道徳・倫理の矛盾と科学的検証 「善悪」は多数決・力関係で決まる?
まずこの「道徳」や「倫理」のテーマにおけるアンチノミー(二律背反)、そして次に「外発的な動機づけ」や「場の力関係」で変化する『「道徳」や「倫理」とされるもの』の不確実性・相対性に関して考察しています。
カントの義務論(道徳論)で言われる「道徳の普遍性・絶対性」や「道徳教育」、結局そこには「主観と客観」に関する西洋二元論的な思考の限界が感じられ、そして同時にその認識の根底(無意識的な条件付け)には「キリスト教的な集合的無意識」が存在します。
「カント – Ne」 より引用抜粋
「友人が殺人鬼に追われていて、匿ってくれと頼まれたのに、『嘘をついてはならない』という道徳法則に従って、追ってきた 殺人鬼に友人の居場所を教える」のは、正しいだろうか?
(カントは正しいと言う。「嘘をついてはならない」というのは、完全義務であり、絶対に守らなければならない道徳法則である。
確かに『聖書』も「偽証するな」と命じている。しかし、それはそんなにまでして守らなければならない「絶対的」な規則なのだろうか?
また、『聖書』の「殺すな(見殺しにするな)」という命令に反しないのだろうか?)或いは、また、「愛国心に基づいて、兄を殺したドイツへの戦争に行くか、
それとも隣人愛の精神に基づいて、年老いて身寄りのない母の許に留まるか」(サルトル)といった、相反する二つの命令が課された状況で、一方を選ぶ理由を、カントは与えているのだろうか?
2 「友人が困っているから助けたい」と私が思ったとき、私はその友人が好きだから助けたいと思うのだろうが、カントに言わせれば、「好きだから」助けるという行為は、不道徳である。
「好き」「嫌い」といった感情は、道徳的行為の原因であってはならないのだから。この点に関して、カントの歳若い友人でもあった詩人シラーは、こういう詩を作って風刺した。
「僕は進んで友人に尽くしているのだが、悲しいことに好きでそうしているのだ。そこで僕はしばしば思い悩む、自分は有徳な人間ではないのだと。」
「そうだ。他に方法はない。君は努めて友人を軽蔑し、しかる後に義務の命ずることを嫌々ながら行うことだ。」
これはやや皮相な批判かも知れないが、感情や自己愛はそれ程「非理性」的なものなのだろうか?
こういう問題(感性と理性の矛盾とか、道徳的命令の対立とか、「絶対」とか)を、もっと正面から考えたのが、ヘーゲルである。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ カント – Ne
○ 関連PDF ⇒ カントと悪の問題
「力」で一方的に動機づけられる善とか悪
「道徳」や「規範」というのは社会的合理性に条件づけられています。よってよって国や組織、コミュニティーなどの空間の質だけでなく、時代の変化という時間軸によっても動的に変化します。
例えば日本では、江戸から明治へと続く「通俗道徳」という概念がありますが、この「通俗道徳」が現代まで続く日本的な規範意識の基層にあるミーム、あるいは精神論を支える一つの力学になっているといえます。
「通俗道徳」 より引用抜粋
「江戸時代中後期の商品経済の展開とともに規範化されてきた勤勉、節約、孝行、和合、正直、謙譲、忍従などの、当為の徳目としてかかげられた日常の生活態度。この儒教的諸徳目は、18世紀末の石田梅岩の石門心学、19世紀初の二宮尊徳の報徳社、大原幽学、中村道三らの老農により唱導され、
豪農商や知識人による民衆教化の徳目となることで、家や村を没落の危機から救うための実践すべき生活規範として広範な民衆の日常生活に浸透していった。
また通俗道徳は、幕末以降の近代転換期に創唱された丸山教や大本教などの民衆宗教の教説にもつらなる。あるいは非合法闘争である百姓一揆の指導者とされたもののもつ自己鍛錬という通俗道徳規範が、強訴徒党を抑制してもいた。
生活規範そのものの実践が目的であるにもかかわらず、その結果としていくぶんかの富が得られるという功利性や、民を保護すべき領主を恩頼するという仁政観念との相互規定性により、通俗道徳は幕藩体制を支えるイデオロギーとなった。
