お気持ちエビデンス・共感エビデンスと怨念クラスタ
今年も早2月になりました。想像を絶するタイミングの新年挨拶ですが、「あけましておめでとうございます」、去年そのままだった幾つかの下書きのままの過去記事に追加編集を行い、数記事を連続的に更新しました。
今年2020年は鼠年ですね、そういえば新型コロナウイルス肺炎、正式名称COVID(コビッド)―19の病原に「竹鼠」「センザンコウ」などが挙げられていましたが、まだ明確にはわかっていないようです。
鼠年に新型ウイルスが感染拡大、やはりこれは「竹鼠」と深い因果関係がありそうです(嘘です。)
しかし「竹鼠」、あいつはなかなかの癒しキャラですね。気に入りました。コロナより竹鼠が気になって仕方がない、珍獣好きの管理人です。
しかし、竹鼠の動画を探すと、ニンゲンたちが焼き鳥みたいにして竹鼠を食べてる動画ばっかりで、残念です。
中国の食文化をたとえたたものとしてたまに耳にする「4本足のものは机と椅子以外、2本足のものは家族以外、飛ぶもの
比喩としてはなかなか面白いですし凄い消化能力とは思いますが、残念ながら「神農」以外そんな神的能力は人間にありません。「何でも食べる中国人」という神話的イメージな実際かなり違います。
〇 中国の野生動物取引はどうなる?「なんでも食べる中国人」は神話
ではまず一曲♪ Aimerで 『春はゆく』
前置きが長くなりましたが本題に入ります。
「迷惑」という言葉が世間ではよく使われますが、「迷惑」には多元性があります。例えば札幌のスプレー缶大爆発のように、明らかに基本的な知識が欠如している、という無知から大事故を引き起こしてしまうタイプの迷惑、
そして仕事において、その仕事で求められる基準に対して全く使えないレベルゆえに、他者や組織に様々な負担を与えてしまう「無能さ」による迷惑があります。
この無知と無能さゆえの迷惑以外にも、妄信、狂信から生まれる迷惑、例えばカルトがあり、権力者・権威的存在の傲慢さ・横暴さによる理不尽な自己中心性、パワハラ、アカハラのような上から下への迷惑もある。
そして暴力団や半グレ、犯罪を生業とする者達による迷惑もある。また犯罪を生業としているわけではなく、上下関係にも関係なく、人格の異常性よる多様な他害、などの迷惑も存在するわけですが、
だたこの手の迷惑は今回はスルーです。法律や明文化されたルールに反する迷惑行為、合意形成のある迷惑だから。
今回テーマにするのは「お気持ちエビデンス」と「共感エビデンス」です。似た概念として巷で「感動エビデンス主義」という言葉がありますが、まぁこれはよく知られている迷惑の一種のため省略。
「お気持ちエビデンス」というのは「私がそう感じたからそうだ」です。
個の主観次元にとどまる主張なら別によいですが、これだけをもって他者を社会的に断罪する、善悪を規定し、他者にそれを課す、とかになる場合、「感動エビデンス主義」と同様に「迷惑」化していきます。
それが客観的な事実確認なしに公的に認められる、ということは「手続き的正義」に反し、不公正で不平等でもある、わけですね。
「客観的根拠もなく主観で断罪する側」にそういう裁量権があるかのような非対称性、
被害と加害の客観的な事実確認・事実判断も不十分、そもそも是非を決定する価値基準の前提も曖昧なまま、「裁く者と裁かれる者」が属性によってあらかじめ決まっている、かのような非対称性、
このような何も明確化されていない上に意形成もない「お気持ち越前の守」に、アドバンテージを与えることは不要です。
今回テーマにする迷惑は、『「○○は迷惑!」をどんどん生み出すことそれ自体が「迷惑になっている状態」』という「迷惑感」の拡大、そして「共感エビデンス主義」と私が呼ぶ新たな「迷惑感」の拡大、
この二点がメインです。これは法律や明文化されたルールに基づく「迷惑」と異なり、
明確な事実確認も合意形成もなく、「個々の迷惑感」から善悪の区分けをして、主観と感情と共感だけで一方的に対象に是か非かの価値を「本人の都合」に応じて付加していくものです。
