新しい階級闘争  権威ある逆張りの空虚さ

まぁよくインテリが何か他者から言われて「失礼だ」という表現を使うけれど、そして確かに失礼な言動というのは数多くあるけれど、

「生徒でもなければ弟子でもない、そしてその分野の人でもなく何か同じものを目指しているわけでもない不特定多数の人々」に向かって「勉強してください」みたいな言葉を上から言うのも「失礼」なことなんですね。

また「読者を信頼する」というような表現もよく聞くけれど、そもそもSNSは「本を買って読む」とは質が違う。たまたま見かけた誰かの発言に意見やコメントを書いたり、そういう不特定多数の語り、意見がリアルタイムで飛び交うSNSと、一人の書き手の言葉だけをじっくりと読む読書とは異なる。

インテリは自分たちに向けられた「失礼さ」「傲慢さ」には敏感だが、相手に向けた言動の失礼さや傲慢さには鈍感であることも多い。そんなにそれが気になるなら有料でnoteとかだけ書いていればいいと思うんですね。

 

 

まぁ↑こういうのは効くタイプタイプと効かないタイプがいて、ほんとうに勉強してない人にはむしろ効かない(笑)。「ちゃんと意識的に真面目に勉強している人」に効いちゃうんですね、だからあまり意味がないどころか、生真面目で向上心が高い人を煽ってどうするって感じです。

私のように、行動の前に「勉強する」なんていう意識で何かをやってない人間にも全く効かない。本は読むけど「勉強」という感覚はない。

「勉強」という感覚は、たとえば人生で大きなミスを起こしたとか、右も左もわかならいような状況でヘビィな体験して何とか解決できたとか、そういうときに「あれはほんとに勉強になったなぁ」みたいな感覚が後から生じたりはする。

 

ではここで、動画の紹介です。「成田悠輔が悩める親たちに、そして日本社会に驚きの提言」とありますが、特に驚きはなく全くもってその通り、という内容だと私は思います。

 

 

成田悠輔さんが動画で、以下↓のような人をどうやって増やせるか?みたいなこと語っています。これはけっこう攻めている発言ですね。

 「損得勘定からすると全く割に合わないことをなぜかやる人、褒められたり評価されたりするというよりは、徹底的に馬鹿にされ、場合によっては逮捕されたりメディアによってぐちゃぐちゃにされて、私生活とかが全くなりゆかなくなるようなところまで、なぜか何の問題もなく飛び込んでしまうような人」 

まぁ「傾奇者」に関しては成田さんとは捉え方が少し異なりますが、確かにこういう人って「無敵の人」を除けば最近いないんですね。というよりもこの手の人の行き先が「無敵の人」か「その他の犯罪者者」にしかなれないような、「社会による淘汰圧」が相当に強いのでしょう。

「犯罪」や「逸脱」だって「こっちの方が稼げる」という損得勘定でやってる人も多いし、イキっている人とか迷惑系で稼いでる人とかなら沢山います。またフォロワーが多く、SNSで支持され、商売上手くやって、多くの支持者から称賛されつつ、損得勘定もしっかりしてて「何だかんだでバランスよい癖に、傾奇者ぶった人」もいますが、

そういうのとは異なる傾奇者がいないのは確かですね。

 

以下、動画からの引用ですが、このあたりの成田悠輔さんの感覚は私とかなり似ています。(ある条件内に限定すればの話ですが)

特に「重要なのは 応援もしてはいけないってことで 、応援とかそのギフトを与えるってのは呪いを与えるって事で、自分の利害の中に取り込んでしまうこと」という箇所。

 

権力とか資本の中心みたいなところでそういう存在が生まれてくるようなエコシステムをどう作れるかなんで、そういうそのやっぱり ヒーローなのか詐欺師なのかよくわからないような人たちを、とりあえずちょっと放置しておくっていうことがいかにできるかっていうことなんじゃないですか

放置する能力っていうのはやっぱり非常にものすごい高度な能力、重要なのは応援もしてはいけないってことで 、応援とかそのギフトを与えるってのは呪いを与えるって事で、自分の利害の中に取り込んでしまうことじゃないですか、だから邪魔をするわけでもない、かといって応援するわけでもなく、ただただ放置する、歴史の審判を待つっていうことができるようにどうするかっていうことだと思うんです。  by 成田悠輔 

 

「他者」の創造的な試み、逸脱性を含むグレーゾーンに対して、キャンセルや抗議活動や中止に追い込むような妨害はしないが、かといって絶賛もしないし「もっとやれ!」と応援もしないし妄信もしない。

この「ほっとく」というスタンスが出来ない人が多くて、「反対か賛成か」「敵か味方か」「称賛か罵倒か」「包摂か排除か」みたいな二項対立しかない空気の中でグレーゾーンはなくなっていくんです。「なんかよくわからん」でそのまま放置する領域が必要なんですね。

