対人距離と幻想 「私たち」と「あの人たち」
今日は「友達幻想」で有名な社会学者の菅野仁 氏の「ルール関係」と、「フィーリング共有関係」という概念を元に、「人間関係」「生きづらさ」と「調和」をテーマに、そして「ありのまま」と「あるべきもの」の統合の補足となる記事を書きました。
時間の都合で途中まで書いて下書き状態のまま放置だった記事を、かなり遅れて編集更新したものです。まぁブログ更新のペースに関してはこんな感じで今年は終わりそうですね。
菅野仁氏は「ルール関係」と「フィーリング共有関係」を意識し使い分けすることが、人間関係の構築において重要だと指摘してます。
■ ルール関係: システム的、役割分担的な「ルール」を基本として人とつきあうこと
■ フィーリング共有関係: 感情面や情緒面での紐帯を大切に人とつきあうこと
とてもシンプルでわかりやすいですね、そしてこれは「ありのまま」と「あるべきもの」、「自然自我」と「社会的自我」の関係性とも関連するものです。
自然自我は「ありのまま」の感性が主体の主観性で、「自然自我での共感」は「フィーリング共有関係」に該当し、社会的自我は「あるべきもの」を内在化した客観性であり、それが公的に共有されている状態が「ルール関係」に該当します。
「フィーリング共有関係」はプライベートな領域、「ルール関係」は公的な領域、それぞれ意識して使い分けることで公私の人間関係のバランスがよくなるというのは、これを逆にすればよくわかることだと思います。
公的な領域でフィーリング主体の好き嫌いだけで物事を判断したり、プライベートな領域でルールで雁字搦めにした場合、様々な問題が生じてきますよね。
そして菅野氏は、学校で「みんな仲良く」という「フィーリング共有関係」を全員に課そうとすることで無理が生じる=「友だち幻想」について語っていますが、
そもそも「フィーリング共有関係」の主体である自然自我には相性があり、よりプライベートな「好き・嫌いの感覚的世界」で、先天的な個の気質・基本性格が中心の私的世界観を形成するんですね。
誰とでも親友にはなれないし誰とでも恋愛することは出来ないように、そして好き嫌いの感覚はみな異なるように、自然自我はみな違うわけです。
「いやそれは違う!、私は地上の全ての異性に恋することが可能!そして全人類と友達になれる!」という物凄い超越ハートを持つ人ももしかしたらいるのかもしれませんが、今のところ遭遇したことはありません。
ですが「ありのまま」「自由」だけでは、相性が悪い対象へのイジメや排斥は必定なんです。「あいつ何か合わない、ムカつく、きもい」みたいな、感覚的判断だけで関係性の質が決まるような両極的世界になるので、
公的な場において自然自我が剥き出しの感覚では、親密な関係も排斥も明確に現象化する傾向になるわけです。
なので主観的事実を無視して、理想論だけで「みんな仲良くやれ」という「友達幻想」を強制されると、それはかえって苦痛になるのは至極当然なことなんですね。
自然自我というのは後天的な学習によって形成された社会的要素よりも、先天的な要素がメインになっているため、「生物学的なもの」、「動物としてのヒト(ホモサピエンス)の特質」がより顕著に現れます。
2019/9 追加更新で、「進化からみた人間」に関連するツィートを一つ紹介します。
ハーバード大の進化人類学者ポール=ビンガムによると、サピエンスは規範(norm)からの逸脱者に対して、ゴシップで悪評を広めたり、連合を組んで集団制裁を加えるように進化している(Bingham 2000)。つまり「みんなで仲良くしましょう」がクラスのルール=規範になると、仲間はずれの子はイジメられます。
— Ore Chang(EvoPsy) (@selfcomestomine) September 14, 2019
感性の関係領域で「深く受け入れられるもの」は通常は限定されているのが自然であり、(バウンダリーが凄く弱い人は除く)
それが年齢と共に自然に変化したり、経験で幅が広がったりすることはありますが、そのペースやリズムは人それぞれであり、画一的なものではないんです。
なので一方的に観念的に「合わない他者」と仲良くさせようとすると、「たまたまそのタイミングでその働きかけに適応的だった一部の人」を除き、「それ以外の人」は拒絶反応を強めて余計に嫌になったり、