個々の感じ方、捉え方で不快とされた何か、個々の千差万別の「迷惑感」から、ボトムアップ式に社会構築されていく「迷惑」の多様性によって、価値多様性は逆に排除されていく、という迷惑な話です。
「個々の傷つき」を意識化し多様化させ、「個々の被害者感情」を意識化し多様化させ、「迷惑」を意識化し多様化させ、多様な「配慮」を意識化し多様化させ、
それらを社会構築し現実に具体的に展開していくという方向性は、「コストが足りない、社会的資源がないから難しい、構造を変えないと難しい」という「理想と現実の問題」というより、
それ自体が既に「互いを相殺し合う構造」をもっているパラドックスです。
何故ならそれは同時にどんどん「加害者」「特権を有する者」を多様化させ、「傷つける他者」を多様化させ、「何かズルい的な否定的対象」を増やし続け、
「容疑者的なる者」を増やし、「悪者的なる者」をどんどん追加で構築するため、その先にあるものは、「人間に許されるもの」「承認できるもの」の範囲を狭め続け、
当然その結果、「許せない範囲」「承認できない範囲」が増大していくので、「裁かれるべきもの」「認めれない他者・表現」が増え、異なる他者への耐性の閾値を下げ、他者への敬意・信頼を喪失し不安を増大させるのです。
「違反・不満・不安の種類を増やし続けていくことで、違反者と不快な者そして嫌悪感・不信感を増やしていく」というのは、「全方向への裁き・否定ループ」まっしぐらで、相互否定ばかりの不毛な不安社会に向かいます。
「事実としての世の中が悪くなった」のではなく、「これは悪い」の判定範囲をどんどん細かくして拡大し続けることで「どんどん悪くされていく」から「悪く感じる」という滑稽なパラドックス、
ですが多くの方々がこの潔癖性の悪循環にドップリとハマっていくわけですね。
これは「見られる側」としての「事実」の方ではなく、「現実を見る側」の解釈バイアスの「否定性」が強化されていく流れに比例して、「事実に対する心象」がマイナス方向に肥大化していくわけで、
それを現実に自己投影するからますます現実は減点され続け、「どんどんそう見えてくる」という無意識的なパラドックス構造であり、
「自らのしていることで世の中がそうなっていく(そうみえてくる)」ことに気づかないと、止まることができない性質のものなんですね。
そうして形而上の「違反者」「検挙者」が増えていくので、共感エビデンスによって人々の「怒りの感情」「他責・他罰思考」も正比例して肥大化し、やがて相互監視、相互告発、のような不信社会に向かいます。
相互不信が強化されるから安心を過度に求める社会になり、安心を求めるから不信がまたさらに強化されるという無限ループなんですね。
「お気持ちエビデンス」は「私がそう感じたからそうだ」ですが、
「いや、あなただけではない、私もそう感じた」の共感の広がりで、「私ひとりではない、私たちがそう感じるのだから間違いない」の確証バイアスを前提にするのが共感エビデンス。
「事実としての世の中が悪くなった」のではないのに、
集団錯覚からの自称正義の思込みの義憤で、「世の中をもっと良くしよう」的な意識高い人々が、『「世の中がどんどん悪くされていく」のに比例して「よくしよう」とする』ことで、さらに「これは悪い」の判定範囲をどんどん細かくして拡大し続けることに貢献し、自称:聖戦の地獄ループに陥る。
その構造の維持継続の結果、「否定的対象」をあまりにも徹底的に排除する己が思い込みの正義心は、遂にカルト的な他者への断罪と排他性に向かっていくわけですね。
そんなことをしながら「多様性に配慮を」とかいっても、そういう方向性は実現するどころか、ますます多様性は失われ、
あたかもそれは、「ガチガチの校則を守り切る潔癖症だけが善人とされるような、(観念的な)真面目&良い子の修羅社会」となり、究極に不寛容で他責・他罰的な超潔癖・規範社会になっていくでしょう。
そして「潔癖な正しき観念に一元化した思想ヤクザ」が、グレーで多様な主体性を持つ人々を粛清する時代が到来します。
「正義であれば何でもできる!」精神論2.0の時代にようこそ!