しかし他方で通俗道徳の実践は、「生死も富も貧苦も何もかも、心一つ用ひやるなり」(黒住宗忠)と、心の無限の可能性をも自覚化することとなり、
ここにはじまる広範な生活者の主体的な自己形成・自己鍛錬への努力が、祭礼や遊興の制限や賭博・浪費の禁止を心がけるなど、生活や心の革新による新たな人間像を創出した。
これらの通俗道徳の実践は日常生活における人間存在そのものも変えることで、日本の近代化を根底から支えるエネルギーとなったが、しかし他方で社会の全体性を認識する思想体系には至らず、天皇制イデオロギーの土台となった」
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 通俗道徳
「通俗道徳」は昔ほどの構造力はないのですが、そのミームは現在でも生き残っています。そしてこの「通俗道徳的なるもの」が、多面的な意味・価値を持ちつつも、それは負の作用も与えます。
そしてこれは日本的な規範意識だけの作用でなく、道徳、規範、そして善とか正しさ、という価値基準というものは、それぞれに質は異なっても元々そういう性質がある、ということですね。
たとえば、子供を支配しコントロールする「理不尽な親」は「親の都合」が全てであり何よりも優先される。そしてどれだけ功利主義的であっても、その子供にとっては「何が正しく何が間違っているか」を決定する裁判官のような存在として君臨します。
そのような「善・悪」は、力関係だけで決まっています。そしてこれと変わらない原理によって、「善悪の判断や決定」が一方的になされることはこの世にはゴマンとあるでしょう。
にもかかわらずそれは「道徳・倫理」「正義・正論」「常識・良心」などという正の仮面をつけて上から語り、批判対象に負の仮面が一方的押し付けらるような印象操作をされることは実に多いですね。
「権力組織の決定」や「会社・企業・大小の組織・コミュニティーの上部の決定 」あるいは「多数決的な意志」は、それがどれだけ理不尽な力の行使であっても、外向きには「道徳・倫理」「正義・正論」「常識・良心」の顔をするのです。
そして非力な個人にとってそれは、「何が正しく何が間違っているか」を決定する裁判官のように振る舞うことが出来ます。それが「見えない悪」「上位の悪」のやり方の常でしょう。
理不尽な親だけが子供を支配しコントロールし子供の心を駄目にするのではなく、社会の中に巣くう理不尽の原理もまた、非力な個人を支配しコントロールし、その人生を一方的に駄目にしていますね。
このような意味での「善悪」というのは、そういう功利主義的な、力の優劣で決まるような相対的なものです。それは勝ったら正義で、負ければ悪という力関係で決まるものでしかないでしょう。
子供が親より強くなれば変わるような基準であれば、そういうものに過ぎす、少数者が圧倒多数に変わればスグに変わるようなものである場合も、そういうものでしょう。
例えば以下の二つの紹介記事のような現象も、そんな「ニセモノ」の原理の働きでしょう。
ホリエモンと一票の格差に見るルール皆無の日本社会
⇒ http://blogos.com/article/58980/
日本にはいまだ数多くの「村八分」が存在している
⇒ http://nikkan-spa.jp/494547
人間の認知は生物学的な制約があり、文化的・社会的に条件づけられた生き物であります。
そして「文化的・社会的な条件付け」といってもそれは様々な条件付けがあり、最も本質的なものが「生物学的制約」であり、「基層文化」がその次ですね。
関連論文・追加更新記事の紹介
○ 文化的自己観と心理的プロセス(<特集>異文化間心理学と文化心理学) (CiNii論文)
(以下 2016年 更新記事)
○ 遺伝と環境で見る気質・性格・パーソナリティ
○ 東西の基層文化と宗教と社会 差異と同一性~調和・統合へ
それではここでイギリスの動物行動学者であり進化生物学者である「リチャード・ドーキンス」の動画を参考に紹介しましょう。これは社会的合理性でみた道徳とは異なる「科学的合理性」でみた道徳の多元性の考察ですね。
