自己統合の多元性 「ありのまま」と「あるべきもの」
今日は、「自己統合」の多元性と「ありのまま」と「あるべきもの」がテーマです。この記事は「自己統合」に関する補足記事であり、そして互いに対立的なものとなりやすい「あるべきもの」と「ありのまま」に関する補足記事でもあります。
以前、「硬直性の自己統合」や「べき思考」に関する記事を書きましたが、今回は、それとは違う角度で「自己統合」「あるべきもの」と「ありのまま」を考察したものです。「硬直性の自己統合」に関する過去記事は以下リンクよりどうぞ。
⇒ 心の軸がブレやすい人 自己統合と「知・情・意」・科学の役割
まず、「自己」という感覚主体は何でしょうか?そしてそれはどのように発生し、どのような構造性を有しているのでしょうか? このテーマは過去にも何度か触れましたが、
神経学者のダマシオの「三つの自己」と私の考察する自己はほぼ重なるので、今回少し整理も兼ねてサクッと説明しておきますね。
最もベースとなる脳幹・脊髄・内臓を中心とする無意識領域で活動する「原自己」、これは「自然自我」の元になるもので、「原自己」=「身体的自己」というのはダマシオの「三つの自己」の最初のもので、最も動物的な原始的なもの、と考えます。
過去に書いた記事の後半部でもそのことに触れていますので、リンクを貼っておきますね。⇒ ストレスとホメオスタシス オートポイエーシスな身体・心・環境・システム
「原自己」は無意識下で活動する「前意識的な身体意識」が統合されたその表象であり、そして原自己の生起によって基本的な情動(感情)が生起し、その認識によって「情動・感情の中心性となる自己」が生まれる、これを「中核意識」といいます。(このブログでは「自然自我」という表現を使っています。)
そしてさらに発達したものとしての「自伝的自己」の生起によって、ヒトは「人間」になるんですね。これは「精神」「社会的自我」とも関連するものと考えます。
このブログでは、無意識は生物学的な遺伝による「生命の無意識」と、より人間的な文化的情報(ミーム)を含んだ無意識を分けています。
そして自然自我は生物学的なものが優位で、内奥では自然界に繋がり属するものです。社会的自我は文化的情報(ミーム)を含んだ人間的なもので、それは社会に繋がり属するものです。
「自然自我の調和と回復」は「個の心身の調和バランス」を重視し、生物学的な自然調和を重視します。なので平たく言うと「ありのまま」で「個の自己肯定感」がベースです。
ところで、「アナと雪の女王」が日本で大ヒットしたのは、「ありのままで」というあのキーワードが原因でしょう。「ありのまま」が抑圧され過ぎている在り方への反動なんでしょうね。
話を戻しますが、自然自我の調和と回復に対し「社会的自我の調和と回復」の場合は、「全体と個の調和バランス」を重視し、「社会的な調和」を重視します。なので「あるべきもの」がベースであり、
「様々な相違のある他者との関係」の中で、そして「様々な干渉」の中で、「自他分離した自己肯定感」を調和バランスする「成熟した自己形成」へ向かいます。
なので「ありのまま」への囚われは「あるべきもの」とよく反発します。ですが、どんな社会、あるいは職業・分野であれ、その社会・その道・その分野に適した「社会性格」「役割性格」があり、それを大きく逸脱してしまうと不調和となり、バランス異常になったり、自己実現の失敗になったりします。
そして逆に、「あるべきもの」への囚われも「ありのまま」とよく反発しますが、本来「あるべきもの」も「ありのまま」も、どちらも必要であり、互いに対立し分離するようなものではないんですね。
このあたりの本質的な部分を、エーリッヒ・フロムは「愛するということ」という有名な著作の中で書いています。それを言葉を置き換え、このブログで書いてきた複数の概念で説明すると以下のようになります。
「母の無償の愛」= 「女性原理」で「存在そのものが全的に受有される」ということを通して「ありのまま」は育ち、これによって自然自我のベースが歪みなく調和・統合される。この時期に「存在するだけで愛される」ことを通して「ただ在ることそれ自体の肯定感」がシッカリと形成されるんですね。
そして次の段階で「父の条件付きの愛」=「父性原理」によって、存在は社会化され「あるべきもの」へと最適化されることで「社会的自我」のベースが調和・統合される、
