責任と自由 「暴力の型」と「適応」

 

今回は前半で「責任と自由」、「暴力の型」と「適応」、後半で「ルサンチマン下克上式自己実現者」をテーマに考察しています。

 

ではまず一曲【替え歌】「柱の名前の漢字が読めない」残響散歌です♪

 

 

賢い人達(CEOや専門家)」だけでなく、高学歴のインテリ等が、ある面において能力が高かったり、有能であったり、その分野の知識に長け、能力・技術を磨いている人達であることも事実ですが、

「それゆえに見落とす、気づけない」とか、「他の能力・知性に劣ることがある」というのは、多角的な角度から過去にも書いてきました。ではまず外部サイト記事の紹介です。

 

「賢いひとたちは、自分が「無知(ignorant)」であることを認めることができず、「無知が大きい時ほど無知を否定したくなる」」 より引用抜粋

テトロックによれば、専門家とは「説得力のある解説をする者」のことで、その予測が正しいかどうかは別だ。

 なぜ人間のなかでもっとも賢い(はずの)専門家の予測が、チンパンジーと同じになってしまうのか。それは、複雑な問題には「解決不能の不確実性(知り得ない情報)」と「情報の不確実性(調べるればわかるが調べ切れていない情報)」があるからで、これを「客観的無知」と呼ぶ。

 だが、CEOや専門家などの賢い(はずの)ひとたちは、自分が「無知(ignorant)」であることを認めることができない。これが「無知の否定(denial of ignorance)」で、「事実をいくら眺めてもまったく先が読めず、何かにすがりたいというとき、彼らは直観の声を聞いて自信を取り戻す。してみれば、無知が大きい時ほど無知を否定したくなるということになる」という話になる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 賢いひとたちは、自分が「無知(ignorant)」であることを認めることができず、「無知が大きい時ほど無知を否定したくなる」

 

上に紹介の記事とは角度が全然異なりますが、たとえば「暴力性」「苛め」にしても、「統計に表れるものは非常に部分的なもの」だけです。

「交通事故」とか「○○の死亡者数」とか、対象が非常に明確で数値化しやすい統計や調査もあれば、「対象の定義が曖昧」だったり、数値化しにくい対象だったり、複雑な構造性を持った対象を観る場合、解釈や検証の条件設定次第でかなり変わってしまうような統計や調査・研究結果もあるわけです。

人を物理的に殴ることだけが暴力ではないように、学校などのコミュニティで「誰かを虐める」という明確に事実だと判定された苛めだけが苛めではないように。

しかし、「論文やら統計で具体的な数値に上がってくるもの」だけを苛めや暴力とするなら、「虐める人は少数で暴力性は少数の人しか持たない」という短絡的な結論にも繋がります。

現実は論文や統計よりもっと複雑で、たとえばSNS(主にツィッター、昔なら2ちゃんねる等)を観ただけでも、そこには「陰キャ」が多いことは良く知られていますが、彼等の一部の人がいう「冷たくて暴力的で物事が正確に観れない強者・リア充(といわれる人々)」と比べてどうでしょうか?

陰キャや虐げられた弱者たちの集団は「優しく良心的で非暴力的で寛容で苛めのない暖かい関係性」でしょうか?

2ちゃんねるにしてもツィッターにしても、そこには論文や統計のような次元で具体的な暴力・苛めとして正確にカウントはできない質(正確な認定が難しい)の「暴力・苛め」が溢れかえっています。

 

責任と自由

責任と自由というのは矛盾する力学です。「個人に責任を求めると同時に自由な社会」ゆえに「なかなか非を認めない」という態度の方が逆に適応的になります。リベラルな価値観こそが自己責任社会を強化しているのと同時に、無責任社会を拡大させている、ともいえるのです。

リベラルな価値観が無責任社会を生むのは、共同体を解体した個人主義的な自由社会というのは消極的自由より積極的自由にウエイトが大きくなっていきますが、

生き方の自己決定の自由があるのと同時に、自己が決定した以上は、その行動の結果に自分で責任をとることも同時に発生し、

そして「責任感」は「自由でいたい」とは相容れないものなので、個人は責任を出来るだけ避けようとする。「非を認めた時点で具体的な行動が求められる自由社会」においては、「すぐに非を認める性質」が不自由さを高めるゆえに、逆に責任回避傾向が高まるのです。

