哲学する身体 魂 / 理性 / 知性
今回は「哲学する身体 魂 / 理性 / 知性」がテーマで、ドナルド・ロバートソンの「認知行動療法の哲学」、そして「ストア派」を筆頭に、他に幾つかの哲学者を参考にしつつ、「哲学する主体」の多元性を考察しています。
ではまず、「ストア派」とはどういったものなのか?初心者でも非常にわかりやすくシンプルに概要をまとめた動画を紹介します。
「認知行動療法の哲学」の序論で「ストア哲学とは、私たちの魂を破壊しようとする人々に抗して、自己の尊厳を保つための定式」という一節がありますが、これは私の哲学的プロセスとは逆というか異なります。
同書において『CBT(認知行動療法)とストア派が最も強い類似性がある』、『CBTに最も大きな影響を与えたアーロン・ベック(うつ病の認知療法の創始者)のアプローチがストア派に最もよく見出せる』と考察されていますが、
仏教の行や瞑想にしても、「私たちの魂を破壊しようとする人々に抗して、自己の尊厳を保つため」ではないですね。ストア派と仏教には似ている部分もありますが明らかに異なる質もあります。
同書で『思考へのマインドフルネスの強調、不快な感情へのアクセプタンス(受容)、価値観に沿って生きること』の三つの中心的なテーマがストア派に見いだされることが指摘されていますが、
これはシンプルにどんな時代であれ「生身の人間」が「有限の生」を「生きて死ぬ」という普遍性、そして「身体の構造」は変わらないので、そこから生じる情動も普遍性の質がある。それへの応答を突き詰めていけば、空間や時間を超えて似てくるということでしょう。
ソクラテス派の古代哲学が現代の心理療法と関連していることは、科学としての心理学が遅々として進歩していない、ということを意味しているわけではない。
むしろ、人間が情動を管理するのに有効な多くの概念や戦略がかなり単純であり、さらにはある程度普遍であることを意味している(賭けてもよいが、もしアリストテレスやソクラテスがタイムトラベル出来たとすれば、彼らはスキナーの著作を容易に読みこなすことが出来ただろうし、彼の理論に興味深い議論を吹っかけ、引けを取らないどころかむしろ打ち勝ったに違いない)。 「認知行動療法の哲学」 序論より
「もしアリストテレスやソクラテスがタイムトラベル出来たとすれば~」のこのくだりはほぼ同様のことを考えたことがあります。テクノロジーは現代の方が当然優れていますが、人間におけるある種の普遍性に関して「新しいものが良い、新しいものが優れている」とは考えない。
認知療法はアーロン・ベックが提唱した心理療法ですが、REBT(理性感情行動療法)はアルバート・エリスが提唱した心理療法で、同書にもあるように「REBTの理論は心理学よりも哲学に由来している」わけですね。
そしてREBTのエッセンスが既にストア派において実践されていた、ということです。
「ストイック」という言葉はストア派由来といわれますが、ストア派=禁欲主義、という感じのステレオタイプで誤解されていることが多いように思います。この他に「エピクロスの快楽主義」のステレオタイプなイメージも同様です。
ゴリゴリにストイックというならキュニコス派の方ですね、ストア派の創始者ゼノンはキュニコス派のクラテスに学んだとはいえ、厭世的ではないんです。とはいえストア派も「不屈の精神」を鍛える方向性で「強くなる哲学」の方向性なので、やっぱりストイックですね(笑)
同書においてアーロン・ベックが「認知療法は主にソクラテス的方法を用いている」と明言していることが書かれていて、認知療法の登場より遥か昔、ストア派のエピクテトスは「ソクラテス的方法の治療的使用」について既に悦明しているとのことです。
ところで古代人の生活は現代より不便だったのはいうまでもないですが、エピクテトスはさらに奴隷出身だった人なので、相当に苦労した人でもあります。どうやって彼はあのように気高く不動の精神を保てたのか?