リチャード・ドーキンス「道徳の問題を科学的に考える」
より普遍的な人間の心から生じるもの
より普遍的な人間の心から生じる「善悪」というものもあります。正直・公正な世界共通の人間の良心と言ってもいいかもしれませんね。
2020/1 追加更新で、外部サイト記事の更新です。とても興味深い研究結果です。
「ヨウムの「無私無欲の行動」 進んで仲間を手助けか 研究」
より引用抜粋【1月10日 AFP】困っている他者を助けるための無私無欲の行動は、哺乳類、特に人間や大型類人猿などだけに見られる特性だと、長い間考えられてきた。
だが、アフリカに生息するインコ科の鳥類であるヨウムは、近しい関係にある仲間や「顔見知り程度」の相手にも自ら進んで手助けをすることが、最新の研究で明らかになった。
自身の利益が期待できない場合でも、こうした行動を取るのだという。研究論文が9日の米科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に掲載された。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
「自然な良心」というものはどこから生じるものでしょうか?それに関する追加更新記事を以下に紹介しておきますね。
○ 道徳とは? 心・精神のバランスの生物学的考察 進化の意味と宇宙・自然の法則 (2015年7月 更新記事)
「自然な良心」、そこには偉いとか金持ちだとか関係なく、権力も国も宗教も関係ありません。そういうものは、人間がまだ文化的・社会的条件付けをされていない子供の頃には、誰でも感じるものかもしれません。
そして大人になると、「善・悪」には「都合・条件」が混じってくるんですね。それが社会的合理性の作用です。以下にそのことを表した素朴な例を書いてみました。
あるインドのバラモン階級の家族には4人の子供がいました。ある日、その内の3人がそれぞれ違う場所で殺されてしまいました。
両親の前には無残にも五体バラバラにちぎれた3人の子供の遺体が並べられてあったのでした。両親の怒りと悲しみは凄まじく、
その犯人を同じ目にあわせてやりたいという気持ちで一杯でした。悪は裁かれるべきだ!と断固たる思いに満ちていました。
そこに犯人が現れました。犯人は3人いて、それぞれが違う理由で1人ずつ子供を殺し、合計で3人が殺されたのでした。
最初の犯人はこう言いました。
「異教徒のお前の子供が我らの聖なる神を冒涜した。だから神の名の元にお前の子供を1人殺した。私は罪人ではない、彼こそ殺されるべき罪人である」 と言い捨てて、組織の従者と共に悠々と他国へと立ち去りました。
次の犯人はこう言いました。
「私は兵士である。国家のために敵国のお前の子供を1人殺した。これは戦争であり、私のしたことは犯罪ではない。」と言い捨てて軍のヘリで悠々と他国へと立ち去りました。
次の犯人はこう言いました。
「むしゃくしゃしてたのでちょうど目の前を通ったお前の子供を1人殺してやったのさ」その男はスグにつかまり処刑されました。
そしてインドのバラモン階級の親は言いました。こいつらは全員犯罪者だ! このような悪は断じて許せない!と。
だがその親は、以前にカーストの奴隷階級の女性の口答えにカッとなり、その女性を犯した後に嬲り殺したことがありました。
しかし彼の行為は「その社会では公的に悪とされるものではない」ため、勿論それは罪には問われず、周りからは「奴隷の不正を正した」とむしろ評価されていました。
彼は一人残った子供にこう言いました。「世界は彼らのような善にみせかけた悪に満ちている、お前は私のように世間から認めれた真の善なる道を歩むのだ、いいな!」
脳はどうやって倫理的判断を下すのか/レベッカ・サクス
愛する人や赤の他人の動機、信念、感じ方などについて感覚的に理解できるのは、人間の天賦の才能です。でもどうやって?
レベッカ・サクス は、脳がどのように他人の考えについて考え、そしてその行動に判断を下すか に関する、魅惑的な研究結果について話します。