剛毅果断と事なかれ主義 「自分の頭で考える」とは?
Twitter(X)を見ていて感じるのは、やっぱりインテリ、学者、アカデミアのような人たちだけに任せていたら、社会はどんどんおかしくなる、ということですね。Twitter(X)の醍醐味、生命力は、市井の人の語りの多様さと、チャット形式のダイナミズムにこそある。
中でも「活動家と連携して動いている専門家」は党派性バイアスで物事を解釈するので、そういう人々の「もっとよくしたい」の取り組みの結果というのは、「共感されやすい属性にとっての良い」に偏り、そうでない属性は死んでもどうなっても目にも耳にも入れない(入らない)、むしろ徹底して残酷、排他的な社会・制度を作ってしまうということ。
ではここで一曲紹介♪ 「熱 Netsu (33 rpm)」は、日本の作曲家 Tomoyoshi Dateが2022年に発表したアルバム『438Hz As It Is, As You Are [あるがまま、あなたのままに]』の中の一曲です。
Twitter(X)ではよく見かけますが、己が立場の優位性、知と権力の非対称性を用いて相手をねじ伏せようとする人は、大学の教授とか専門家にも結構います。
そういう人を観察していれば、その人の価値基準から見て「くだらないもの・つまらないもの」に対しては冷笑的であるし、自分と反する価値観の人には大なり小なり言葉尻を捉えたり、言葉の裏ばかり読んだり、藁人形論法も使っているし、疑似相関で雑に理屈付けしたりもよくしています。
その手のものは「専門家」が使おうが「素人」が使おうが「同じことをしている」のですが、「誰がそれを使ったか」で同じことをやっても一方は権威付けされてしまう、という非対称性がありますね。
そして「専門家」といえども、常に純粋に専門の話だけをしているわけではなく、むしろ専門外の話や、その分野の知だけではとうてい語り尽くせないことを話しているとき、その部分においては素人と同等か「それ以下」の場合もよくある。
だから専門それ自体の知や技術は信頼はしても、1専門家の「語り」を妄信し過ぎないこと。定量的な評価、物理的、科学的な事実判断であれば是非は明確ですが、
形而上の領域、価値判断を含んだ複雑な対象の場合は、同じ分野の専門家でもみなが同一の考えではないことはよくあり、全く正反対の場合もある。そういう複雑な質のものは視点や前提を変えれば異なる解釈が可能になるため、そもそも解釈を独占できないが、権威主義的な人たちはそれを独占したがる。
自分の嫌いなものを腐す笑いは健全な風刺、自分の好きなものを腐す笑いは度し難い冷笑。
— 河野有理 (@konoy541) March 10, 2024
Twitter(X)ではインテリ、学者、アカデミアのような人たちの権威主義の滑稽さがわかりやすく可視化されているので、反面教師にするとよいかと思います。むしろ変に肩書とか立場とかない人の方が、身軽さゆえにサクッと気づいて認めることが出来たり訂正可能性に開かれていたりする。
以下のピーター・ターチンの仮説も、最近は「案外正しいのかもしれない」と思えるような、そんな社会状況ではありますね。
「管理者の過剰生産」が、社会の不安定化をもたらす より引用抜粋
『アトランティック』の12月号で、コネティカット大学教授のピーター・ターチン(Peter Turchin)は、人類の歴史に関する独創的な考えを表した。
(中略)
ターチンが発見した「繰り返されるパターン」のひとつに、「エリートの過剰生産」がある。この現象は、ある社会の支配階層が、社会に必要な支配者の数を超えて急激に成長することを指す(なお、ターチンにとって「エリート」とは、政治指導者だけでなく、企業や大学、その他の大規模な社会組織の管理者全般を指す言葉のようだ)。
(中略)
エリートの仕事は、エリート人口ほど急速には増えない。米国の上院はいまだに100議席しかないが、自分たちは国政を担うに値するほどの資金や学位を持っていると思う人は、これまでになく多くなっている。「たくさんのエリートたちが同じポジションをめぐって争い、その一部が反エリートに鞍替えしているというのが今の状況だ」と、ターチンは指摘する。あぶれたエリートたちは反エリートとなり、下級階層と手を組もうとするが、たいていはうまくいかない。