この時期に「存在は自分とは異なる他の存在と調和することを学び、受動的ではなく能動的に生きることで自己実現できる」という活動を通して、「自他分離した自己肯定感」が形成されるのです。
この時、もし先に「ただ在ることそれ自体の肯定感」がないと、あるいは自然自我のベースが調和・統合されていないと、「あるべきもの」が「ありのまま」を抑圧し分離させる作用になるため、存在は自己愛で自身をバランス化する傾向に向かいます。
そのためイビツな同化や過剰適応となって「自己分離」し、自我が慢性的に不安定化するために「硬直化した自己統合」に向かうことでそれを安定化させる、という生き苦しさのスパイラルに向かうわけですね。
それによってさらに抑圧・分離化された「ありのまま」が、存在に問いかけてくることで葛藤が生じ強められますが、それは「無意識のサイン」であり、「最適化=存在の調和回復」へ向けた作用なんですが、
それを見過ごしたり、不適切な応答をすることで、内的な問題が外的に現象化してくるようになるのです。
本当に人を愛することができるようになるためには、自分自身を愛することができなくてはいけないとフロムは語るのは、自己肯定がベースになければ、他者という存在を肯定することは出来ない、ということなんですね。
そしてフロムは、愛というのは、そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである、愛は「受動的な感情」ではなく、「能動的な活動」である、と語りますが、
これは「愛すること」が未熟なナルシズムの自己愛ではなく、「高められ成熟した生命の表現」としての存在愛に向かう活動である、ということを表現しています。
ヒトの自我形成の力学に関して、フロムの考察は部分的には本質を突いたものと感じますし、その部分に関してはとても素晴らしいのですが、力学の全体性を見ているものではないとも感じます。
ヒトは、大自然の中で生きている動物の一種であるので、生物学的なハード面の健全な発達として「原自己」と「自然自我」の調和と統合がベースに必要です。
と同時に、ヒトは社会の中で自己実現する生き物であり、それぞれの分野・役割・立場・社会・時代・環境に調和したソフト面の調和と統合も必要なんですね。
自然自我の調和は、生物学的調和・統合であり、もちろんこれは大事な大切なベースですが、これを人間の全てだとすると、それは独りよがりな自己統合や「ありのままという名の自己中さん」を大量生産することにも繋がるでしょう。
「あるべきもの」は「ありのまま」を抑えつける作用にしかならない、というわけではないんですね。「ありのまま」を「より優れたありのまま」にするために、あるいは、「ありのまま」を「より全体と調和したありのまま」にするために、
人間という動物は、「訓練・鍛錬・努力・学び」という名のもとに「あるべきもの」を自らの「ありのまま」に課す、そういう稀有な生き物なんですね。だから人間の「ありのまま」は短いタームで驚異的に成長・変化・更新できるんです。
「あるべきもの」それ自体が悪いのではありません。それがただの観念的な囚われや束縛を強化するだけの作用しかない時や、外発的な動機づけが過剰な時、私たちは「あるべきもの」によって「ありのまま」を見失ってしまうんですね。
「あるべきものへ向かう」が、内発的なモチベーションと「ありのまま」それ自体の成長・更新へ向かう運動であるのならば、それは「ありのまま」を見失うこともなく、また束縛を強めたりはしないのです。
ありのまま(自然)にとって最初は「不自然」である「あるべきもの」が、「あるべきもの」へたどり着いた時、それは『より高次のありのまま(自然)』となるわけです。
優れた先人たちの体得したもの、そして過去から現在に引き継がれたその集合知が結集した「型」を自身の血肉となるまで習得する過程は、「あるべきもの」へ向かう過程であり、『より高次のありのまま(自然)の体現』なんですね。
私たちのミーム的進化も、その本来の姿は過去の膨大な先人たちの積み上げた「見えない財産」の計り知れない「恩恵」によるものなんです。
「当たり前のようにある、その無量ともいえる恩恵」に気づくのであれば、ヒトが他の野生動物と同じように「ただのありのまま」であることへ執着しこだわることは、実は『ヒトのありのまま(自然)』への否定であり「退行」なんだ、というパラドックスに気づくでしょう。