「選択と集中」もそうです。創造性は「先回り」で導けない。「何が出てくるかわからない」というカオスが必要です。そしてカオスは「二元論で分けられていないグレーゾーン」の中で生きています。

「クリーン化し過ぎた去勢社会」に過剰適応して自己家畜化が進んだような社会では、内も外も管理され過ぎてガチガチの硬直状態となり、設定されたルール内で椅子取りゲームをするようになり、攻略法も可能性も全て型にはまったパターンになっていきます。

カッチリ管理された場で、家畜たちが良い場所を巡って縄張り争いしているだけのような虚しいゲームに囚われ、「俺は勝者だ」「お前は底辺だ」といって貶しあい、勝った側が餌(資本)の独り占めして「成功者」「運の良い者」だとして獅子吼する。

このような管理社会での畜群2.0による醜悪な競争下では、型を根底から覆し一新するような創造性など生まれようもない。

 

それが今の、例えば科学技術行政とか大学行政みたいなことについて議論されることもそれと関わってると思うんですよね、

やっぱり日本みたいに、だんだん縮小してきて予算も小さくなってるっていう国で、科学技術に取り組んでいる研究者とか何やってんのかわかんないその人たちに、とりあえずお金渡してしばらく放置して待っておく、みたいなことするというのはものすごく難しくなっちゃってるって事だと思うんですよ

だからやっぱりちゃんと評価して競争させて、で、どこに資金を配分するかどうかを偉い人が決めてっていうことをやるのが自然になっちゃってると思うんですよね

で、その結果として予期しない発見とか発明とか技術みたいなものが生まれるみたいなことが難しくなってしまっている、その放置できないっていう余裕のなさが大小もあらゆるところで今の日本社会を 覆ってるのかな

親だって子育てとかだって重要なことは放置じゃないですか、で、褒め称えることがいいわけでもないじゃないですか、だから水をあげすぎるわけでもカラカラに するわけでもない真ん中あたりをどう取り戻すか  by 成田悠輔 

 

「ほっとくとオウムみたいになるぞ、オウムだって最初は危険と思われてなかった」的なインテリ知識人の啓蒙もそうですが、これも根っこにはそれがありますが、インテリなんてほとんどが根っこをみていない。 「リベラルのトランプ現象への捉え方」と同次元。

結果しか見ず、そこから帰納的に推論するだけ。

「何故そこに人が集まったのか?」というところの源流に目を向けないと見えてきません。トランプ現象の場合、それはリベラルが排除したものがまず「先」「前提」にあるんですね。リベラル側にその原因、前提がある、ということがリベラルには見えていないのです。

高学歴知識人がいう「○○は劣化した、○○はもう終わった。○○はクズだ」も同様。実際は、それを語る高学歴知識人が先んじて劣化し終わった者なのであり「クズの源流」。

こういう「クズの源流」に傾くことこそ今の時代に必要な傾奇者です。

「新しい階級闘争」は、「古い階級闘争」とは異なる性質を持つ。資本家対労働者という「古い階級闘争」は、産業革命や世界大戦などの歴史的な出来事によって発生し、福祉国家や労働組合などの中間団体によって解決・穏健化に向かった。

しかし、大都市エリート対土着の国民という「新しい階級闘争」は、1970年代以降の新自由主義的な改革によって発生し、中間団体の衰退やグローバル化の進展によって激化している。この階級闘争は、「右と左の対立」ではなく、「上と下の対立」である。

 

「リベラルな社会にこそ「保守の価値観」が必要な訳 多様性が「対立」ではなく「共存」するための条件」 より引用抜粋

アメリカ社会が輝いていた1950~1960年代に、伝統的価値観を擁護する人たちが反発した文化現象の代表例はロックンロールです。

 ところがご存じのとおり、ロックは労働者階級が生み出した音楽。「労働者=地域に根ざした伝統的価値観の担い手」というリンド式の解釈では説明がつきません。

 この点をみごとに説明したのが、労働者階級出身のロック評論家デイヴ・マーシュ。彼はこの時代の若者文化を「パンク(不良)」「ヒッピー」に分けて論じました。パンクは労働者階級に属し、ヒッピーは中産階級に属します。

 両者は何が違うのか。中産階級のヒッピーには、社会を全否定できるだけのゆとりがあるんですよ。ところがパンクの場合、社会の崩壊はすぐ自分の懐に響いてくる。貧しく抑圧されているのだから、反抗するのは必然としても、社会への尊敬もまた必然だった。リンド風に言えば、まさに「拮抗力」が働いているのです。それも内面で。