(中略)
エリートたちは市民の不満を、補助金や配給によってなだめなければならない。それらが尽きれば、もはや不満分子を監視し、人々を弾圧するしかなくなる。やがて国家は、短期的解決策をすべて使い果たし、それまで安定していた文明が崩壊していく。恐ろしい予測だ。それに、世界経済フォーラムが「グレート・リセット・イニシアティブ」で提案するシナリオに驚くほど似ている。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
ほんとうに「わきまえさせれらている者」というのは声さえ出せない。出してもメディアはほとんど取り上げない。そういう属性は共感されずスポットも当たらないので社会運動にすらなれないまま抑えつけられている。
最も強い同調圧力がかかっているところでは、もはや存在そのものの透明化が生じている。
そういう日の当たらないところにスポットを当て、そこから異を唱えていくというのは大事ですが、しかし残念ながらそういうものは「票」にはならないので政治家もほとんど力を入れませんし、ニュースバリューがなく儲からないのでメディアも取り上げません。
Twitter(X)では「リアルの普通の人」があまり目がいかない部分に目を向ける市井の人が結構います。現在の進歩主義左派的な流れ、ポリコレの流れ、そういうメジャーなもの、大きなものに巻かれているだけの「大きな声」、それににかき消されている「声なき声」がある。
「大きなものに巻かれない人々」を陰ながら応援していきたいと思いますし、「透明化された弱者が悲惨な状況に追い込まれない社会・制度を作っていくこと」は大事ですね。
ですがその設計を「インテリ、学者、アカデミアのような人たち」だけに任せていたら永遠に無理でしょう。そのことが可視化されるTwitter(X)というのは、その意味ではなかなかいい仕事してますね。
自己愛と自我
自我の強さは、自己のアイデンティティや内面的な安定、現実との適応能力を指し、自己愛とは異なる概念です。自我が強い人は、困難な状況でも自己を保ち、適応的な方法で問題に対処できるとされています。この場合「自我がシッカリと確立している人」といった方がよいかもしれません。
自己愛が強い人は、自我が強いとは限らず、場合によっては自己愛の強さが自我の発達を妨げることもあります。特に青年期から成人期にかけての自己愛は、自我同一性に対して負の影響を及ぼすことが示されています。
たとえば自己愛の強い者は「自分たちの政治」しか認めない。「自我の強い人」は自分の思い通りにはならない面倒くさい多様な政治の中で他者と共にあれるが、自己愛の強い者は思い通りにならないと我慢できないので、異なる他者など無視して強引に物事を押し通そうとする。
このブログでは過去に、自我を「自然自我」と「社会的自我」に分けて考察したことがありますが、
その視点でいうならば、「誰が何と言おうと強引に物事を押し通そうとする力」というのは、「自然自我の強さ」の場合と「狂信によるもの(硬直した自己統合状態)」の場合など多様な状態がありますが、
たとえばヤクザのようなタイプの人は自然自我が元々強い人が多い。ヤクザはある意味では社会の同調圧力に相当に強いタフな個体ともいえる。しかしこの種の強さ(タフさ)はエゴ主体のもの。
そして元カルト信者たちがその体験談において、「幹部の人はまるでヤクザみたい」というようなことを語ることがたまにありますが、カルトの幹部というのはヤクザほどではないがそこそこ自然自我が強く、かつ「硬直した自己統合状態」が形成されている。
これは一般に言われる「無敵の人」とは違いますが、ある種の無敵状態になっているとも表現できます。
こういう人たちは「剛毅果断(のように見える)」に振る舞うことが出来るが、その内実は自己中で硬直した自己による「強さ」の錯覚を与えているだけ。先鋭化した活動家、お気持ちヤクザ等もこの手の「強さ」の質なんですね。
