疑似イノセンスを超えて

 

 

30年近く昔の話ですが、『三宅裕司のいかすバンド天国』という、いかにも昭和っていう感じの番組名の深夜番組があって、放送は一年ちょっとくらいで終わったんですが、当時、この番組よく見ていたんですね、

細かいことは省きますが、5週勝抜くと「グランドイカ天キング」になる、という設定なんですが、「グランドイカ天キング」になったバンドではBLANKEY JET CITYとかPANIC IN THE ZUが特に記憶に残っています。

どちらもハードロックですね、PANIC IN THE ZUは女性グループで、BLANKEY JET CITYは有名なので知っている方も多いのではないかと思いますが、

「グランドイカ天キング」の時はまだデビュー前でしたが既に存在感あふれる雰囲気を持つバンドでした。

最近昔のアルバム類を整理していて久しぶりにライブ盤を聴いてみたんですが、懐かしい感じと全く色あせない生命力に驚きました、ベンジー(浅井健一さん)はやっぱり天才ですね。メロディーも詩もビリビリするような生命力があり、

何とも気持ち良いギターの揺らぎと、あの絶妙な歌い方、ちょっと別格なセンスの持ち主でしょう。

私はこれまでいろんな音楽や歌を聴いてきて、その中でアーティストによっては昔とは印象が相対的に変化していく歌や曲も結構あるんですが、BLANKEY JET CITYは存在感が全く変化しないです、聴いていたころと同じように新鮮です、特にライブの音が凄い好きです。

 

ベンジーさんに「永遠の少年」のような何かを感じる人は多いです、以下に2曲をリンク紹介。

Blankey Jet City 悪いひとたち

♪ Blankey Jet City いちご水

 

 

大人とは何か? 

 

赤子は、「生まれてきたことの責任」「在ることの責任」を背負わされることはない絶対的な受動的存在でありイノセンスの表出体、そしてこのイノセンスを解体することが大人になること、とする理論があり、

昔はよく非行問題などでこの「イノセンスの解体」という概念が使われたりしましたが、イノセンスの意味は「根源的受動性」の意味で、椎名林檎さんの「無罪モラトリアム」(ファースト・アルバム)の意味もこのイノセンスに通じるものがありますね。

ico05-005 一個の人間としてまだ社会に出なくても許されてる立場の人間。さらに「無罪」って言って、立場的にも生きてる事が許されるんだって付け足したかった。(椎名林檎)

エリクソンの概念で言えば、モラトリアム期間を終えアイデンティティを獲得する時、イノセンスが解体される、と言い換えることも出来ます。

 

 

 

生まれたこと自体は意志の問題ではなく、罪も責任もないが、社会的な生物である人間は、「在る」ということが個に完結したものではなく、ここに在りそして表現することが相互に作用し合う。

もし人が野生の虎のように大自然の中で群れずに自力で生きている生き物だったなら、知能が高いとか低いに拘わらず、イノセンスなど何の問題にもならず、人格も責任も罪の概念も一切が必要がないでしょう。

あくまでも社会的な生き物であるゆえのことであって、人は単独で生きていくのではなく、仮に見かけは「孤独で独立的で単独で働いている形式」をとっている人であったとしても、

日常・生活のすべては社会の様々な働きによって相互依存的に支えられ全体として成立しているから、

イノセンスを解体し責任を引き受けることで大人(社会的存在)になっていくのは「生き物の特性」と「場」との関係性でそうならざるを得ないわけですが、

ではイノセンスは根本から解体され完全に無くなる必要があるのか?といえば私はそうではない、と考えます。というよりも「イノセンスはなくならない」と考えます。

私たち人間は「どうすることも出来ない」ものを背負って生まれてきます。生まれてくる場・国を選べません、親も体も選べません。ただ「ここ」にある時突然に生まれてきた、そして「ここ」での生が始まり、

この環境に適応していくための教育を受け、成長し大人になっていくのです。選べない設定から「現実」を受け入れなくてはならないのです。

 

 

 

「頼みもしないのに生みやがって」っという言葉を言ったことがある、考えたことがある人は結構いるでしょうし、そうでなくても一度はどこかで聞いたことがあるでしょう。

「相互に作用し合う」の範囲において、イノセンスが過剰に侵入するようであればその働きは制御される必要が出てきますが、

個人の心の中においてイノセンスが生きていること自体は否定されるようなものではない、と捉えています。このことに関する詳細は後で書きますね。

「イノセンスが侵入する」が肥大化による慢性的で極端なものであれば、それは人格的な異常性に繋がることもあり、制御の未成熟さ、不規則さ、極端な表出、それらの程度やバランスは、自己の成熟度次第で良い方にも悪い方にも変化する、ということです。

ここで、アメリカの精神医学者ロロ・メイの「疑似イノセンス」に関する外部サイト記事を紹介です。

 

「パウル・ティリッヒの神学とロロ・メイの実存的心理療法 」 より引用抜粋

メイの独自の実存的心理療法とは、偽似イノセンスの状態のような自らの内的な力を抑圧したり回避したりしている人間に対して、その存在の力であるダイモニックなものを呼び起こし、

