共感型感情公害 フンガ―の猫とウラミハラスメント

 

 

芸能系のニュースにはあまり興味ないんですが、東出昌宏さんのニュースが結構よく出てきていて、ふと「東出昌宏」と「東大出身」がなんか似ている、という以前から言われていたことを思い出しました。

 

そして東大といえば上野千鶴子氏の祝辞が過去に話題になりましたが、杏さんは昔から好きな女優さんなので、今回この祝辞に当てはめて、替え歌ならぬ「替え祝辞」を作ってみました。

 

「祝辞」ー結婚式にて

杏さんのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれたチャンスとを、杏さんを貶めるためにではなく、杏さんを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

 

う~ん、これは何だかいけそうな気がする~!

 

では一曲♪ 人間椅子で「なまはげ

 

 

前置きはこのくらいにして今回は「感情公害」がテーマです。「感情公害」というのは一般には「騒音トラブル」などで使用される概念ですが、

 

今回はこの概念+「共感」及び複数の要素が関係して起きる現象の考察で、ここでは「共感型感情公害」と表現しています。

 

以前、「イジメは人間のやることだから絶対解決できる」という薄っぺらい話をどこかで聞いたのですが、イジメは「根源的には」解決できない、何故なら、「人間のやることだからこそ」なんですね。

 

その意味で「絶対解決」はないわけですが、イジメは「起きにくくする」ための「現実的な対処・対応」のみが可能です。生き物として不可能な次元で潔癖な解決を目指すと、それはカルトと同次元の狂気にもなります。

 

イジメは「人間の一部」で「誰もが内在化する要素の現れ」であり、生き物のゆらぎのひとつに過ぎないため、生き物の次元でそれを完全になくすことは不可能なんですね。

 

そしてネットなどで、「○○なタイプの奴等がいじめをするんだよ!」みたいな表現をよく耳にします。確かに彼ら・彼女たちのいうところの「○○なタイプ」がいじめをすることも観察されます。

 

ですが、「こんな奴等がいじめをするんだよ!」という彼ら・彼女たちもまたイジメの要素から完全に開放された特別な存在ではないんですね。

 

人間はみな、「それぞれのやり方で何かをイジメる」、程度の差はありますが、誰もが「いじめっ子」の要素を心に持っているイキモノなのです。

 

なのでそれを「根源的になくす」というのは、もはや生き物としての人間を殺すこと同質の暴力的な抑圧でしか無理であり本末転倒です。

 

イジメは「こんな奴等」とよくいわれるタイプの存在から生まれるだけでなく、「社会性」「共感性」からも生まれ、「正しさ」「善」「世のため人のため」の「利他心」や「仲間意識」からも生まれ、

 

そして「優しさ・真面目さ的なるもの」からも生まれるものです。

 

その場合でも、「本当にそれと同化して無意識的に思い込んでいる場合」と、「それを利用して意識的に行う場合」もあり、イジメは変化自在の生き物です。

 

《神戸・教師いじめ》女帝Aたちに、いじめ抜かれた教員の「現在

 

とはいえ、イジメには当然グラデーションがあります。凶悪なものもあればソフトなものまであります。また対象との組み合わせやタイミングなどによって「どう感じるか」も変わるので、

 

誰もが苦痛に感じる凶悪なものを除けば、ソフトなものに関しては、人によって反応やダメージにはかなり差があります。

 

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イジメる側、過激な他害的な言動をする側が、人格障害者的な次元でそれを行っている場合、一般のイジメや他害的な言動とは質が異なります。

 

 

フンガ―の猫

 

この星にはいろんな神様がいる、トイレの神様、ロマンスの神様、それからエンタの神様である。そしてこの星にはダブルバインドの神様も存在し、この神を信仰し仕えている。

 

ダブルバインドの神様は「表現の自由と多様性」こそ大事といいながら、一元的な価値基準に万人を均一化しようと干渉し、抑圧・同化・排除を愛する神である。

 

そしてこの星の人生には大切な三つの袋(お袋、給料袋、堪忍袋)があるといわれるが、最近のこの星の給料袋は薄くなり、堪忍袋はスグに破れ、現実でもSNSでも怒りっぽく文句ばかり言う人が増え、そんなロス袋時代である。

 

そして失われた三つの袋、機能不全化した社会で目立つのは新たな二つの袋である、それは「袋叩き」と「袋小路」である。

 