集合的な政治的主張(それはしばしば政治ではなく倫理だと自称するが、要は政治である)をその大雑把さにおいて批判し距離を取ると冷笑だと言われるわけだが、むしろそういう主張が個別具体的な割り切れなさを無視することの方がよほど「冷たい」と思う。僕はもっと温かくありたい。
— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) April 19, 2021
社会運動や何かの反対表明、体制批判等は一見すると「剛毅果断」のように思えますが、単純にそうとはいえません。むしろそれは「事大主義」の一形態だったり、党派性による権力闘争の一形態だったりします。また状況によっては社会運動に反対するほうが遥かに「剛毅果断」であることもあります。
たとえば「差別反対」と言うワードは道徳的に優位なものとして世間に承認されているので、その文脈で何か訴えれば大きな声を出しやすい。ときにそれが物事を他者を単純化していたり、その者たちの暴力や理不尽さが免除されることがある。
この「免除されること」が大きな歪を生み出していることに対して目をつぶる、つぶらせることは、その運動を行う者たちの「事なかれ主義」であり、「我々には何も問題はないし起きてもいない、仮にあっても必要悪の範囲」という「事なかれ主義」によって、「冤罪」や「人権侵害」、様々な私刑や暴力がその運動の影で行われてきた。
「我ら」と「彼ら」の基準で良し悪しを分け、己が政治を聖域化し、他者の政治を悪魔化しながら、カルト化していく。
このような群集心理の暴走において、その圧力に屈せずに「あなたたちはおかしい!」と叫ぶことはときに大きな危険・リスクを伴う。その場合、社会運動に対して反対するほうが遥かに「剛毅果断」であることもあります。
行動の一面だけみればそう見えているものが、視点を変えれば反転してしまうことはよくあり、またざっくりと同じ類型であっても個々にみていけば均一でも単純でもない。
むしろ、「あいつは事なかれ主義だ!」と決めつけて叩くような人の方が他者や物事を単純化していて、それがゆえに敬遠されている(賛同されない)ことに気づいていないという場合もよくありますね。
反転可能性、普遍化可能性、可逆性を考えずに、他者や物事を固定的なひとつのモノサシで類型化したり評価していることはよくあり、「己が見落としているものが戻ってきているだけ」ということに気づかずに、否定的なフィードバックをする他者を「敵」のように考えてしまう人は多い。
ほんと思うけど、「冷笑」批判とかしているようでは左派はほんとダメだよ。絶望的に終わってる。そりゃオルタナティブな政治も何も立ち上がらないわ。
— 千葉雅也 Masaya Chiba (@masayachiba) September 16, 2020
「自分の頭で考える」とは?
おもしろいことだが、私にはよくわかるんだよ。表面的に健康な世間において問うてはならないとされている問いを抑えつづけることはその人を病的にし、逆にそれをとことん正確に言語化することはその人を健康にするんだよ。 - 中島義道
「自分の頭で考える」という表現をよく聞きますが、そもそも本当にみなが自分の頭で考えているなら、各々の考えが大なり小なり異なってくるのが自然で、ところがそういうことをいう人に限って異論や反論を潰したがるんですね。
こういう人は「自分と同じように考えない人、自分の考えに賛同せず異をとなえる人、自分の考えに共感しない人」=「自分の頭で考えていない人だ」という感じに他者の思考を否定してきます。
「私と異なる政治的発言や態度(沈黙・中立を含む)があってはならない」という姿勢は、「他者が自分とは異なる」ということを認めない小さな独裁者。つまり最初から「個々が自分の頭で考える」ことを否定していることになるんですね。
一部のアカデミア人が素人と何ら変わらない低次元のレッテル貼りを多用したり、感情的に反射的に他者の言動を良し悪しで類型化し単純化して押さえ込もうとしたがるのは、特定のイデオロギーに固執した「意味や価値」の眼差しで他者を見ているからそうなる。