アンビバレンス(両価性).を強めて、積極的にルールを破る「カウンターアイデンティティ」の形成に向かう力学になることもあります。
あるいは「友達幻想」に過剰適応し「無理に受け入れた良い子」たちは、慢性的な自己欺瞞とストレス状態に陥ることもあるわけですが、
こういう画一的で一方的なものが伝統化すると、「無理にそれを受け入れた人たち」は「自分たちもみなそうやってきたのだから」と、「その我慢と抑圧」を他者にも積極的に課す= 「負の同調圧力」になります。
なので「みんな仲良く」という「幻想」、そして教師等の理想を画一的に強制的に押し付けないことが必要なんですが、教師の「教育幻想」によってそれが個々に押し付けられるとき、
本来は「人と違っていて当然であるはずの主観領域」にまで踏み込んで、感情面や情緒面まで「みんなと同じ」を求めるような過剰な干渉になるのです。
過剰な道徳教育もそうですね、「たまたまそのタイミングでその働きかけが適応的だった一部の人」を除いて、それは「硬直した自己統合状態」を形成しやすいんですね。
そして「たまたまそのタイミングでその働きかけに適応的だった一部の人やグループ」が人として優れていて、その他は劣っている、さらに「反発する者= 悪」というような価値基準の設定によって、
それは強迫観念的な心理作用となってしまうわけです。そして「外部から付加されたキャラ設定やラベリング」が自己イメージ、他者イメージとして固定化されてしまい、そこから抜け出せなくなることもあるのです。
これらもまた「理想論によるパターナリズム」が負の作用を与えるひとつのケースです。「理想と現実の乖離」は個人の心の中だけに生じるのではなく、外から押し付けられるものとして様々な形で存在します。
「学校はみんなが仲良くなれる場所」なんていうのは幻想で、むしろ「異質さへの違和感・葛藤や摩擦」を通じて、「社会的・公的な距離感覚」を意識化する人生最初の社会的な場、という方が適切でしょう。
「人格」は個性的なものと社会的なもの両方を含んだ全体であり、「個性化+社会化」の二つの過程で形成される動的なもので、バランスが必要なんですね。
「ありのまま」の個性化のみで社会的適応力を育てなかった結果、不調和な状態となって生きづらくなったり、逆に社会化の度が過ぎ「あるべきもの」に過剰適応すると、今度はありのままの自己を見失い空虚でストレス過多な人生になったりするんです。
菅野仁 氏は人間関係について「事柄志向」「人柄志向」という二つの概念から捉えることで、「心の教育」に偏重した「教育幻想」ではなく「行いの教育」の方に目を向けさせます。
■ 事柄志向: 子供の事実的側面を見ること
■ 人柄志向: 子供の人格的側面を見ること
「人格」の全体性は「先天的な気質+キャラクター(基本の性格特徴)+社会的性格+役割性格」で構成されると考えるなら、「先天的な気質+キャラクター(基本の性格特徴)」が 自然自我の領域、そして「社会的性格+役割性格」が社会的自我の領域、と捉えることもできます。
つまり「人柄志向」は主に自然自我の領域(個人的な性格)へのアプローチで、「事柄志向」は社会的自我の領域(社会的・役割的な性格)へのアプローチ、ともいえますね。
身内的な「共同体的志向」によって、「みんな仲間」的な感覚で、 「配慮・思いやり・良心」などを中心とした「内側」に対する「あるべきもの」の教育に偏るのではなく、
学校を「家族的な場」と捉えず、それぞれに異なる多様な「他人」が集う「社会的な場」と捉え、「どういう言動をとるべきか」という「外側」に対する「あるべきもの」=「ルール関係」の方に目を向けるわけですね。
基本的に多様な者が集う場において、個々が無制限にありのままの「自由」の状態では、「気に入らない者・異質さ」を排除する、という現象が自然に発生しやすいため、
だから「ルール関係」として基本となる規律を課し、社会的・公的な対人距離の感覚を意識化し、徐々に社会的自我を成熟させていくことが必要、ということですが、
「あるべきもの」も極端になれば、「ありのまま」よりも酷い分断と排斥を生じさせることはあります。いずれにせよバランスですね。
ある場が「生きづらい」となるか「生きやすい」となるかは、システムや構造上の問題だけでなく、複合的で動的なバランスで変化する、ということです。
ただイジメ加害者の心理は多様で、学校の「ルール関係」の徹底だけでは抑えられない多様な力学が働いている場合もあるので、複雑な内因・外因には個々に対応することが必要でしょう。