 

 

そして「責任帰属」の型がアメリカ(他責優位型)と日本(自責優位型)では異なることは過去にも書きましたが、日本が欧米リベラル化すればするほど、そういう傾向性は拡大していくでしょう。

結局、「ひとのせいにする態度」の方が「自由」に生きるための最適解みたいになり、さらにそこに思想・イデオロギー等が加わると、

『「被害者に擬態した者たち」「被害者をアイデンティティにする者たち」によるルサンチマン型無責任社会』になっていく、というのが個人主義化したリベラル社会の矛盾・ジレンマのひとつでしょう。

 

安彦一恵 福田恆存の「保守」思想 より引用抜粋

「一匹と九十九匹と」の後半、福田は十九世紀的個人主義を加速した結果、「いかなる点においても社会とつながらず、いかなる点においても社会的価値と通じてゐない個人」において、ついに「自我の空虚さ」が見出される必然を指摘するのである。

そして、二十世紀、この社会との連関を失った「個人」の「不安とうしろめたさ」の隙に付け入って、左のコミュニズムと右のファシズムが、その政治的解決をめぐって覇権を争うことになる。ここに、九十九匹から離脱しては、その「空虚」に耐え得ない「個人」の無力がある。(383)

福田における一匹の「超克」という課題性が確認されているのだが、しかし福田はそれをいわば社会学的次元において、たとえば共同体主義のストレートな主張としてではなく、言ってみれば神学的深みにおいて志向する。浜崎は引き続きこう纏めている。

「一匹と九十九匹と」の末尾、「ぼくはこの文章においてかれの『黙示録論』を紹介するつもりで筆をとつたのであるが、そこまでいたらずして終つた」と言われるように、九十九匹(集団的自我)に還元し得ない一匹(個人的自我)、そして、その一匹の「超克」といった課題を福田に教えていたのは、D・H・ロレンスの『黙示録論』だったのである。

……/……/集団的自我に還元し得ない個人的自我は、しかし、「宇宙の有機性」によって常に既に絡め取られている。だから個人は、自らが投げ入れられている「大地」を引き受け、その有機的連関に従うことでしかエゴを超えられず、「自然」を媒介としてしか他我に繋がることができない。

……/……後の福田の歩みは、このロレンスの結論を如何に引き受け、消化するのかという線に沿って刻まれた。コミュニズムやファシズムの「全体」(totality)を拒絶して、なお〈近代=個人〉を超えようとしたとき、福田は、この「宇宙」の「全体性」(wholeness)への一歩というロレンスの結論を正面に見据え始めるのである。(383-5)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 安彦一恵 福田恆存の「保守」思想

 

「暴力の型」と「適応」

暴力性攻撃性の発露の仕方が今の時代に適応した形式でなされているだけで、「昭和」の暴力性と今の時代を比較しても、あの時代はあの暴力性や攻撃性の発露の仕方が適応的だった、という「暴力の型」の問題でしかないともいえます。

その意味では、「昭和」に比べて人間が本質的に良くなったわけでもアップデートしたわけでもなく、ヒトの基部は同じであり、ただ社会での評価基準が変わったので「それに適応した形で暴力の型がアップデートされた」とも表現できるでしょう。

また別の言い方をすれば、「現代の基準で悪や罪とされるものを背負うことから逃げれなかった現実・原初的な社会環境の中で生きてきた先達たち」が先に存在してくれたからこそ、その過程の中で徐々に国や制度やインフラが整えられ、技術も徐々に発達し、

その大きな時間の流れを経た結果の総合的なリソースとしての社会的財産を、「子孫」は同じ悪や罪や労働を背負わなくてもよい形で引き継ぐことができるゆえに、先達が積み上げたものを足場に物事をスタートできる。