価値多様性は異なる他者との共存、つまり「不快」「迷惑」を前提としています。「おおらかさ」とは、「迷惑を迷惑と思わない感性の領域が広く存在する心の状態」のことであり、
また「感性の状態としてのおおらかさ」は、その人の生きてきた過程で自然とそうなった場合や、性質・気質にも由来する先天性を含むものですが、
それがない場合でも、正しさや価値は一つではなく、物事には異なるロジック・合理性がある、という視野の多角性があれば、「認知的なおおらかさ」は学ぶことによっても生まれます。
不寛容化で「あれも汚いこれも汚い、あれが不快、これが不快」を増やし強化していく先には、日常のあらゆるものがバイ菌の温床に見え、強迫観念的な清潔主義になっていきます。
「ネガティビティ・バイアス」を強め、人間の「損失回避性」を刺激し続け、潔癖なまでの「ゼロリスクバイアス」の強化に向かっていくわけです。
ゼロリスクバイアス (Zero-risk bias)
ある問題の危険性を完全にゼロにする事に注意を集中し、他の重要な問題の危険性に注意を払わない。ネガティビティ・バイアス (Negativity bias)
ポジティブな情報よりもネガティブな情報の方が、行動に強い影響を与えるバイアス引用元 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html
この方向性へ強硬的に向かう場合、共感ポピュリズム運動によって仮に一時的にはそれを達成できたとしても、遠くない未来に「殺し合いの地獄界」が始まるでしょう。
この手の過剰配慮の「綺麗事達成」は、一部の者が独占する快適な生を、遥かに多くの「持たざる者たち」の生が下支えする底辺拡大化を加速させるんですね。
そして様々な悲惨な現実には蓋をして、世界に向けて「正しさ・美しさ」の印象を高め、好感度を上げそうな良い話・良いニュースを感動エビデンス主義者特有の恍惚な表情で語り続けるが、
その手の表向きの政治的方向性だけをバイアス強化し、さらに統計で優位に見せることで、上っ面だけで「世界様」から承認されホクホクしていても、
複雑系としての多元的な現実を見ていけば、そこには様々な影、深刻な問題、がスルーされていたり矮小化されていたり都合の悪い声にはスポットをあてなかったり、
それらの「偏った前提」ゆえの、「自身にとって都合がよくなるようにこう見せたい」の「政治版P値ハッキング」のからくりが見えてくるのです。
「ポリハラ」というグローバル道徳による異文化・多様性への同化政策は、形而上の植民地化であり、
クレーム攻撃・告発攻撃をメインのスタイルにした被害者型同化政策は、綺麗な言葉や正義の装いをしていても本質は、「目には目を歯には歯を」で「集団的モラハラ・集団的パワハラ」をしているだけで、
「モラハラもみんなでやれば怖くない」でポリハラを行う者たちの姿は「無敵のニンゲン」でもある。そこで無差別に刺されるのはヒトである。
たとえば性の問題に関してですが、「陽の性欲」を過剰に抑圧化するのは、「陰の性欲による形而上の逆レイプ」であり、「逆魂の殺人」として魂の殺し合いをすることでしかなく、
その結果は根源的な次元にまでヒトの去勢化を推し進める。性欲は善でも悪でもなく、男女関係は弁証法的に発展させるようなものではなく、本来どちらも最初から肯定されているものです。
ヒトは最初から在ることを許されている生き物であり、陰陽的な差異はどちらもが必要な質的差異で、それは「不自然」に向かうのでなければ極自然と調和性に向かうものです。
ルソーが「人間不平等起源論」の中で想像的に設定した原始状態のヒト、「自然人」は、ヒトの要素の一つではあったでしょう。性もヒトも良い悪い以前に大地に根差すものだからです。
しかし神は死んでもキリスト教的なミーム型は未だ西欧精神に宿り、形だけ変化しながらヒトとニンゲンの分離・対立構造を深めていくわけです。
「自然なるもの」と「社会的なるもの」、形而上、形而下で互いを戦わせ分離化し分断化させ、かつて「ただヒトであったインディアン」にそうしたように、今もなお別の形でそうするのです。
「ただ在ること」を許されていたヒトが、本来のイキモノとしての存在の平等さ・自由さ・愛を失い、過度に分離的な存在として社会構築化された「ニンゲン」に矯正される。
そしてニンゲンは、理想的な社会の構造の裏・下には「不可視化された存在(無意識)の排除」があることに気づかないまま、イビツな平等、イビツな自由、イビツなニンゲン愛を、善や正義だと思い込む。