あるべきものは「規律」、ありのままは「自由」ともいえますが、どちらか一方ではなくどちらも必要で極端にならないバランスが大事です。
ありのままの肥大化が問題を生じさせるのと同様に、いくらルールが大事でも「あるべきもの」が肥大化すればそれもまた問題になります。
異常とも思えるような校則や秩序の要求、過剰な罰則や管理・指導、などもバランスを欠いた一方的なルール、ルール観であり、このようなものは百害あって一利なしです。
公的な関係性の場において「共通の約束事」を個々が守ることは、「不要なトラブルを起こさないし巻き込まれない」ためにあり、
それは「互いが生きやすくあるためのもの」であって、「互いが生きにくなるためのもの」ではないのです。なので上から一方的に縛り付けて支配・管理するだけが目的であるなら本末転倒ですね。
大人の社会も同じですね、心の中は自由とはいっても、外に向けた言動にはルールがあるわけです。我慢なんていらない!とか自由だ!とか何とかいっても無制限ではないのです。
人間は殆ど当たり前に半無意識的に、凄い数のルールや我慢の中で条件付けられて生きています。動物も身体の有限性と能力の範囲に先天的に制限されてはいますが、人間ほど細かく行動の条件付けはされていないのです。
人間の自由は制限のある自由ですが、他者がそれを守ってくれているおかげで、人間は個々の生も守られているわけで、実際は人間の自由の方が安定しているといえます。
自然界では個の自由度が高い故に、いきなり他の動物から攻撃されたり奪われたり殺されたりする確率を高めているので、総合的に見れば個体の生の安定度は低く、恐怖・危険・死と隣り合わせの不安定な生になっています。
そして人間もデフォルトは動物なので、社会のバランスや秩序が崩壊して無法地帯化すると生は不安定化します。
ノールールでも問題が生じますが、逆に権力や思想・過剰なイデオロギーなどによる過剰統制が行われる場合でも、一方的なルールの強制によって生は硬直化・分断化します。
どっちに傾き過ぎても結局は理不尽さに満ちた「生きづらい場」を生じさせるんですね。だから「社会的自我」による「ルール関係」が集団には必ず必要で、同時にバランスが必要なんです。
これによって「異質な他者」に対しても、「親密にはならなくていいけど排斥や害を加えない」という「共存」が可能になるわけです。
これは「あなたの自然感情で何か気に入らない相手」を守るだけでなく、「あなたのことを何か気に入らない人々」からの否定的干渉からあなたを守ることでもあり、お互いが守られるのです。
私たちは様々な「属性」によって内集団(我々)と外集団(彼ら)に人を分けます。国、人種、性別、障碍の有無、学歴、収入、年齢、世代、経歴、出自、など、それが何であれ、
個人に付加された属性のみで優劣を一方的に区分けしたり、「私たち」と「あの人たち」に分断することによって、存在の全体性が蔑ろにされ見過ごされることがあるわけですが、
「人」という属性で見れば、みな同じですね。点だけの正しさや間違いや差異を全体化せず、そして特定の基準、価値・印象の優劣だけで人を区分けして完結した目線で見ないのであるなら、人はみなとても似てもいます。
人と人との違いや共通点に焦点を当てたデンマークのCM『ALL THATWE SHARE』では、よくある属性で区分けした人々を、別の角度から質問して再分類することで、差異と共通性を再確認していきます。
我々は異なるが、でも似てもいる、私たちはそんな人間たちのひとりひとりである、という感覚を生起させます。流石は成熟社会といわれるデンマークだけのことはあります。シンプルですが深いです。
これはダイバーシティー、インクルージョン、ノーマライゼーションにも通じるものがありますね。まぁ現実には理想通りにはいかない様々な問題があるにせよ、
異なる人々をただ距離を置くとか、分断したり排除的に捉えるのではなく、「包摂性」で捉えた人間観、それもバランス次第で良くもなれば悪くもなります。
ともあれ、「仲良し幻想」とも「ルール関係」とも違う「眼差し」の質的変化によって、人と人との間には幻想でも分断でもない、「分かち合える部分」がたくさんあることにスポットを当てているCMですね。
以下に動画のリンクを張っています。
〇 TV 2 All That We Share 日本語字幕つき