それを「点」だけで比較し、「昔の人はダメで今の人は良い」みたいな単純な二元論は、そういう時間性、連続性を無に帰すだけなんですね。

誰かが罪や業を背負うことなしに達成された近代社会人の今」なんてどこにも存在しないのに、何故過去を、昔を、業を背負った人を断罪するだけのか?と思うのです。

「後の時代に裁かれている過去の人々がその時代の業を背負ってくれた人々でもある」ということの両義性、そして「罪を憎んで人を憎まず」の喪失もそうですが、

自分が共感する弱者の逸脱性」に対しては社会構築主義の理屈を振りかざして擁護する割に、「自分が共感できない者たちの逸脱性」に関しては、そこに同じく社会構築主義的な力学が働いていても、「本質主義的な悪の捉え方」で全否定する。

昭和の人間がもともと本質的な悪を有しているかのように断罪的に否定する矛盾、そして「昭和の過度な否定」は「今」の時代の社会への適応のことしか考えてない事の裏表ともいえます。

昭和の人も「昭和の時代の社会への適応」に努力した結果にそうなった型のひとつ、というだけで同じなんですね。それを「昭和の人は..」と本質主義的な否定の仕方をするのです。

そこに、「時代の制約と有限性の範囲で何とか努力して積み上げたものを踏んづけるだけの人間の心無さ」を感じるんです。まぁ「温故知新」も喪失した時代ですね。

 

ルサンチマン下克上式自己実現者

人間を「元々こうである」な種類に分けたがり、そして自身は「元々善い側」に置きたがる人達というのは、同一人物の中にある複雑性、矛盾する性質の否定的な部分への直面を嫌がります。

おとなしい感じの人の知的な暴力性」と「猛々しい人の目に見える派手な暴力性」は、後者が圧倒的に目立つからスポットがよくあたるだけで、前者に潜んだ悪意や冷たさは、質が異なるだけで非常に攻撃的ともいえます。

以前ネットの風刺で、緋村罵倒斎「これからはではなくて、言葉で人を傷つける時代でごさるよ」という上手い喩がありましたが、実際その通りで、

腕力よりも言葉で人を傷つける方がメインになった昭和以降の世界では、「知性と言語の組み合わせ」で「暴力と見せずに攻撃する」という高度な苛めの方が、場合によってはただ殴るだけ以上に総合的に破壊度が高い場合もよくある。

殴れば捕まるけれど、「知性と言語の組み合わせ」による暴力はやり方次第ではいくらでも殴り続けられる、権威性が在れば「善い事」とすらされる。そしてそういう「知性・権力性を持った弱者」は現代では数多く存在するのです。そしてそれも「適応の結果」です。

たとえば少し前に騒がれた「小山田圭吾 氏」にしてもそうですが、事実を精査することもなくあれだけのパッシングと私刑が行われるんですね。専門家等も多数加わってましたが。

事実を精査すれば、あそこまでやることか?というのが理解できるでしょう。だから「中立」「客観性」が必要なんですね。

確かに意思決定するには「中立」「客観性」だけでは無理ですが、まずは冷静に事実を精査し、その後で判断なり主張なりすればいいことですが、いきなり「私刑に処す」みたいな短絡的な人が多すぎなんです。⇒  2021年夏に起きた小山田圭吾氏の炎上問題について 時系列の整理とファクトチェック

↓以下のリンク先の事件も酷かったですね、「男性はDVしてた悪い側の人」みたいに決めつけられていました、「被害者が加害者」で「加害者が被害者」、そんな反転すら起きてしまう、だから主観や感情だけで判断してはいけない、ということです。

【江戸川区】19歳少女に殺された元カレ、アメリカ人に寝取られ、家賃光熱費を払っている自分の家を追い出されていた

 

力の質」が変わった今の時代は、「単純に弱者とはいえないような弱者」もいるわけですが、公的に弱者属性を付加されているのでそう扱われるし、そう扱わないと差別と言われるジレンマがあります。

そうやって「己が強者性は透明化したまま弱者のポジションで自己防衛しつつ攻撃し続ける無敵化した弱者」の「ルサンチマン下克上式自己実現」の増大の結果が今なんですね。

 

また逆に、「物事が正しく観えている人」が適切で良心的な言動をするとも限らない。

それどころか、「物事が正しく観えてはいない人(とされる人々)」が適切な良心的な言動をすることもよくあるのです。それは、言動の「動機」となるものは「正しく観えている/観えていない」だけではないからです。