不満ガス抜きの対象として選ばれし生贄が毎日のように袋叩きにされ、そして社会はあらゆる分野で袋小路に追い込まれている。

 

そして二つの袋が目立つこの星には三つの寛容(カンヨー)がある。それは「イカンヨー、アカンヨー、フカンヨー」である。

 

口を開けば「○○するべし・○○するべき」、「○○は正しい、○○は正しくない」そればっかり。

 

「三つのキ」(キハン、キリツ、キソク)を携えた「かくかくしかじか道徳宣教師」が、大きな声で「それはダメヨー、あれはヤメヨー、これはワルイヨー」と細かく他者に干渉し、「己が善、己が正しさ」の価値基準に従うように洗礼を受けさせようとする。

 

しかし「洗礼を拒否する者」「去勢が出来ない者」「気に入らない異端者」に対しては、徹底的に価値下げし、集団で追い込んで相手を変えようとあの手この手で道徳的改宗を迫り、

 

変わらない者に対しては、個人情報晒し首の刑、ネット拡散市中引き回しの刑、炎上火あぶりの刑に処すか、あるいは相手の表現(物)を形而下、形而上において電凸&焚書する方向にもっていく。

 

こうやって「邪教」「未開」とラベリングされた対象に、「正しき我らの法」を受け入れさせていく道徳的同化政策は、どんどん過激化し肥大化し、正義と理想の「我が闘争」へと向かう。

 

そして同じ口でこういう、「みんな寛容じゃないヨー、多様性が大事だヨー」「あれ?どうしたの?もっと伸び伸び自由に生きようヨー」これがダブルバインドの神様である。

 

「私的興奮」である憤慨(フンガイ)を、「公憤」というラベルに置き換えたところで、個のコーフンはやはり個のコーフンに過ぎない。立派な風にいっても所詮ただの「フンガ!フンガ~!」である。

 

この「フンガ~!」を社会的に正当化することで大義名分化するしぐさを、ここでは「フンガ~の公憤化」と定義します。

 

「あれ?興奮したんだ?興奮してるんだ?」と人からいわれると恥ずかしいし、一人で勝手に情動が先走ってる「ただのむき出しの興奮」がアニマルっぽくて何だか気まずい、

 

でも「みんなで興奮すれば怖くない」、なんか「正しさの装い」ができる、なんか「社会的で理性的なしぐさ」にもみえる、これすなわち「フンガ~の公憤化」、感情の合理化の一種である。

 

「なんてたって正義~ すてきな正義~ 正義はやめられない~ フンガ!フンガ!フンガ!」(※平成生まれはあまり知らないキョンキョンの曲の替え歌)

 

「私のフンガ―に配慮せよ!」「私のフンガ―を察しろ!」「私のフンガ―が善悪を定義するのだ!」と、フンガ―だけで他者を裁く暴君は手に負えない。

 

フンガ―は目には見えない、計測もできない、個々によってどうフンガ―するかも異なり、千差万別の気持ちのゆらぎは無限に変化し続け、「お気持ち不確定性原理」を破らなければ捉えられない。

 

残念ながら、全知全能の神以外に「個々の身体の内外環境、そして時の流れ、場との複雑な相互作用などの複雑系の力学によって千変万化する、他者の心・お気持ちの全体性」を正確に捉えられるものはいない。

 

「小澤の不等式」でも「お気持ち不確定性原理」は破れない。シュレディンガーの猫よりも「フンガ―の猫」の方がやっかいだ。何が飛び出してくるかは千変万化する他者のお気持ち次第だからである。

 

蓋を開けたらビックリ、なんと箱の中に閉じ込められていたのは「自分」の方で「猫」は外にいた、とか、「被害者と加害者が観察者次第で一瞬で入れ替わる」とか、

 

まぁそれくらいの価値反転が当たり前に起きる不確定なビックリ箱、それが「フンガ―の猫」である。

 

ウラミハラスメント

 

「ウラミハラスメント」とは、肥大化した自己の持つ価値判断と結びついた感情が、異なる価値判断を持つ多様な他者の表現に含まれる不快さを許せず、

 

個の単一の不快に終わらず周囲を巻き込んで社会化していく現象が増大していくことで、あれもこれもがお気持ちドミノ倒しされていく破壊的暴力の一種を表現した造語である。

 