「原子論」といい古代ギリシアの知の奥行って凄いですね。「これぞ古き良き賢者」って感じの威厳と普遍性があり、今なお巨大な岩のような存在感があります。現代の人文系が全て失ったかのような「生き方そのもの」が伝わってくる。だから人は古典に向かう、そういう力があるんだと思います。
古代の哲学では「瞑想」も行われていたのですが、同書にて「スピノザ自身、ストア派主義と非常に類似した哲学的治療法の体系を提示しており、その意味において、スピノザこそが初期近代におけるストア派の後継者であるとみなしたくなる ー 認知行動療法の哲学 p 260 」とありますが、
スピノザにも深い「瞑想」の質を感じます。しかし古代哲学が持ち合わせていた「実践的性格」はやがて失われていった。そして今では人文インテリが「テキストを読む」だけの学問と化した。(まぁそれはそれで必要・重要な役割ですが。)
先ず、自分に問え 次に、自分で行え ー エピクテトス
もしソクラテスやブッダやイエス・キリストが現代にタイムスリップした場合、現代においても彼らの生き方と魂に普遍的なものを感じると思います。しかし残念な予感ですが、彼らを私刑・キャンセルしたり追放するのは、おそらく現代のアカデミア、人文系・宗教等の権威たちでしょう。
しかし私刑・キャンセルされても、彼らは生き方それ自体が思想であり魂ゆえに、言葉・テキストだけでなく「普遍的な魂」を残すことでしょう。公正世界仮説なんていうのは生存者バイアスでしかなく、「徳福不一致」なのが世の常。
あなたの哲学を説明する必要はありません。それを体現してください ー エピクテトス
「理性」以前に、「身体」そして「魂」のある哲学なんですね。理性以前に愛があり、そのうえで理性が働くから徳が育つ、エピクテトスの不屈の精神は「徳の力」ともいえますね。
まぁとはいえ現代を生きる私は『哲学する主体、哲学するとむしろ弱くなる、その弱さを体感する』という永井玲衣さんの視点にむしろ近い身体のプロセスを経ています。
これは私が哲学だけにこだわっていない多元的なアプローチであることも理由なんでしょうけど、それだけでなく、「平和」が「当たり前」と感じられる個人主義社会を生きているからでしょう。
様々な面において現代人は古代人より遥かに選択肢が多い。だからアクセプタンス(受容)という徳が育たず、物事が自分の思うようにいかないと不平不満や怒りの感情に支配されやすい。死や苦痛が過剰に遠ざけられ管理された社会において生の有限性は自覚されにくい。
有限性より無限性にむかって意志が拡散し、個人的相対主義に向かっていく時代の流れにおいて、「思考の過剰さ」は「弱さ」を含めた細部・枝葉末節に際限なく広がりエントロピーが増大していく。相対化によって個々の解像度は高まったとしても、有限な人間存在の普遍性は逆に脆弱化していく。
永井玲衣さんインタビュー より
「問い」というのは「私」から引き剥がしてくれるだけじゃなくてみんなのものにできるというところがいい
「悩み」だとその人の悩みをみんなが「聞いてあげる」という形式になるけど、これは「問い」だとすれば問いの元に皆が集うことができる
「対話をしていくうえでたいせつにしていること」
身体的・心的・知的安全性があるか、そこから探求が始まる.. じゃないと探求はそもそも育たない
「対話」というものが理性偏重主義的に言語とか理性みたいなものとして考えられてきた中で、そうではなくて身体とか感情を伴うような営みなんだということを示唆しているからこそ、そんなことをいうのだと思うのです。
対話って言葉のやりとりってイメージが強いですけど.. 誰かが隣にいるっていう感覚も身体的な感覚じゃないですか..
