「正義の反対はまた別の正義」 信頼と論理の絶対と相対
「パーソナリティ(人格)障害」「病的な精神世界・オカルト検証」のカテゴリー記事の更新です。ブログ更新は久しぶりですが、今日は下書きのままだった幾つかの記事の編集が終わったので久しぶりに更新出来ました(^-^)
今回は「相対主義」・「絶対主義」をメインに「帰納的推論」でのパーソナリティ(人格)障害の考察と補足、後、わかりやすい例としてのカルト考察を行い、補足としての集合知・多元主義、独我論や実在論なども少し書いています。
以下に紹介の外部サイト記事「良し悪し族」が蔓延する社会はアブナイ、の記事内容が気に入っていて、わかりやすく読みやすくシンプルに表現できるっていいなぁと思います。
「良し悪し族」が蔓延する社会はアブナイ」 より引用抜粋
好き嫌い族は総じて平和主義者である。歴史を振り返れば、戦争を起こすのは決まって良し悪し族だった。好き嫌いには定義からして争いがない。大げさに聞こえるかもしれないが、好き嫌いは世界平和への王道である。
もっともらしい理屈をつけても、世の中のほとんどは詰まるところ好き嫌い。しょせん「蕎麦か饂飩か」という話なのである。好き嫌いはひとそれぞれ。他人と自分が違うのは当たり前だし、人のことを気にする必要はない。
ただし、他者の好き嫌いを尊重する。尊重しないまでも、筋違いの批判や余計な介入や無駄な説得をせず、気持ちよく放置する。そういう社会が成熟した良い社会であると僕は思う――と、好き嫌いのはずがいつの間にか良し悪しの話になってしまったが、そういうことである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 良し悪し族」が蔓延する社会はアブナイ
これは価値相対主義的なスタンスですね、ただ「無制限な価値相対主義」ではなく、普遍的価値も社会にはあるというスタンスなので、ノーマルでバランスが良い相対主義です。(「好き嫌い」は「快楽原則」に関連。)
また好き嫌い⇒「ありのまま」で、善し悪し⇒「あるべきもの」と関連しますので「べきべき思考」が強い人が善し悪し族、ありのままで生きたい人が好き嫌い族、とも言えますね。(あるべきものは「現実原則」に関連。)
このテーマに関しては以下の過去記事で書いています。
好き嫌いは主観的・個人的なミクロな領域で相対的です。善し悪しは客観的・社会的(集合的)なマクロな領域で絶対主義的です。
ただ社会的(集合的)なマクロな領域での絶対主義も、さらにマクロな視点から見ると絶対軸は失われ相対的なものとして捉えられます。
なのでこの手の観念にあまりに強く囚われてしまっている人に対しては、「本質的には絶対はないよ」ということを「たまに」「ちょっと」考えてみる気楽さ、柔らかさを持つとバランスがよくなると思います。
「基準」を作るのは人間側の都合、この辺りのことは以下の過去記事と外部サイト記事を紹介しておきますね。
〇 神秘なるミクロとマクロの世界 「現実」と「存在」の相対性と絶対性
〇 いま敢えて問います。天動説と地動説、どちらが正しいと思いますか?宇宙観に見る「正しさ」の意味
逆にあまりに無制限な相対主義で、人として最低限守らなければいけない「あるべきもの」まで否定するのは行き過ぎでしょう。
またメタ認知で自身を相対化し過ぎて俯瞰ばっかりやってると、主体的な生を見失います。「メタ認知能力」はその他の能力や行動とのバランスの中で生かされるので、メタばっかりで「俯瞰中毒」になると、これまた厄介です。 関連過去記事 ⇒ 内面で世を俯瞰し「目立つもの」に反応する心理
「正義の反対はまた別の正義」という名セリフがありますが、かなり簡略化すると「絶対主義」対「別の絶対主義」の構図ですね。
「互いが絶対主義」で「内集団・外集団バイアス」が強化された場合、内集団への一体化が進み外集団への排斥・排外意識も非常に強くなる傾向性が高まります。
