「恩送り」 知性と他者観 

 

今回は「恩送り」、「知性と他者観」をテーマに書いています。知性も多元的だし、他者観も多元的ですが、人間関係を含めて、近年そういう多元的だったものが一元的になっていきていることを感じます。そういう流れを鑑みて、今の流れとは異なる角度から考察してみました。

 

カウンセリングはお金を払った方が無料よりも効果がある」というのは、「動機づけ」の面では理解できるし、対人援助職の人にとってはその方がwin-winでしょうが、しかし本当はそのどちらでもなく、「お金を貰った方がさらに効くケースが多い」という方が私はよく理解できます(笑)

もっといえば、ただ貰う場合、最初はよくても「ずっと貰い続けるだけ」だとダメで、貰ったうえで「人の役に立つことをする」という組み合わせが良いと思いますね。「恩恵」や施しだけをただ受け続けると、人間は内発性や自己効力感を失うのです。

「与えてもらうだけの立場」って「非力の証明」であるわけだから、多かれ少なかれ、「卑屈さ」とか「申し訳なさ」とか「恥」のようなネガティブな感情も増すでしょう。

「恩恵を与える側」、「施される側」という非対等な関係性に留まっていては自尊心は削られるでしょう。(まぁこれは属性によっても異なりますが。)なので「自分も何かを与える側」になることです。

「人の役に立つことをする」とは少し異なる意味合いですが、昔の言葉で「恩送り」をすることですね。「恩返し」ではなく「恩送り」です。形は何でもいいのです。大きなことは出来なくてもささやかなものであっても。

」とは本来、自分が所有するものではなく、多くの人々から贈与されたものなのです。「恩送り」をすることで、「徳」は周囲に還元され、そして徳は全体を底上げしていきます。

別の言い方をすれば、「徳」は知性であり、それはIQとは違います。IQ的な知性は現代の能力主義社会に適応的な知性というだけで、むしろ今のインテリの在り方を観ていると別の意味で「知性が低い人」も結構いる。徳がないからIQ的な知性でマウントする。

これはちょうど「徳はないが腕力がある人」が腕力で人を押さえつけるのと同様なんですね、そしてどちらも「ある種の知性が低い」のです。

「徳」が自分の所有物だと思っている人は、徳のない人をただ見下し、自分の立派さを誇るだけですが、「徳がない人」というのは多くの場合「恩恵」を受ける機会が少なかっただけなんですね。

しかし「恩恵を生かす」のも基本的な徳や知性・能力等がないと出来ないし、他にもある種の精神の異常性等があると出来ないこともあります。そういう場合は専門的な介入が必要になってくるでしょう。この辺が「お金をあげても解決しない残りの半分の人達」でしょう。

 

「恩送り」と逆が「呪い返し」としてのミラーリング(反転)ですね。的外れなミラーリングが多い上に、仮に的は外れてなくてもそういうやり方ばっかり使って「呪いながら教えようとする」こと自体が不毛です。そういう現象も「徳を失っていく社会の末期症状」のひとつでしょう。

徳の高い人は周囲にそれだけ有形無形の「恩恵を与えた人たち」がいて、かつIQとは違う別の知性が高い人たちです。地獄も天国も恩次第。さてここで動画をひとつ紹介です。(この動画を選んだのは単なる偶然で、特に意味はありません。)

 

 

「恩送り」と徳

一人であること」の良さというか、一人であることでしか出来ないことというのはあります。以下の動画も共感できます。

 

 

ですが同時に、最近は「少しでも違和感を感じたらすぐに関係をリセットしろ!」的なものをよく耳にしますが、人間関係を深めるにせよ、「わからなさ」「複雑性」と共に在ることも、そういう違和感とかモヤモヤも含めて観ていく事なんじゃないかな、と思います。

「恩送り」にも有形・無形の質がありますが、「無形の恩送り」ができる徳の在る人は、IQ的なものとは異なる高い知性でコミュニケーションし、「他者」に触れていきます。

徳は自身が所有するものではないことがわかっている人は、「無形の恩送り」ができます。現代の知能至上主義&能力主義&資本主義社会では、IQ的な知性にせよ徳にせよ、「個人が所有するリソース」のように扱われているので、「無形の恩送り」ができる徳の在る人(ある種の知性が高い人)は相対的に減っていくのです。

IQ的な知性が低くコミュニティにも包摂されなかった人」は、「恩恵を受ける機会を奪われた人」ですが、「無形の恩送り」ができる徳の在る人は知性が高いので、そういう「一般的に扱いにくい人達とされる人々」とも難なくコミュニケーションしていきます。

本来の「高いコミュニケーション能力」というのは、「個々の専門的なフレームによる他者の解像」によってもたらされるのではなく、「仕事上の制約や専門分野の概念」を超えた「フレームを超えて他者それ自体に触れていく知性」によるもので、だからその意味ではインテリ達ほどコミュニケーション能力が低い、(知性が低い)のです。

たまにSNS等で、一部のインテリが「社会不適合者」と揶揄されることがありますが、これはコミュニケーション能力といよりも、ソーシャルスキル(社会的技能)の不足であり、ソーシャルスキルは「実践」で身につく適応能力の一種なので、「特定分野の関係性に閉じた世界」にいては身につかないものです。

単純に経験不足というだけで、経験値を積めばいいだけですが、

その分野ではそれなりに有能とされていても、専門フレームを超えたコミュニケーション能力が低く、にも拘らずIQ的な知能至上主義社会では上位に扱われるので、プライドだけは高くなり、権威性で上から相手を説得するような一方通行なコミュニケーション型になることがある。

その態度・姿勢によって、自身の徳を高める機会を自ら遮断するどころか、さらに権威に固執し、「一番正しいのは私だ」で自己完結する、そうやって知性を自己正当化・自己防衛に使うだけでは「そのまま」でしかないでしょう。

