」方が「深い考察をする人」なんです。しかし観察していると、そういう人は専門家でも案外少ないんだな、と感じますね。

 

コトバがどのような作用・力を持つか、その影響力がわかっている対人援助職の専門家なら、まず自己言及的にコトバの作用というものを捉え、相手がどうとかこうとかよりもまず、「専門家としての自身がどのような心・感情から概念・コトバを一般の人に表現しているか?」の方に目を向けるはずでしょう。

 

しかし、「自分が主導権を握りたい」「自分の活動をアピールしたい」「仕事や運動に利益になるように持っていきたい」「専門家としての知識・権威性で黙らせたい」「当事者の体験・話を聴いたり読んだりして過剰に共感し、感情を消費する」、そういう専門家自身の優位性・利益・自己充足の文脈で、コトバが放たれる。

 

モヤモヤの仕方にも個性があり、その互いの「わからなさ」が接触する時、モヤモヤのパターン化が崩れ揺らぎが生まれる、そうして何か少しだけ見えてくる、そういう「自己完結状態が壊されるゆらぎを生じさせる他者」が、「無意識を観る」ということに「協力してくれる人」なんです。

 

まぁとはいっても、ずっとモヤモヤだけし続けていると狂うので、たまにぼーっとして「マインドワンダリング」を丸っとエポケーしちゃうんですが。

 

「言語化」というものは、曖昧なものを明確にする、というプラスの働きがある反面、曖昧さのモヤモヤに含まれていた多元的なものを単純化しカットすることで見落としてしまったり、強い感情等がある時は、「感情が思考を使って目的を果たすために何かの概念と同化する」、という「恣意的な言語化」に向かう場合もあります。

 

「恣意的なもの」というのは、「何かと戦っている、争っている状態」からそれに勝とうとしている等の、「目的が先にある考察」です。それは最初から何を肯定し何を否定するのかが「感情的に決まっている」思考運動であり、そのために「私が言語化したかったものはこれだ!」の確証バイアスの強化に向かうんですね。

 

何故人は「概念を武器化」するのでしょう。それは特定の「単純化の形式」に持っていくことで社会的正統性が与えられ、「相手を徹底的に否定することができる」ということを、「学習」によって既に多くの人が知っているからです。人は良くも悪くもいろんなことを「学習」し、それを「戦力」に変換したりもします。

 

「言語」や「概念」を使う時、「何をどう使えばどう有利になるのか?」をあらゆるパターンで組み合わせて思考することができる、それが人間の能力だからこそ「使ってしまう」のです。

 

「利害関係や対立関係がある相手に絶対勝ちたい」、「何かの結果を強引にでも得たい」、という時、学習したものを変則的に使ったり反則的に使うことはザラなのです。

 

そして多くの人々が水戸黄門の勧善懲悪や半沢の倍返しが好きなように、「己の信じる善で相手の悪を裁きたい」という気持ち・感情があるわけです。「学習」がその気持ち・感情と結びつき、様々な変則技を編み出していく、という言語的総合格闘技が展開されるわけです。

 

しかし言語的総合格闘技の前に、現象の複雑性や変化やゆらぎ、そして何かに白黒二元化できないグレーな状態などを観ず、複雑な考察は抜きにして、とにかく一気に相手を単純化して二元化して裁きたい、固定化して叩き続けたい、という現象が最近はよくみられることになってしまった、ということですね。

 

このようにして無意識は、自分の価値観、生き方、思想、政治性、ジェンダー、過去の体験、感情、そういうものを肯定する概念・思考の方にパッと飛びつきます。そして「自分と逆の対象」をその概念や思考で単純化してすぐに否定します。そういう自我の運動性をただ観る、ということです。

 

モヤモヤが「否定対象への負の感情」とは結びつかず、「自分の価値観、ものの見方」を肯定するためではなく、ただモヤモヤそれ自体が好奇心で考察する、わけですね。「そういう風に観ることで何かに触れる」、この「遊び」の揺らぎの自由さが「発見」にとって大事なんですね。