それが「正義の反対はまた別の正義」の構図ですね。関連過去記事 ⇒ 内集団・外集団 ラベリング(レッテル貼り)の多元性
とはいっても必ずそうなるわけではないのは「絶対として信じているもの」の質は同じではなく、それぞれの「絶対として信じているもの」には多様性があるので、その質次第で変わるためなんです。
では一方が、あるいは双方が相対主義であればそのような断裂・分裂は生じにくくなるのか? 通常は相対主義の方が絶対の正義とか正しさなどない、という「イメージ」なのでそういう面に関しては柔らかい「印象」でしょう。
このブログでも相対主義的なアプローチで幾つかのテーマを考察した記事はあります。相対主義といっても種類があって、例えば「認識的相対主義」、「道徳的相対主義」、「審美的相対主義」などですね、
過去記事で道徳や犯罪そして芸術などにおいて、これらの相対主義的なアプローチが含まれた記事も幾つかありますが、相対主義それ自体が問題なのではなく、「使い方」次第で良くも悪くもなる、そういう意味で、まぁこれは絶対主義も同様ですね。
迷信と科学的事実が異なるように、例えば医学的根拠に基づく治療と祈祷のような行為は質的に全く異なります。
また客観的に観察される事実に基づいてそれぞれの領域・分野の基準によって行われる評価は、その領域内では絶対的でも、全体から見れば相対的であり、
「あのお店はマズイ、あの映画はつまらない」などの感想も、事実や体験・五感を通した主観的・感覚的には絶対的に感じる評価でも、全体として見れば相対的です。
前者は権威やその道のプロの専門家によって公的に高く評価される時に社会的な価値を高めます。芥川賞を受賞するとか、世界大会で優勝するとかの実績が、公的な評価を高めるのは言うまでもないですが、
例えば後者(主観的・感覚的な相対評価)であっても、事実や体験・五感を通した明確な実感と不特定多数による口コミや評価、そしてビッグデータから得られる集合知の場合、専門知を超えることがあります。
この場合は他の個人の単一の評価よりもより優位な評価として位置づけられる場合があるわけですね。
集合知に関する過去記事⇒ 集合知の科学的活用
集合知が役に立つ場合と逆に障害になる場合、専門知が役に立つ場合と逆に障害になる場合があります。
集団浅慮の研究で有名な心理学者アーヴィング・ジャニス 氏は、「集団凝集性が高く、クローズドな環境である、あるいは外部からのプレッシャーが大きい時など、いくつかの条件が重なった時に、集団浅慮が発生しやすい」と指摘しています。
そして「集団凝集性」は、宗教のような同一観念・思想を共有する信者集団では当然強くなります。
「集団凝集性」を比較すると、形骸化した伝統宗教 < 形骸化していない伝統宗教 < 新興宗教 < カルト系新興宗教の順で、新興宗教系とカルト系が最も強くなる傾向性があります。
また、クローズドな環境、外部からのプレッシャーを比較した場合も、形骸化した伝統宗教 < 形骸化していない伝統宗教 < 新興宗教 < カルト系新興宗教の順で、新興宗教系とカルト系のクローズ度が最も強くなる傾向性があります。
そして集団凝集性は、カルトのような「内集団・外集団バイアス」を高める組織・集団においては非常に強くなります。
反発する者を悪魔化しスケープゴート化して徹底攻撃して排斥するタイプの組織・集団においては、「ウチへの同化とソトの排斥」が強まるんですね。
つまりカルトは「集団浅慮が発生しやすい」条件を多く濃く有しているため、カルトが逸脱し集団退行現象を引き起こしたりするのは自然な結論といえるでしょう。
また個々の意見が対等で思想・価値感共に多元的な「世間」に対し、カルトは教祖の言葉が絶対で、また教義が信者の価値の基準になっているため一元的です。
そして集合知がよく機能する本質的な条件に「多様性」があるわけですね。トップダウン独裁型ではなくボトムアップ民主主義型の集団の方が集合知はよく働くわけです。