ロックはこのような反抗と尊敬の葛藤から生まれたのですが、人気が高まって大金が動くようになると、どうしても中産階級化、つまりヒッピー化が進む。尊敬なしの反抗に走ってしまったものの、これでは長続きしません。

 かくして1970年代前半、ロックは停滞に陥るのです。当の状態に活を入れた「パンク・ロック」が、アメリカ以上に階級格差の際立つイギリスで生まれたのも偶然ではないでしょう。

 その意味でパンクの精神にこそ、対立と葛藤を統合に導く多元主義の基盤が見出せるかもしれない。現にロックンロールは、貧しい白人の音楽であるカントリーと、黒人の音楽であるブルースが融合したもの。エルヴィス・プレスリーが「黒人の音楽性と、黒人の感触を持った白人」と位置づけられたのは有名な話です。つまりエスニックの枠を超えている。

 リンドが満足な処方箋を提示できないのも、労働者階級をロマンティックに美化したあげく、物の見方が一面的になったせいかもしれませんよ。これはエリートが民衆に肩入れする際の通弊です。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ リベラルな社会にこそ「保守の価値観」が必要な訳 多様性が「対立」ではなく「共存」するための条件

 

権威ある逆張りの空虚さ

上の記事に「パンク」が出てきますが、高学歴インテリ人文系には「パンク」が理解できる人は割合として少ないでしょう。

名もなき民たちの中にあり、大地の近くで「(大きな声にはならない)声たち」を聴いていれば、それはインテリの言説以前にすでにあり、アチコチで問いかけられている。

「感受」において「末梢」は「中枢」に先んじている。人文学者やインテリたちの視界に入らない「末梢」の側では先んじて感受され、非インテリ的な言語、非言語的に表現されている。

しかし「○○で語られるものしか認めない」という権威性は、「○○の正しさの基準に収まらないものを排除する」という傾向性以外にも、権威側の既得権にとって邪魔だったり脅威になるものを排除する特権を持っているため、下部構造側の「逆張り」は抑圧化される。

そして「ある特定の権威ある人物の語り」に過剰にスポットが当てられることで、「その人の言説」だけが「あるもの」とされ、権威を持たない人々の語りは「ないもの」であるかのように扱われ、「ほんとうの逆張り」は闇に葬られる。

こうやって何かが奪われている。「それ自体を生きる人からそれ自体を生きていない人がそれを奪う」ということ。

その結果に「権威ある逆張り」みたいなインテリパラドックスが生じてくる。ロックだって今では「権威ある逆張り」の一つに過ぎない。過去の反逆の形やその対象は、あくまでその時代の構造・力関係から選択された型であり対象であり、その型が伝統化した文化になっていく。

「活動家のシノギの形」としてみれば、時代が変わってもスタイルは似たままですが、反逆のスタイルを権威化することは「反逆自体を生きるものから反逆を奪う」ことなんですね。

「今の時代の型・対象」として生じるのであれば、その対象はたとえば「アメリカのバイデン政権、民主党、高学歴左派主体の価値基準」に対してであり、その「型」は、今の政治的正しさへの反(アンチ)としてとして生じてくる。

それへの反(アンチ)こそが「今」の社会運動であり、「今の時代の忌野清志郎」であり「今の時代のロックでありパンクでありヒップポップ」であり「体制に対する市民側の運動」なんですね。「反逆」は「過去の形」にあるのではなく「今」に生じるもの

過去の運動の型は今では高齢者のノスタルジーとなり、あるいはその当時の象徴的存在が伝統化した文化の一部として残り続けるとはいっても、その反逆のエナジー自体は固定化されるものではなく、その形も常に変化し続けるということです。

進歩主義左派の社会運動もそう、高学歴インテリに主導された「体制側の反体制運動」「教育を受けた良い子の反逆」「権力のある反権力」のような矛盾した上部構造の権力闘争にすぎない。

インテリの逆張りなんてものは大体が逆張りでも何でもない。生業そのものが「その反対側のもの(批判対象)」に依存している。「逆張りに見せた順張り」に過ぎず、場合によっては「順張り」よりも質が悪いとすらいえる。

たとえば、自らが資本主義のシステム内にあり、それを再生産し維持している仕事のひとつに従事しつつ、「社会」を構成する一部分であるだけなく、上部構造に属し恩恵を多く受ける側でありつつ、あたかもその「外部」で戦っているかのようにみせる、ゆえに巧妙で質が悪い。

そうやって「社会システムに支えられたアイボリータワー」の中で逆張りごっこやってお金がもらえるうちは、「自身が何を排除し何を不可視化しているか」が逆に全く見えなくなる。

という点では、「順張りで生きている人」の方がまだ巧妙な嘘がつけないタイプである分、気づける可能性に開かれているともいえますね。