私の内部の言葉はふいに私を襲い、私はそれを予見できない。それが語るとき、私は自分をその話し手とは呼びえず、私はその聴き手になってしまう。自我とは内部の言葉の最初の聴き手なのだ (ポール・ヴァレリー)
永井玲衣さんの「対話」は身体を伴ったものですね。あと、「身体的・心的・知的安全性があるか」というこの確認って大事ですね。いまやSNS(特にツイッター)なんて最も対話や探求にふさわしくない場になっています。
とはいえ現代の日本は人類史上最も治安が良い国のひとつで、平均寿命は長く、食生活は豊かで便利で、2000年以上昔の時代を生きた賢者たちの生活とは比較にならないほど快適で便利で清潔で安全でしょう。
まぁそんな昔を持ち出すまでもなく百年前とも比べても圧倒的に豊かで快適で便利で清潔で安全でしょう。「恵まれた近代社会を生きている前提があってはじめて説得力を持つ思想」というのは、長いスパンでみれば「脆弱で軽い思想」ともいえます。
仮に日本が戦火に飲み込まれ「平和」な日常が根底から壊れ「当たり前」が崩壊するなら、豊かさと自由さゆえの「脆弱で軽い思想」は一瞬で吹っ飛ばされるでしょう。
しかしそうなってもなおゼノンやセネカやエピクテトスやソクラテスの問いや言葉は生命力を失わないどころか逆に魂に響いてくるでしょう。彼らは「身体的・心的・知的安全性」があろうがなかろうが関係なく「生き方それ自体が思想」だから。
熊本地震でも壊れなかった加藤清正の「宇土櫓(うとやぐら)」のように、時代を超えて大きな揺らぎにも耐えうるものというのは、それだけの叡智を宿しているんですね。しかし「脆弱で軽い思想」は一瞬で崩れ去る。
「ゼーレ(魂・霊)」が『「私」の「心理」』に置き換わるまでに軽く薄く脆弱になった現代において、「私たちの魂を破壊しようとする人々に抗して、自己の尊厳を保つため」ではなく、
むしろ自己の辛さからの逃避として、防衛機制の「知性化」が哲学的な型として現れているというケースも多いのではないか?と感じますね。
知恵なしには魂は病む ー セネカ
古代哲学にあった実践的性格は、その後の哲学には失われています。「哲学について語る」、「テクストを読む」という学問になった。「学問として哲学を学ぶ」というのと「認知行動療法の哲学」「生き方としての哲学」は質が違います。
そして哲学といってもソクラテス、ストア派、スピノザ等と、ドイツ観念論(カント、ヘーゲル等)は質が違うし、それ以後の現代思想の哲学とも異なります。
また「学問として哲学すること」にも両義性があります。「知的に優れているかのように見せたいため」とか「勝ち負けのような競争意識」、そういう「理性なき知性」が「承認」の次元で哲学にハマってしまうと「哲学すること」で逆に病んだり、
ネットスラングで表現すれば「ジャーゴンを纏ったスノッブ」みたいな感じになってしまう場合もあるでしょう。
とはいえ「言葉」って本質は呪術の一種ともいえるので、その意味では世の中は「ブランディングに成功した権威ある呪術師」と「B級スタンド使いみたいにふるまうしかない呪術師」がいるだけともいえます。
理性と知性のバランスだけでなく、「知識だけあって知恵がない」なら人生を生きていく上でのバランスが崩れるように、そして学ぶことそのものを愛する気持ちがなく何か別のものが欲しくてやってるだけなら学ぶことは続けられなくなるように、バランスって大事なんですね。
だから本当に宇宙人のような特殊な人はむしろ「学問としての哲学」なんて続けられないと思うんですね、日常生活・社会生活とのバランスが全くとれなくなって社会で生きていけなくなるだろうから。
何十年も「学問としての哲学」を続けるような人は、どれだけ変わった人のように見えても理性と知性のバランスがあり、「勉強が好きな人」なんでしょう。
「中島義道氏インタビュー第1回 “人生に”入門”がないように、哲学に入門なし”。」 より引用抜粋
学問に対する興味と、自分の人生をどうしていくかっていうこととのバランスがうまく合えばいいんですけど。主に、人生の悩みを解決しようとしてやってくる人に対しては、私は人生の教師ではないので、答えは用意できないですよ。
(中略)
人生と哲学とが、ごちゃごちゃになって哲学の道に来た人が、哲学に失望して、途中でいなくなってくれれば、それでいいんです。哲学の方に行ってもよいとも思うけども。あるいは、哲学でなくてもいい。きわめてプライドが高いから、例えば東大の大学院試験や司法試験に受かれば、それで救われるんですよ。つまりみんなから尊敬される職業とか、地位を得ればいい。
(中略)
だから所謂、“承認”が欲しいのでしょう、自分が知的に優れているという承認を望んでいる人が多いわけ。でも、そうした虚栄心もしくはプライドと、“純粋な知的興味”は違うわけですよね。
(中略)