なので一元的な教義と絶対者の教祖のモノサシで現象を見ているカルトの場合は、集合知がよく機能する条件を既に欠いているわけです。
こうやって見てみると、集団浅慮が発生しやすい上に集合知もよく機能しないわけです。
「演繹的推論」では理論則で普遍的解を導くことで「絶対評価」を行うことが可能ですが、「既に証明された理論的な原理と正しい概念」を前提とするため、オカルトやスピはそもそも「演繹的推論」が成立しません。
自称ブッタ・自称神・自称霊言とか諸々の霊的観念なんていうものは、反証も実証も出来ず「演繹的推論」は不可能です。よって「帰納的推論」で蓋然的結論を導くことしか出来ないため、絶対評価は出来ず「相対評価」に止まるわけですが、
これはそもそも教祖を絶対的存在としていることが根拠がない決めつけであることを意味し、さらに霊的観念のモノサシで「誰々は悪魔だ」とか、「霊に憑依されている」云々の決めつけも全く根拠がないことを意味します。
その上、「帰納的推論」を用いて「複数の実際に観測された実例」から結論を導いた場合でも、怪しさがどんどん増す一方なので、世間の相対評価も酷くなるのは極自然なわけですね。
そして「人格」がどうとか「徳」があるとかないとか、善悪や美醜の問題などは本質が相対的なものであり、「人格異常」などを定義する際は「帰納的推論」を使うわけですね。
過去に何度か精神障害のラベリングに関するテーマで「疾患単位」と「類型概念」について書いていますが、「既に証明された理論的な原理」に当てはめるのが演繹的推論であるのに対して、
精神医学での精神障害は類型概念(いわば約束事)で、精神障害は身体的・生物学的水準(形而下)での原因究明が完全になされたわけではないので、演繹的推論は純粋な形では成立しません。
「精神障害の類型は理念型の役割を果たしている」 より引用抜粋
理念型とは
精神医学における理念型とは、複雑多様なヒトの心の有り様をよく観察し、その本質的な特徴を直観的に抽出し、それを再構成して理論化した概念です。オイゲン・ブロイラーが統合失調症という概念を提唱したわけですが、それはブロイラー自身が丁寧に観察した症例に基づいています。
いくつかの症例の観察を通じて、その中に連合障害・自閉・感情障害・両価性といった特徴を見出し、それをまとめたものとして統合失調症という概念を提唱したわけです。
また、このようにも考えられます。
統合失調症のモデル症例は実在しているわけですが、できあがった概念はその特徴以外のものが全て無視されており、その骨組み・構造だけが概念として抽出されているわけで、それ自身が実在するものではありません。
モデル症例は実在するものの、できあがった理念型はあくまで概念であって実在ではないのです。つまり、統合失調症と診断される患者さんはいても、統合失調症という疾患が実在するわけではないということになります。
理念型は「であるか、でないか」ではなく、「どれだけ当てはまるのか」ひとつの理念型を現実の数多くの症例に当てはめてみてわかることは、まさにぴったりと当てはまる症例がある一方、特徴の一部しか当てはまらない例も少なくないことです。
診断をつけるという作業において、しばしば医師の間で意見が分かれることも少なくありません。
理念型を使った診断では、ある症例について「であるか、でないか」という結論は本質的に述べることができず、「どれだけ当てはまるか」を問題にします。
現実の臨床場面では一人の患者さんに対して一つの病名をつける、つまりもっとも近いものを選ぶわけですが、ここで生じるのが境界の問題です。
統合失調症と双極性障害は、理念型としては全く異なる特徴を持っており、簡単に境界が引けるように思えるのですが、現実の臨床ではそうはいきません。