その力にフォームを与える自己と統合していくことによって、その人の人生の意味を実現していく方向へと自己を創造させていくことを促すプロセスのことである。

しかしこれは、別の方向から見るならば、不安の積極的利用の形でもある。メイによれば、方向性を失ったダイモニックなものの知覚が不安である(135)。

不安においては人格と統合されていないダイモニックなものが存在するため、それは人格に対する脅かしとなっている。偽似イノセンスとは、この人格を守るために不安を避ける態度であると言えるだろう。

だがその場合でもダイモニックなものは消去されず、やがて抑圧された力は突如噴出して人格を破壊することになる。

しかし、この不安は積極的に利用できる。不安を自ら体験することによって、自己を再方向づけるよう前進させることができると、メイは強調するのである(136)。

不安を手がかりにして、自己はダイモニックなものの生み出すカオスを発見する。創造が進めば進むほど、固有な存在になればなるほど、不安と罪悪感はその人にとって身近なものとなるであろう。

その人は、懐疑の中で自身の目的地を見失い、どちらに創造していくべきか見失ってしまうかもしれない。

しかし、もしもその人がダイモニックなものと上手く付き合うことが出来ているのであれば、それを自己の中に呼び込み、そして再びカオスの中で自身の運命の呼び声を聞くことができる。

ここで、『不安の意味』を締めくくるメイの言葉が再び蘇ってくる。それは自己の持つ積極面である創造性は、「われわれが不安─発生的な経験に直面し、それを突き抜け克服するにつれて発達するものである」ということである(137)。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ パウル・ティリッヒの神学とロロ・メイの実存的心理療法

 

 

世界・人・現象に対する信頼がない、基本的な肯定がない、あるいは持てないそして、「わからないもの」「どうなるか予測できない」ことへの潜在的な恐怖、失うこと=無常である世界が変化していくことへの抵抗から生じる不安

これらは世界・現象のありのままをありのままに見て事実をそのまま肯定出来ないこと、そして否定し抵抗するから生じる苦痛です。囚われとはいいますが、言い換えればありのままの事実への抵抗なんですね。

ありのままの事実をただありのままに抵抗なく観ている時、それは同化・排斥のどちらでもないありのままの現実があるだけで、それをただ認めることが生の肯定です。

 

「イノセンスが解体されない状態」は非行の問題でよく使われていましたが、例えば、大人になれない永遠の子供を「ピーターパン症候群」などと表現しますが、これも「イノセンス」と関連し、「中二病」もイノセンスと関連し、

より病的な状態「パーソナリティ障害」でも「イノセンス」が背景にある、ともいえるし、「自己愛」もイノセンスと関連します。

つまりイノセンスに関連する状態は多元的であるので、ひとくくりには出来ず、また「何らかの非行・逸脱」に対して「イノセンスの解体」を「全的な受容」でもって行うとするのは危険なんです。

「全的な受容」はあるタイプのイノセンスの解体には有効であっても他のタイプではかえって有害、あるいは不十分である場合があり、また「全的な受容」ではなく制限・条件付きの受用が有効である場合もあります。

例えば機能不全家庭のおける愛着障害の場合のように、イノセンスが受け止められる過程が損なわれているような場合、「全的な受容」の経験を通して解体する、という場合でも、

そしてまた別のタイプにおいては「そもそも無理にイノセンスを解体しなくてもいい」という場合もあります。

 

これは何らかの問題行動や逸脱・反動には「イノセンス」だけではなく、それ以外に様々なものを含んでいるために起きる矛盾なんですね。複合的な要因が合わさって表出化される現象を、イノセンスのみに原因を単一化して還元してしまうと無理が出てきます。

あくまでも現象の「一因」として働いている、という部分的な要素として捉える感覚でいいと思います。

「非行」がもしシリアルキラーやサイコパスレベルのものである場合、「全的な受容」は完全にズレています。定型発達における「愛着障害」の問題の場合にはひとつの方法として有効とは言えても、

先天的な機能的なものが原因である場合、外的な作用がどうであれ、それ以前に個の内部に逸脱行為を生み出す何らかの問題を抱えていることがあるため、「全的な受容」という外側の包摂的態度だけでは解決できない。

 

◇ 関連PDFの紹介

〇 PDF 家族の愛情を問い直す – J-Stage

 

 

ico05-005 責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。

この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私の中に置こうとする。ー「中動態の世界 國分功一郎」より

 

「私がココに生まれた原因」を「生まれる前」に持ってくるスピ・霊能系の定義は、選択の開始地点をあの世、そして原因を前世に置くことで、「自らの意志」でココに生まれ、現世は前世の結果とすることで、責任を「自分」に負わせて結果を受け入れさせようとするわけですが、

現実に基づかない原因設定をして(させて)全てを受け入れる(させる)ようなスタンスは、ありのままの事実から目を逸らすことに繋がります。

証明不可能・検証不可能で主観の域を永遠に出ることはないため、公的な普遍的真実とすることも出来ませんし、あくまで個人的信念の一種に止まるので、個人的な信念としては自由で、それ自体を特に否定も肯定もしませんが、