多くはルサンチマンだが、必ずしもそれだけでもなく複数の力学が働いている。

 

ケンシロウですら一人倒すのに指先ひとつは必要だったが、いまや社会の組織はヒャッハー1人よりも弱くなった、「個のお気持ち一つでダウン」、触れずして「気」だけで倒される、なんという弱さか..。

 

しかし実際は「多元的な個々の不快」への「多元的な個々のウラミツラミ」は、個々は少量・微量でも累計では膨大な「ウラミツラミ」のツナミとなって対象を飲み込んでいくのである。

 

よって「力の非対称性」とか言いいつ、今や本当に強いのは「逆」。「我々は弱者だ!被害者だ!」と臆せず叫べるのは、すでにその威力・効果を十分に知っている側の特権ゆえである。

 

本当に可視化されない弱者は、叫んでも誰も聞かず何を言っても踏みつぶされるか、「特別な施設」に閉じ込められる。日陰でただ耐え続けるしかない。そこにこそ構造的な暴力と非対称性が圧倒的な質量で存在するのだが、

 

そんなド底辺弱者に目を向けエネルギーを使い手厚い支援をするより、まず自分たちの問題を優先しろ!と声高に言えることこそが「マジョリティ」ゆえなのであり、

 

「本当はマジョリティ」ゆえに、社会はそれに耳を傾けざるを得ない状況に持っていけるし、お気持ちアクションで現象も動かせる。つまりはそういう「屈強な強者」なのである。

 

そして外集団内集団バイアスを高め続けることで、外集団はすべて害集団とされ、全く耳を傾けずに「敵」としてブロックし、陰に陽に抑圧、否定、攻撃しつづけながらこう語る「なぜ私・私たちは理解されないの?」と。

 

このように「被害者意識」をマインドセットしつつ、従わない者たちを排除していく「無自覚な加害者」は、もはや運動の方向性が1方向しかなくなる。

 

「先鋭化する」というのは、「硬直し自己完結した者たちによる正しさ」の運動の必然的な結果であって、この内閉性がカルト化のひとつの力学である。

 

カルト化の内的構造性そのものは宗教・無宗教も変わらず、無神論であれ、科学者であれ専門家であれ、個人であれ組織であれ、この心的構造に陥るものは多々観察される。特にツイッターでよくみられる。

 

「きっといじめられているんだ、だって私は○○だから」という「私は○○だから論法」で自己正当化し、他者や属性に全原因・全責任を転嫁する。

 

これを、「本人への批判を逸らし身代わりにされた何かに置き換えることで自己防衛する」=「身代り藁人形御守り論法」と呼ぶ。

 

「誰も傷つかない痛まない汚れない社会」など存在しないし、これからもこない。

 

生きることは多かれ少なかれ「傷つき傷つけ、痛み痛め、奪い奪われ、支られ支え、与えられ与え、依存され依存し、利用され利用し、汚され汚し、迷惑を受け迷をかける」ことの全てを含む。

 

誰もが知らずとも無自覚でもそうやって生きている。そしてどうやっても、「誰かが相対的に多く痛むこと、支えることでしか支えられない非対称な現実」はある。

 

強者がA⇒ Bに置き換わっても、一見平等な社会に見えても、その最も低い基部、あるいは重い柱を誰かが支え、重い責任を誰かが引き受けて、何とかみなが生きている構造性は変わらない。

 

みながやりたがらないが必要なことと、みながやりたい・なりたいが誰もができるわけでもなれるわけでもないことは必ずあり、

 

これは社会だけでなく自然界、イキモノ全てにおいて、みなが等しく「気持ちよく楽しく豊か」では成立しないようになっている。

 

そして個々の能力、欲求、要望は多元的で、各仕事に必要な条件も異なり、それぞれに異なる個人と場の組み合わせパターンは、それこそ細分化すれば天文学的な質と量になっていくものなのに、

 

そこで生じる「全お気持ち」を常に均一に平等に不満なく適切に満足させ続ける、などということはできるはずもないのである。「資源が足りないだろう」なんていう次元の話ではなく、そもそも無理である。

 

社会にそれを行え、という要求は最初から破綻している。社会にできることも個人にできることと同様に、「無限」ではなく「有限」である。

 

その限界の範囲でシステムを改善しつつ、同時に自身の側で出来ることは工夫し試行錯誤し、対応・適応することをしなければ、取り残されるだけであろう。

 