「どちらに当てはまるだろうか、統合失調症か、双極性障害か、しかしここの部分は異なるため…」となってしまいます。理念型を使った診断では、このような境界の問題が常につきまとい、このままでは混乱を避けることができません。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
理念型は「であるか、でないか」ではなく、「どれだけ当てはまるのか」なんです、だから完全帰納法と不完全帰納法でいえば「不完全帰納」です。
つまり精神障害や人格障害というものはその社会での相対評価であり、形而上の問題を含むものであり、「帰納的推論」によって導かれる、ということなんですね。
「帰納的推論」は前提となる事実の「理論負荷性」によって、客観性の絶対的根拠は厳密には成立しないため、本質的に相対的です。
精神障害は「それによって本人が日常生活や他者との関係性において苦痛を生じさせていたり、適応が困難な状態」でなければ特に問題にはされないわけです。
また人格障害は「他者との関係性(社会)の中で相対化されるパーソナリティへの評価」なので、社会生活において著しい困難とか他者とのトラブルとか有害な作用とかが確認されなければ、そもそも人格の問題にスポットは当たらないわけです。
なので関係した複数の人々が様々な被害を受けたとか、酷い目にあったとか、多くの人々が異常性を明確に感じるなどの相対評価の結果、人格の問題にスポットがあたる、というのは自然な流れであり、
そのような事実に基づく場合、印象操作による先入観が強く作用した結果の思い込みとは異なるのです。
そして「集合知」の質も、「多元的な価値観を持つ世間の多くの人」が否定的評価を見出す場合、この精度は高いと言えます。
また暴露情報を伝える関係者たちが、作り話ではなく実際に起きた現象に基づいて詳細に正確に伝えていること、
そして具体的な複数の関係者の経験則に基づく「帰納的推論」と、世間の集合知、さらに専門知に当てはめて総合的に「帰納的推論」を行うというプロセスであるなら、絶対性はなくても信頼度の高い結論とは言えますね。
1.仮説の肯定データ ⇒ 仮説を支持するデータ 2.対立仮説の肯定データ ⇒ 1.と相容れない仮説を支持するデータ 3.仮説の肯定データの否定 ⇒ 仮説を支持するデータを弱めるデータ
(中略)
議論や思考において問題となるのは、「対立仮説の肯定データ」と「仮説の肯定データの否定」を混同しやすいことです。3がいくら多くても、仮説の否定そのものにはならないのです。3が大量に見いだされてもなお、2が1より小さければ1がまだ最有力説なのです。
世間と対立するカルト系新興宗教の主張や、霊的世界観・教祖の「絶対性」の根拠を検証した場合、「演繹的推論」は成立せず、「帰納的推論」で考察しても遥かに貧弱で信頼性の欠片もなく、
「集合知」から見ても社会的信頼を全く得られていなどころかかなりの否定的評価を受けている、
そして複数の関係者の経験則・実例から「帰納的推論」を行った場合でも、「カルト系新興宗教の教祖と盲信者の異常性」は絶対評価ではなくても「信頼度が高く十分な説得力を得られている自然な結論」、と言えるでしょう。
まぁだからこそ、何をやっても結果がついてこない、いくら小手先で色々やろうが全然ダメなわけです。
当然です、「どっちが絶対的な白か黒か、どっちが完全か?」の理屈上の比較以前に、「信頼できるかどうか」で「全く信頼できない」という現実的な社会的評価と結論が既に出ているからです。
ところで、村田諒太さんが判定負けしましたが、プロや専門家だけでなく多くの人はおかしいと感じたでしょう。一般の人は細かい判定の採点の仕組みなど知らないわけです、でも素人でもアレはおかしい、と気づくわけです。
多くの強い違和感が生じていたからすぐに公式の批判となって、それがWBA会長を突き動かさざるを得なかった。
微妙なものはともかく、典型例とか明らかにおかしい時は、多くの人が気づくのです。この自然に感じる「違和感」は生き物としてとても大事なんですね。