私はかなりいい加減な人間だから、本を書けるんですが、もの凄く真面目な人が私の本を読んで、そこに書いてあることを文字通り信じちゃうと、生きていけなくなるわけですよね。
(中略)
哲学にはね、“名前の持っている響き”があるんです、吹き溜まりって言いますかね。最後の最後に“そこ”に行くという感じ。哲学を学びたいと言うと、親が嫌がる理由もそこ。宗教とか哲学っていうのは、なんか最終的に、人生というものに全部絶望した果てに行く感じがあるじゃないですか。芸術もそうかもしれない。その発想だと、もうそこにいったら戻れない。もちろん、プラスの価値もあるとは思うけれども。私もそれに賭けてきて、たまたま今こうやって生きていますけど、やっぱりそういうギリギリのところがある。
(中略)
やはり、勉強そのものが好きな人が続きます。
(中略)
でも、どこにも勤めずに、家に閉じこもったまま、“敗者復活戦ですべてを得よう”というのは、ギャンブル的なものであり、なかなかうまくいかないでしょうね。
(中略)
哲学ですべてを、という風に考えない方がいいわけです。いつでも(哲学を)捨てる覚悟でいるのがいい。「もともと勉強が好きだから」とか「難解な問題を考えるのが好きだから」というくらいの発想で取りかかる人の方が長続きしますよね。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
話を戻しますが、「魂」の生命力が脆弱ゆえに「心」そして「気持ち」が始点になり、「身体的・心的・知的安全性があるか」という確認が大事になるんだと思います。
知恵を失い魂が病んでいるがゆえに哲学的な問いが生じる、そして「哲学が始まるための哲学的な問い」という前段階としてのプロセスが必要なのが現代、ということですね。
「魂」は「私」の背後に存在し、世界を見つめている。それは「社会」には属していない何かで、初めから終わりまでずっと生を見つめている。そこには性別がなく、それは物質でも精神でもない、動物でも物質でもない何か。
「日常」は昔と比較にならないほど変わっても、病や死は避けられないのは同じで、精神の危機にあるときは再び古代の叡智がリアリティをもって問いかけてくることもあるだろう。そして「哲学が始まるための哲学的な問い」が起動する。
人は誇張し、想像し、予期して、苦悩する ー セネカ
ただ芸術にせよ哲学にせよ科学にせよ他の分野にせよ、有名無名にかかわらず多様な考え方の人々が存在しますので、『いつでも(哲学を)捨てる覚悟でいるのがいい』というスタンスはちょっと勿体ない感じがしますね。
「哲学」というのはかなり広範囲に及ぶ概念でもあるので、それを丸ごと捨てるのではなく、特定の「哲学者」とか「専門家」に拘るのではなく、過度に期待したり執着して何かすべてを教えてもらおうとか得ようとかせず、いつでも捨てる覚悟でいるのがいい。
まぁ対象が人なので「捨てる」という表現は乱暴ですが、「ひとりの先生や人物に依存し過ぎない、拘り過ぎない」ということですね。先生だって過度に依存されたり期待されたりして逆恨みされるのは大変でしょうし、忍耐の限界はあるでしょう。
「学ぶ側」のほうに何か根本的な問題がある場合はまずそれをどうにかした方がいいでしょうけど、ただ「人が変わることで変われる」というタイプの人もいますし相性もあるので、そういう意味で「諦めること」が肝心です。
「無知な人は不幸に遭うと他人を責める傾向にあります 自分を責めることは成長の証です ただし、賢者は他人はもちろん自分も責めません」
「自分がどうなりたいかまず自分自身に問え しかる後しなければならないことをせよ」 ー エピクテトス
ではラストに、「諦めること」の意義について名取芳彦 和尚が語る外部サイト記事を紹介します。
多くの人が知らない「諦める」の本当の意味 悩み、苦しみを減らす「仏教の智恵」」 より引用抜粋
日本語で”諦める”は放棄、断念、ギブアップなど、マイナスイメージで使われることが多いと思いますが、漢和辞典で「諦」を調べると悪い意味はひとつもありません。〔つまびらかにする。いろいろ観察をまとめて、真相をはっきりさせる。まこと〕
さらに仏教語ではsatya(サティア)の訳語として、真実、真理、悟りを意味する素晴らしい言葉です。
諦の意味は日本語では「明らか・明らかにする」に近いのです。実際に日本語の「諦める」と「明らか」は言葉として同源。物事の真実の姿やありさまを明らかにすることで、やっと諦められるというニュアンスを、もともと含んでいました。
ところが、日本語ではいつの間にか「明らかにする」という大切な土台がゴッソリ抜け落ちて、望んでいることを途中でやめるという意味ばかりで使われるようになってしまいました。もったいないと思います。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 多くの人が知らない「諦める」の本当の意味