「構造的暴力」+「正しさ」が生む「恥」と孤独と心の破壊
BABYMETALの藤岡幹大さんが亡くなりました、まだ36歳..、凄くいいギタリストだったし、これからの活躍も楽しみで期待していたんですが残念です。ご冥福をお祈りします。
今日は「鬱」「不安障害」「アダルトチルドレン」のカテゴリー記事の更新です。以下に、TEDの動画を紹介しています。
黒人女性であるニッキー・ウェバー・アレンさんが、社会の「構造的暴力」と周囲の「正しさ(こうあるべき)」によってどのように孤独と自己崩壊へ追い詰められたのか、それがよくわかる動画です。
感情を抱く事は弱さの表れではありません ― それは私達が人間である証なのだ、とプロデューサーで活動家でもあるニッキー・ウェバー・アレンは語っています。
彼女は不安障害と鬱病だと診断された後も、恥の思いにとらわれ、誰にもその事実を語れず、家族の悲惨な事件によって、自分の近親も同じ病で苦しんでいたと知るまで自身の病状を隠していました。
このメンタルヘルスに関する重要なトークの中で、彼女は自身の苦しみを赤裸々に語るとともに、何故有色人種のコミュニティでは鬱を弱さであると誤解され、苦しむ人達が援助を受けられないのかを語ります。
◇ 関連外部サイト記事の紹介(追加更新)
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〇「うつ」に寄り添う女装バー経営者 「大好きだからこの世にいて」
〇 マライア・キャリー「双極性障害II型を患っている」と初告白
「欝」は「弱さ」の結果ではない、そして同時に「欝」が弱さに見えるのは、「欝になった状態」が「弱さを感じさせる」という「結果」からの原因の推測で、「意志」の問題に焦点があたるからですが、
「欝」には多様性があり、ある人の「欝」の原因が何にせよ、周囲の眼差しが「弱さ」は恥、という眼差しであれば、
「存在否定されること」への防衛によってそれを隠し、孤独の中で耐え、そして強さ・成功を過剰に目指して頑張り続ける中で過剰な心理的ストレスが加わり続け、
身体は限界点を超えた時、内側から壊れていく、という人も沢山いるわけです。
「内側から壊れていく」の表れがどういう形になるかは、先天的な因子によっても変わるでしょうが、個々の人が有する「より壊れやすい因子」から先に壊れるわけです。
多様な現れのそのひとつの表現が「欝」、それもまた身体及び命の表現なんですね。
「弱さ」そのものは「恥」ではなく「それを隠す卑屈さ」、そして逆に「弱さを叩くことが強さであるというような無知と傲慢さ」が、「自他に対し人間らしくあることを見失っている」=「恥」なんです。
この弱さの恥「卑屈さ」と強さの恥「傲慢さ」を捨てて、私たちは私たちであることを怖れずにそのまま表現すればいいのですね、本来は。
私は彼女のように立派にスマートに生きてきたわけではありませんが、ある部分が似ています、彼女は不安障害を瞑想やヨガなどで何とか正常な状態を保つことが出来ているようですが、
何故、私たちは弱さの恥「卑屈さ」と強さの恥「傲慢さ」に囚われてしまうのか、それは小さい頃からの内外の条件付けがそうさせるんですね。
私がずっと昔に書いた手記をひとつ紹介。
「正しさ」という名の「殺人者」が心に住む者
心の中に「正しさ」という名の「殺人者」がいる者が 孤独の中で苦しんでいた
そんな殺伐とした心とは誰だって向き合いたくなどないだろう ましてそれを心に植え付けた周囲の者に対しては それ以上に向き合いたくも話したくもないだろう
内外から締め出された孤独は その者の心を制御不能にしていく その者が話さなかったのは それは「正しさ」「正しい人」が怖かったからだろう
そう感じるほど「正しさ」との殺し合いに疲れ切っていたからだろう
「ただ自分であること」を認められず 「正しさ」に認められる何かでなければ全否定され続けたからだろう
「良心」は正しさが生みの親じゃない 良心は恥や罪の意識の反動が生む「強迫観念的な道徳」や「宗教的な善」なんかじゃないよ
ただ存在を愛することを通して自他を理解する時 他者や自身を大事にしたいと思う気持ちから自然に湧き上がるもの それが理性と結びつくとき 自然に人は「善性」になる
正しさが豊かな良心と理性を持たない時 あの善という名の押しつけがましい暴力に過ぎないものが 心を殺しに来る
その殺し屋は 自分の一部を「恥」にして そして他の一部には強さと優越感を与え 「弱さ」を支配し否定し続けることで自分自身を憎み続け 他者の「弱さ」を憎み続ける (おわり)
「鬱」であれ「アダルトチルドレン」であれ、それ自体は恥でもなんでもありません。それが恥であるという眼差しこそが「恥」です。
個人として苦しんでいる状態、治療している人々、バランスが悪くなって上手く適応しづらい状態、個人がただそうなっている、というだけのその何が恥なんでしょうか?
そんなつまらない眼差しに囚われず気負わずに、自身に無理過ぎないリズムとペースで生きる感覚を大事にし、出来るだけ合った場、生きれる手段を探す、
人それぞれに状態の違いや多様性があるので、万人に良いひとつのものなんてなくても、個々の現実の限界性があっても、まずはその中での可能性を選択することでしょう。
そして「ありのまま」を過度に否定されるという状況は、毒親に限らず様々な「関係性」「構造的なもの」によっても生じます。
あるいは、相手が特に悪人とか人格に難のある人でなくても、理解力・想像力のなさだったり、「相性の悪さ」などの「組み合わせの悪さ」によっても生じます。
そういう時は相手を責めるのではなく「場」や「組み合わせ」を変えてみることですね。案外それで解決することもあるんです。
「ありのまま」を過度に否定される状況が続く場合、相手が仮に「善人」であっても人は壊れることがあるんです。※ ただこの場合の「善人」は「相手の状態」への理解力・想像力・共感力は乏しく「自身の善の観念」の「型」を押し付けていることに無自覚な観念的なタイプの人です。
ラストに動画をもうひとつ、まふまふさんのcoverで「猛独が襲う」です。