まぁそれでも開き直って「は?どこに絶対的で完全なぐうの音も出ない根拠があるんだね、それを見せてから言ってほしいね」、という太い態度に出るのも自由なんですが、
そういう傲慢で反省もしない態度から生じる結果は、最も厳しい「自己責任」になるだけでしょう。
ではマジョリティとマイノリティの相対化はどうでしょうか、
マジョリティ基準での「適応・不適応」「正常・異常」の概念を反転させたらどうなるでしょうか?例えば「自閉症がマジョリティで定型発達(現一般人)がマイノリティだった場合」を見てみましょう。
以下は「自閉症スペクトラムとは何か- 千住淳 著」からの引用ですが、以下のような皮肉な診断基準が出るでしょう。
現代人にはびこる「定型発達者症候群」の診断基準
・他人の気持ちを自分の気持ちのように感じてしまう。・相手の行動を必要以上に真似る一人で遊べない。・本当はうれしくないプレゼントをもらったときにありがとうと言う。・物事をありのまま伝えることができず嘘を多用する。・他人と同じものを持つことにこだわる。
つまり、「共感性・協調性・同調性」があって「社交辞令やホンネとタテマエを使い分ける」などの「社会性」が発達している方は、「障害の疑いがある」のでメンタルヘルスへどうぞ(笑)となります。
そして「社会適応」という部分だけで見るのではなく、能力の質に注目したり、時代によっても障害の意味や役割が異なる、という相対化もよくありますね、例えば発達障害や統合失調症など。⇒ 人類進化において発達障害の人は重要だった
そしてこのブログでも「うつ」のカテゴリーで何度も紹介している「S. ナシア・ガミーさん」ですが、「狂気」に関する別の視点で書いている本「一流の狂気」もおすすめです。
物事には正と負があるだけでなく、一般的に負といわれるものが負だけの意味や否定的な価値しか持たないのかというと、それだけとは私は考えてなく、どの視点で見るかによって意味・作用・価値の捉え方は変化すると考えます。
ただ際限のない価値相対主義に陥って、「犯罪も人殺しも何でも個性でOK」みたいな完全にイッちゃってるレベルは無理です、まぁ言うまでもないですが(笑)
まとめると、価値相対主義というものの持つ本質、「複数の多様な価値観がどれも絶対性を持たず並列し共存し対等な関係性と正当性を持つ」を、全ての対象に無制限に適応した場合、
「明らかに有害で受け入れられない性質のもの」すら断固否定することが出来なくなります。つまり基準となる軸・線引きがないということは、何をしても相対的に等価とされ明確な白黒・優劣に分けれないため、
「際限のない相対主義」は大きな逸脱に向かう可能性、あるいはそれを正当化するために悪用されることがある、ということですね。
なので、相対主義・絶対主義といっても程度の差・質の差があり、また「絶対主義と相対主義の組み合わせ方」や使い方次第でもその質は変わります。
ここでもう一つ「存在・現象」の捉え方の質的差異となるものが、「独我論」と「実在論」です。
独我論にも「存在論的独我論」と「認識論的独我論」がありますが、「実在論」にも観念実在論や素朴実在論、科学的実在論といった分類があります。
はじめに「ウィトゲンシュタイン」の捉え方を紹介し、次に科学的実在論に関する動画もひとつ紹介しています。
語り得ぬものについては沈黙しなければならない(ウィトゲンシュタイン)
言語の限界性、そして思考で把握出来るもの出来ないもの、という限界がある、それは言語への否定でも思考への否定でもなく、それが適応できる領域とそうでない領域がある、と言えますね。
「価値相対主義と価値絶対主義」 より引用抜粋
徹底された独我論と純粋な実在論が反転するならば、価値絶対主義と価値相対主義は一致する。すなわち、徹底された独我論からすれば価値絶対主義であり、純粋な実在論からすれば価値相対主義である。そして、これは相互に無限に反転する。