 

都合の良い(悪い)他者

 

 

孤立の社会学として、石田 光規 氏の著書 「人それぞれ」がさみしい を紹介します。以前、「自己実現した者の孤独」と「疎外された者の孤独」は質が異なる、ということを書きましたが、このテーマをもっと多角的に深めて考察されているのが石田 光規 氏です。

参考用に、外部サイト記事のリンクを張っておきますね。⇒ やさしく、冷たい人間関係…「人それぞれ」のなかで遠のいていく本音

芸能人とか有名人とか、何かの成功者やそれなりの肩書のある「自己実現している者たちの孤独」、あるいは一般人であっても「選択された自由としての孤独」にはポジティブな意味合いがあり、

その文脈における「孤独のすすめ」はある種の「恵まれた人向け」だったり、「根本的な欠乏はない人の話」なんですね。なので「疎外された者の孤独」をそれと同等の文脈で語るのは残酷な力学となり、「さらなる透明化」にも繋がるのです。

 

本当の「社会不適合者」というのは「弱者」の事で、インテリのような現社会における知的強者のことではありません。

「機会を与えられなかったIQが低く徳もない弱者」に必要なものは、インテリの高説じゃなく、「無形の恩送り」ができる知性の高い人なんですね。そういう人はテレビとか目立つ場所にはまず出てきませんが、様々な場に点在していて、そんな無名の人々が、知識では得られない「知恵」や「徳」を贈与してくれるのです。

ico05-005 自分の体を使って働いている人はみな、どこか目につきにくい。そして仕事の中身が重要であればあるほど、ますます目につかなくなる。  マラケシュ

 

そういう人々は「他者に開かれている」ため、様々な他者と関係していきます。知性が高いゆえに「様々なタイプの友人」ができるともいえます。知性が低いからこそ「性欲が絡む異性」くらいしか他者と深く関われない、ともいえるように。

私は「無形の恩送り」ができる人に助けられてきました。そこには男性だけでなく女性もいます。年上、年下も関係ないです。そういう人は多くの場合、学歴は高くなく、高くてもIQ的な知性を鼻に掛けるような人ではなかったです。しかし驚くほどに知性が高いのです。(知識が多いのとは違います)

記事の初めに、「精神科の患者さんで、500万円ぐらい自己資金が増えれば病気が良くなりそうな人が半分ぐらいはいる。」とのツィートを紹介しましたが、物質的なリソースもそうですが、知恵とか「恩送り」のような非物質的なリソースも同様で、

実際のところ、「無形の恩送り」ができる人が沢山いれば、それだけで多くの人が「人生」を支えるひとつの力になることでしょう。「精神の症状とか特定の専門的文脈で○○を支援する」というのとは違って。

病人であれ障害者であれ、人間というのは病気とか障害のみを生きているのではなく、もっと複合的な「人生」を生きています。専門的な支援は特定の領域において必要ですが、「人生」全体の複雑性を支える力学ではないのです。

フレームを超えて他者に触れていく知性は、「他者」を通じて自らが変容していくだけでなく、「恩恵」を受ける機会が少なかった人に「恩送り」されることで、無形の徳が贈与されます。そして「機会が少なかった人」の人生を支える糧となる。知能だけが人を支えているんじゃなく、そういうものがもっと深い部分で人を支える力学になっている。

そもそも「他者」とは違和感があるのが自然で、矛盾・両義性を内在し、未知なる存在でしょう。「少しでも違和感を感じたらすぐに関係をリセットしろ!」的な「他者観」というのは、「都合の良い他者」の選択でしかなく、「気に入らないんでチェンジします」っていうくらいの他者観ともいえます。

そうなると「癖がちょっと強くて変なとこもあるけど悪い人ではない弱者男性」とかみんなから「はいチェンジ!」ってされる傾向を強化していくだけでしょう。現代の個人主義社会で一番疎外されるのは結局..といういつものやつですね。

だからみんなからチェンジされた人は結局、家族が最後の居場所になってガラスの地下室にひきこもるわけでしょう。でも毒親なら家も「居場所」には出来ない。そして虚無に飲まれたところをカルトとかに狙われたりするのです。

少しでも違和感を感じたらすぐに関係をリセットしろ!」的なことを言ってた人が、「自分の娘にブスっていうか?全ての女の子を自分の娘のように思え!」的なことを言ってたのを見聞きした時、ふと思ったんですね、「あなたは少しでも違和感を感じたら自分の子供と関係をリセットしますか?」って。

「自分の子供ように他者を思える人」ならば、「癖がちょっと強くて変なとこもあるけど悪い人ではない弱者男性」だってチェンジしないと思うんですよね。

まぁあまりに狂暴な子供を戸塚に送った昭和というやりすぎな時代もあったけれど、そのレベルでも息子をチェンジはしないじゃないですか。親にとって子供は「都合の悪い他者」のようにリセットできる存在ではないから。

結局「相手が女性」だからそう言う。自分の息子が公園で一人でいるだけで通報とか絶対しないじゃないですか、「ちょっと見た目が変」、「違和感を感じる都合の悪い他者(男性)」は迷惑!くらいの感覚で通報するわけで。

他にも、「パートナーはメンタル安定した人が良い」のツィートが炎上したときもそうですが、結局この場合も「自分あるいは自分の属性」の都合で反応が変わります。「女性」と「おっさん」の場合であれば多くの場合正反対になります。

まぁそういう「都合の良い悪いだけで他者を選別する人」でも、「相手が自分の好きな異性」なら「性的」なものが関わる動機になるから関係が生じるけど、それでは同性とは深く関われないでしょう。

まぁそもそも深い人間関係なんて「違和感からスタート」だから。