そして「愛こそはすべて」と歌いながら愛を見失い、自由・平等・博愛を掲げながら殺し合い、奪い合い蹴落とし合う。西欧は未だその方法しか知らないのに世界の最高精神を自負したがる。
「我らが価値基準を受け入れない外集団は敵であり反知性であり獣であり蛮族である!」のマインドを、形を変えて今もやり続ける者たちが根強い。
だが「白人コンプレックス」は見た目だけのものではない、形而上においても、欧米が上、アジアは下、というコンプレックスが深く残存している。
なので、「個の確立、主体性」が先にないまま、ただクニ・ムラや様々な保守的な伝統的な支配的物語とパターナリズムを弱体化させる結果に何が残るかといえば、
「自ら生を能動的に確立していく力もない脆弱な個の集団」が取り残されるのである。そして白人コンプレックスを残した個人がバラバラに散らばるだけ。
そのように、過去の団塊、保守の共同体的団結パワーすらもなくなった結果、結局その集団は、生き残るために欧米の価値基準と支配的物語に回収されていく。
そしてニワカ出羽守と化し、「終戦と同時に手の平返したあの変わり身の早さ」を再び発揮し、欧米や海外の価値基準を新たな「お上」として、金魚の糞のごとく付いていく「イエスマン2.0」があちこちで誕生する。
「パターナリズム2.0」は「価値」の総元締めを欧米に委託しただけであり、庶民の型が「白人コンプレックス依存型 良い子2.0」に更新される。
これらの人々こそ、与えられたガムとチョコレートに容易に飛びつくあの畜群であるが、畜群2.0は、旧畜群をバカにし「我らは進歩的なグローバル人であるぞ!」と獅子吼する。
とこのように「選ばれし者」的な優越感を持たされることで自己肯定感を与えられ、アイデンティティを与えられ下を見下しはじめる畜群の蹴落とし合いは見るに堪えない。
「誰かを見下すことで自身の卑屈さから解放される」という何ともさもしい幼稚なコンプレックス体のまま、「搾取2.0」がスタートする。
そして「搾取2.0」の拡大と共に、モンスターブラックバス系のお上たちには莫大な富がさらに集中し、世界のあちこちで格差がさらに広がり固定化する。「お主もワルよのぉ~2.0」である。
「タテマエ」と「ホンネ」をうまく使い分けられるのが「オトナ」だいったことを言う人がよくいますが全く逆ですね。「ホンネ」で話しながら建設的な対話ができる成熟したオトナが少ないから「タテマエ」と「ホンネ」の使い分けが必要なんであって、そんなことを言う人ほど「オコチャマ」なんですよ。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) January 24, 2020
露悪的な過激な本音表現が個性や正直さ、のように語る人も多いですが、「ホンネ」で話しながら建設的な対話ができる成熟したオトナ、というのは、高次の防衛機制がバランスよく働いている状態でしょう。
このような状態の時は、人は白でも黒でもなく自然体(グレー状態)です。そして逆に本心とは真逆の上辺だけの建前で防衛する場合、ペルソナを無理に純白化・綺麗にみせることで、解離を生じさせ、
その不調和が反動形成でシャドーを逆に真っ黒にします。これは「不自然体」です。この両極の乖離が進むと、抑圧化された真っ黒な本音は肥大化して、反転が生じます。
そして「いきなり豹変したかのような感情爆発的事象」が観察されたりしますが、まぁこれによって本人は多少楽になることはあっても、
この時にシャドーと同化一体化してしまうと、シャドーが自己実現化され人格本体に置き換わります。シャドーを解放した時のその自由さが、低次の悟り状態となり、
「これが本当の私だったんだ!」的な錯覚を生じさせるわけですね。そして似たような低次の悟り状態の人々と意気投合し、シャドー人格同士での繋がりができると、
その場には極端に露悪的で攻撃的なコミュニティーが出来上がります。そして「何でも話せる本当の居場所」的な、ドロドロした感情で共感一体化した怨念クラスターがひとつ出来上がる、ということです。
これが肥大し先鋭化するとある種のカルト的集団に発達していきます。
このような現象は、「主体性のない受動的な生き方」で無理な抑圧をしている状態、自己肯定感が低いが虚栄心は強い状態、過剰なプライドや強迫観念、そういった心の在り方の反動から生まれます。
なので、自他境界がシッカリした主体性を持ち、「背後にあるもの」を表にだらしなく開放しない、という分別がある人は、高次の防衛機制をバランスよく使うので、
表と裏の二元分離化が極端化しない全体性で調和し、自然体でいられるのですが、表面だけを見ている「勘違い人」たちからは「無個性」と決めつけられていることも多いですね。