価値絶対主義とは、一神教のような原理主義に限られない。価値相対主義を前提としつつも、「自分はその中の1つの立場を正しいと思い、それを支持する」と言えば、それは価値絶対主義に反転する。
それと同時に、1つのオピニオンを絶対的なものとして、別の位置にあるオピニオンを説得しにかかることによって、それは自らの相対性を証明してしまう。
徹底された独我論からすれば、自分では価値相対主義を前提にしているつもりであっても、あるオピニオンの1つないし複数を支持している状態であれば、それは価値絶対主義である。
これに対し、純粋な実在論からすれば、自分では価値絶対主義を前提にしているつもりでも、他の人が別の価値観を支持していること自体を認めている状態であれば、それは価値相対主義である。
オピニオンや立場の内容に入り込む限り、価値相対主義と価値絶対主義は相互に無限に反転してしまう。
ここで絶対的なことは、次のことだけである。「価値相対主義」という文字で価値絶対主義という意味を表すことはできず、「価値絶対主義」という文字で価値相対主義という意味を表すことはできない。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 価値相対主義と価値絶対主義
科学的実在論: 独立性テーゼと知識テーゼの両方を主張する立場。反実在論: 「独立性テーゼ・知識テーゼ」の知識テーゼを否定する立場
記事の終わりに、多元主義と相対主義のテーマに関連するサイト・記事・PDFを参考として紹介しています。
「物理法則そのもの」に関しては基本的に私は「一元主義的絶対(普遍)主義」の捉え方で、社会的な生物であるヒトの根本にある快楽原則と現実原則などの原理は「多元主義的絶対(普遍)主義」の捉え方です。
ただ、先に紹介した「地動説・天動説」の記事のように、観測の精度の問題や人の基準の相対性によって「一元主義的相対主義」の捉え方も出来るわけです。
「倫理学概論 I 第3回 倫理に関する相対主義」 より引用抜粋
●多元主義とは
相対主義としばしば混同される考え方に「多元主義」があります。「多元主義」とは〈複数の原理のどれもが正しいことがある〉と考える立場のことで、〈正しい原理は一つに絞られるはずだ〉と考える「一元主義」に対立します。
すなわち、多元主義と一元主義は「究極的原理は一つなのか複数なのか」という問題をめぐって区別されます。
●相対主義とは
「相対主義」とは、〈正しい倫理的原理は人(社会、文化、時代)によって異なる〉と考える立場のことで、〈人(社会、文化、時代)を通して変わらず普遍的に正しい原理がある〉と考える「絶対主義(普遍主義)」に対立します。
すなわち、相対主義と絶対主義(普遍主義)は「倫理的原理の妥当性は普遍的なのか限定的なのか」という問題をめぐる区別です。
(中略)
多元主義と相対主義は、問題にしている論点が異なるので、必ずしも重なりません。多元主義と相対主義をめぐる立場としては、多元主義か一元主義か、相対主義か絶対主義(普遍主義)か、の組み合わせで、2×2=4通りの立場がありえます。第一に、〈正しい原理は一つで、人(社会、文化、時代)を通して変わらない〉と考える「一元主義的絶対(普遍)主義」があります。
第二に、〈複数の原理が、人(社会、文化、時代)を通して変わらず正しい〉と考えるのは「多元主義的絶対(普遍)主義」です。
第三に、〈正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わるが、それぞれの人(社会、文化、時代)ごとに正しい原理は一つに絞られる〉と考えるなら「一元主義的相対主義」になります。
第四に、〈正しい原理は人(社会、文化、時代)によって変わり、しかもそれぞれの人(社会、文化、時代)にとって正しい原理は複数ある〉と考えるのが「多元主義的相対主義」です。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
〇 相対主義と独我論