「自身で工夫して何とか努力する、それができない人だっているんだ」とか、「精神論に過ぎない、押し付けるな!」という反論以前に、自身が「無理難題を他者・社会に押し付けている」ことを自覚しない。

 

不可能な次元、あるいは根本的に大きな問題を持つ破綻した要求を社会や誰かに突きつけて、「それをやれ!」というのが「別の理想論・精神論の過度な押しつけ」であることに気づかない。

 

社会も他者も無限のスーパーマンではない、ただの人間の集合であり、個々は肉体を持つ有限の存在である。

 

「自分たちには一切無理をさせるな!お前たちはどれだけ無理でも不可能でも過労死しても自殺しても、それを必ず可能にしろ!」という「精神論」+「できないなら全責任を負え!は脅迫じみた要求である。

 

集団で批判し続ければいつか国が社会が折れて、全ての条件を満たした「ひとりひとりに完全に合い、満足できるシステム」を用意してくれるだろうという過度な期待や要求は永遠に実現しない。

 

多くの場合現実は、アニメのように百ゼロの真っ白な善の化身と真っ黒な悪の化身がいるわけではない、大概は、自他の相互作用、相互媒介で起きている「双方に善悪の性質を含んだ複雑系」であるが、

 

百ゼロ思考に傾く者はそういう手間のかかる複雑な洞察をしない。何故なら「本当に変わる」ということ「本当に学ぶ」ということは「自己破壊」を含んでいるため、本質的には「嫌」あるいは「苦痛」なことでもあるからだ。

 

そして学ぶというのは「知識」「技術」だけでなく多元的である。「正義の観念に同化して人を裁く」のは簡単で、ステレオタイプの一種でしかない。

 

必ずしもそれは真面目さではないし、むしろ怠惰さであり不真面目さの裏返しである場合も多いし、観念的に真面目であろうとしているだけの素朴な素直さであることも多いが、

 

そこに含まれている無自覚な暴力性に対して、「その正義の怒りの真っ最中」にすらメタ認知し穏やかでいられることが、「真面目さ」「やさしさ」がただそこに在る心である。

 

「ただ正確な事実判断で語る」も簡単で楽、そういうものだけでは正直さ・誠実さ・公正さはわからない。そういう簡単な正直さは悪人でもサラッとできてしまう程度のものである。

 

己が正直さを盾にして、「自身を純粋善、相手を純粋悪にして徹底非難しない」のが「やさしさが在る心」である。悪が正直さを盾にすることもよくあること。

 

「全く悪のように見えない中にある悪や短所」、「一見正しくないようにみえることの中にある善や長所」が見えてしまうのが、正直さがただあるである。

 

自分は変わろうとせず、自分を直視せず、細かいあら捜しばかりしているうちに長い月日が流れ、人生を楽しく充実させるのでもなく、そのための能力や魅力にも欠け、乏しいなら乏しいでそれを補うでも磨くのでもなく、

 

「私は正しんだ!」それだけの変な意地だけ強くなって後戻りもできず、プライドだけは妙に高いくせに人の反応ばかり気にし、

 

すぐキレ、すぐにやり返し、そうやって「自己正当化と自己防衛」に始終し、無駄で不毛な時間が消費され、自身の言動の正当化のためにさらに後に引けなくなり、ますます意固地になる、という自作自演の無限ループ。

 

やがて「いちいち理屈っぽく、闘争的で、堅苦しい硬直した生真面目さだけが最後の砦として残った、カチカチに干上がったつまらない精神」が空しくそこに在るだけ、というネットの理屈老害理屈お局コース一直線。

 

己が価値基準と他者の価値基準の差異から生じた憤慨を、自分基準に同化させようと相手に全体に押し付けようとする、これは価値判断と結びついた感情の問題が極端化した「感情公害」の一種ともいえるでしょう。

 

実際、アレコレ因縁をつけて叩く人は、己が肥大化した興奮に無自覚で飲み込まれている=感情酔っ払い状態、です。

 

ただよく「騒音問題」などで事件になる感情公害のケースような、誰にどう思われようがどうでもいいほどの嫌悪・怒りの丸出しの攻撃性、という原始的な形式をとることは少ないのは、

 

他者にどう見えるか、自身の主張が周囲・社会の賛同を得やすいかどうか、の判断が働く程度の冷静さはまだあるのでしょう。