たとえば、「店のテーブルの上の汚れ」、「ある人の悪質さ」等の事実が正確に見えていたとしましょう、それをどの程度問題とし、否定し、主張するか、などのボリューム・やり方は、「それが見えていること自体」が決定しないんです。

「テーブルの上の汚れ」「ある人の悪質さ」がどの程度のレベルか?によってももちろん「反応」は変わりますが、「それを捉える側の状態」によっても変わります。

本当は「正しく観えている/観えていない」の問題ではないのに、○○への「反応」の方にスポットを強く当てて考えるから、必然的に「反応が強いから正しく観えている」「反応がない(少ない)から正確に観えていない」という結論が導かれる、というケースがあります。

「○○を気にする=○○が正確に見えている、○○に自覚的である」「○○を気にしない=○○が見えていない、○○に無自覚である」という結論の出し方は、よく見かけるんですが、それは「捉え方の差異」だったり、「どの程度言動に表すか」の「動機の差異」だったりもする、ということ。

同時にどんな人であれ「全てが正確に観えているわけではない」のです。ある部分は正確に観えている、しかしそのことでかえって別の部分が見落とされる、あるいは「私は○○を正確に観ているのだから他のことも正確に論理的に判断できるだろう」と思い込む、

そういう人たちは「揺らがない人々」であり、モヤモヤしたくないんですね、常に明確にスッキリ論理的に把握していたい、モヤモヤをはらった「余白のない概念的思考に完結した状態」が「正確に理解出来ている状態」と思い込んでいる。

むしろ「ある程度は自己相対化出来ている一般人」や「ルサンチマンで立場を逆転させることに必死になっていない一般人」の方が、権威性とか肩書とか執念もない分、変なプライドとか自己防衛心も形成されにくいので、

「そうかもなぁ」「私にもそういうとこあるなぁ」と素直に認めたり、いろんな意味で心に「ゆらぎ」が生じやすい「余白」が多いのです。そしてこの「ゆらぎ」が生まれる「余白」があることで、「それ自体の姿」との対面・直面が訪れ、その対面の中でのモヤモヤの中で変容が生じます。

人間はひとつの作用やひとつの力学だけで構成されているような単純な存在ではないので、「それ以外の複数の作用・力学」の中で、その複雑系のバランスを生きています。

 

こういうものは「低次の防衛機制」で考えるとわかりやすいでしょう。物凄く酷い人は原始的防衛機制の状態になっています。カルトと同様で、「その人には対象がそう見えている」のです。「リアルの捉え方そのものの構造」が異なるので、話が全く通じません。

そして「本当に悪い人間は一握り」も防衛機制で捉えると多元的に観えてきます。人間は「動物の一種でもあり、非動物でもある」そういう両義的存在ですが、防衛機制が低次~原始的なものに移行していけば、どんな人でも獣のようになり得る、そういうものを元々持っているといこと。

それが剥き出しの形で発現するかしないかは、内外の組み合わせと条件が決めているだけで、たまたまそうならなかった人達、ある程度のところまでで止まれた人達も、別の組み合わせ次第では「可能性として在りえる」でしょう。

また高次の防衛機制を含めて「防衛機制をバランスよく使っている人」≒「まともな人」という基準自体も絶対ではなく、相対的で動的なものです。

多様な他者との関わり方・組み合わせ次第では、「まともな人(とされている人)の意見」もまた「とんでもないクソリプ」の一種であり、「偏見」の一種であり、「攻撃的で病的」な力学にもなり得るんです。

一般人の方が統合失調症の人と話すとき、その関わり方・組み合わせ次第では、「統合失調症の人 ⇒ 一般人」よりもむしろ「一般人 ⇒ 統合失調症の人」の作用の方が、より破壊的な作用を与えるということがあるように、

鬱の状態の人から発せられる言動が、時に一般人にとっては非常にネガティブで聴くに堪えないものになるとしても、鬱の状態の人からすれば「一般人のまともな正論」こそがもっとも聞くに堪えない暴力的な言葉にもなるように。