党派性に拘り過ぎると、学者も専門家も簡単に雑に他者を単純化するし、政治的に方向付けられた意味や価値の範囲で一方的にジャッジするようになる。
「私から見える他者の姿」=「他者それ自体」ではない。しかし政治的な意味と価値の領域でしか生きていない自己完結思考の人の他者認識はそこで終わる。そこから外れていくことで「他者」に出逢う。
そもそも「自分の頭で考える」とはいっても、「私」の思考には「前提」が既にあり、それは「外部」からもたらされたもの。そして「前提」には類型がある。この類型の中にはイデオロギーの質も含まれている。
そして政治にせよ価値にせよ、社会的な作用で形成され「外部」からもたらされたものなので、「私」の思考=個別性ではなく、それはどこまでも類型であり社会的なものを含んでいるということ。
「アイデンティティ」もこれに似ていて、「私はアイデンティティを感じたことがない」とか言っている人の「思考」が既にアイデンティティを内在している、ということにその人自身が無自覚だったりすることがありますが、「自分自身の考えを持つ」こと自体が既にアイデンティティを内在している。
「何者でもない」もそうで、「エピソード記憶」が存在している時点で、「私」は時間的連続性を持つ何者かとしてのアイデンティティの元型を既に有している。
「何者でもない」は実存それ自体においてはそうであるが、純粋にその状態のみで生きているのは幼児期の短い期間だけで、社会生活をおくる現代人では(重度の精神障害や脳機能の障害等が生じてる者を除いて)存在しない。
何者か(虚)として生き、それを前提にした「私」の思考(フレーム)にある程度は同化して生きている。だから社会生活が可能になるし、様々な「物語」が生まれうる。社会生活をしている以上は言語の意味世界を生きざるをえず、個を規定する内外の作用からは完全には逃れられない。
なので人は「イノセンス」ではあれない。
『「何者でもない」「私はアイデンティティを感じたことがない」という人が「自分の頭で考える」という状態』は、「疑似イノセンス」ゆえの錯覚、思い込みで、これを社会的次元で平たい言葉で表現すると「幼稚」という。
それら全てを一時的に外す、それが一時的に外れる、ことは可能だし生じうるものですが、純粋にその状態のみで生きることはできないのが人間なんですね。
おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。 – 中島義道
アーティストの社会への批判や政治的発言がしばしば「幼稚」だったり「自己矛盾」に陥るのは、疑似イノセンスがベースにあるときです。
「芸術家」はイノセンスな存在ではなく、「イノセンス領域」と「社会」の中間に位置する「媒体」であり、「媒体」ゆえに「憑依」されやすい。その「憑依」の仕方によっては疑似イノセンス主体にもなる、ということ。
しかし、創造の源というのは「私」及び「社会」を超えたイノセンス領域にあります。
存在はそもそも「社会」に触れていない(触れようがない)。社会は意味世界に存在し、本質が「虚」のため、それ自体では存在しないから。
それ自体を生きるというのは「自分の頭で考える」とは全く異なるものです。「それ自体ではないもの」=「私」がそうしているだけ。
「虚」の次元である社会に触れているものは「私」であり、社会問題、戦争や原発の問題でも何でもいいですが、こういうことの是非を考える時は誰もが「意味・価値」の領域で考えているし、それなしに考えることなどそもそもできない。
「私」の思考プロセスというのはAIにとても似た構造です。それに対して存在は直観で世界を見つめる。AIには思考それ以前の何かが存在しない。それ自体を生きていないAIは「私」同様に「虚」の次元でしか機能しない。
このように「思考の前提を超えたものは、その前提から生じた思考からは捉えられない」という構造がある、しかしこの構造に対してもさらに「前提から派生した思考でメタしようとする」ことで「前提」を超えようと試みる「私」。
それらは総じて思考=「私」の内部で無限ループするだけで、AIと同様の自己完結にとどまる。