公的な普遍的真実として広めたり押し付けることは否定する、ということですね。誰もが確認可能な事実に基づくのであるなら、「私の身体」を生み出したものは「外」に原因があり、身体は自他分離した物理的なものであるのに対して、

「私」という主観性を生み出したものは身体だけでなく内外の相互作用であり、「私」は相互依存的な因縁によって成立するものであるために主客は厳密に切り離せない。

「私」が純粋被害者であるためには主客が完全に切り離されている必要があるが、主客が相互作用しつつ形成された全体の部分(反面)である以上、

「全体性としての私」は「何かの結果」であり「何かの原因」でもあるため、「私」に「絶対的なピュアさ・自由」は最初から存在しない、ということです。

このテーマは「実体的正義」や「手続的正義」などの社会的正義の善悪の観念とは質が異なる「実存」次元の話です。

「私」が生じたその瞬間から「私」は「真っ白」でも「純粋な透明」でもなく、既に何かが混じった混合物であるわけです。

「私」は観念に枠ぐまれていることで成立するため、既に完全な無限性・自由を失っている断片(部分)です。「私」それ自体が絶対的イノセンスを排斥した「結果」の産物なんですね。

「私」は既に絶対的イノセンスを失っている。「私」が生じる前の意識化される以前の極短期間だけ「絶対的なイノセンスの表出」は存在したんです。

絶対的なピュアさを失った「私」が根本的な無罪性を感じつつ世界に反発するとき、それは失われた絶対的なイノセンスを取り戻したい衝動が働いている、

「存在(無意識)からの問いかけ」、ともいえますね。だから人間の絶対的イノセンスは「通常は」既に解体されているわけです。

解体というのは、自我は「絶対的イノセンスから切り離された不自由さ・制限」の中に生じるということです。つまり「全体性としてみれば」完全に消失しているわけではなく、無意識の内奥(存在)に宿り続けています。

よって子供は既に「疑似イノセンス」が主体であり、疑似イノセンスが統合・昇華されることで心を成熟させていく過程でそれは解体されるわけですね。

ですが子どもの未発達の自我に生じる疑似イノセンスは普遍的な自然反応であり、子どもは絶対的なイノセンスからの影響をまだ受けているわけで、

子供の無邪気さは「存在的な疑似イノセンス」ですね。それは子どもはまだ社会的存在としての責任を引き受ける前の自然自我が主体で生きているからです。

では大人が持つ「疑似イノセンス」とは何かと言えば、それは無意識に宿る絶対的なイノセンスからの存在的衝動ではなく、

社会的自我自然自我統合・昇華が上手くいかない、出来ない時の自我の防衛反応であり、「退行」によって生じる二次的な「自我が主体の疑似イノセンス」で「疑似の疑似」なんです。

フロイト風に言えば、「幼児の持つ自然な万能感」に対する「成長後の退行によって生じる二次性ナルシズム」のような関係性・構造性のもの、ともいえます。

アイデンティティの確立に失敗したモラトリアム状態から退行した未統合な自我が「世界からの疎外感」=「被害者意識」を生じさせ、

自身を「純粋被害者」の立場に置き「世界・外部対象」を「純粋加害者」とすることで責任転嫁し、それによって自らは「責任」引き受けるをことを拒否し逃れ続ける、

このように「自己正当化のために低次の防衛機制を使って合理化する」ことが「疑似イノセンスを纏う大人」というわけです。

これもまた「自我の虚無」の恐怖・不安が背景にある逃避なんですね。これが前回書いた「疑似アジール」と結合した場合、

「疑似アジール」+「疑似イノセンス」の関係がハマると、どんどんその閉じた場の中で「疑似イノセンス」が肥大化し、自己愛性のパーソナリティとなっていくひとつの力学にもなるわけです。

 

 

 

一般的に「自由」について考える時、「消極的自由」「積極的自由」の概念で整理するとわかりやすく、消極的自由は「外的な支配・抑圧からの自由」、積極的自由は「個々それぞれの自己実現の自由」ですね。

ただそれとは異なる視点からも「自由」や「不自由」の主観的感覚を考えることが出来ます。

人は物理的な不自由さによって自由を奪われたり、心理的な不自由さによって拘束感を強め自由感を失ったりしますが、「自由に捕らわれる」ことで不自由になることもありますね。

そして「何でもありの無規定的な自由」がキツイと感じる人だっています。(いやむしろこのタイプの方が多いと感じます)

以下に、外部サイト記事で精神科医の斎藤環 氏の対談をリンク紹介していますが、「制約や不自由さを引き受けたりすることで、より解放されるっていう回路」っていう表現は感覚的にはよくわかりますね。

 

斎藤環×海猫沢めろん vol.3「アドラー心理学」にみる現代の精神医療

 

まぁ私は自由にも不自由にも捕らわれず 生きていこうと思います。ではラストに初音ミク「自由に捕らわれる」を紹介し記事の終わりとします。

 

欅坂46 平手友梨奈『自由に捕らわれる。』_MAD

 

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