「おひとりさま」という生き方  レッテルと同調圧力からの解放

 

「おひとりさま」という生き方は私はこれからの時代に必要ですらあると思いますね。どんどんやって慣れておいた方が良いと思うくらいです。(ただ「孤独」には個々の置かれている状態によっては別の負の面もありますが、今回はそこはテーマではありません。)

 

私は「おひとりさま」するときは一人旅とか、個人で街に出る程度なんですが、一人バーベキューとか一人カラオケとか一人遊園地は経験ありません。

 

ほどほどの時間であれば楽しいのですが、あまりにその時間が長すぎたり、「場」によっては寂しく感じることがあります。

 

そして考えるんですね「身内との関わり以外はなくてしかも365日殆どがおひとりさまっていう人」もこの日本にはきっと沢山いるんだろうけど、それは楽しいのだろうか?って。

 

「おひとりさま」っていうのはきっとそういうことではなくて「楽しんでそれをやってる人」「選んでやってる」がメインだと思うんですね。

 

選んでやってるから平気なわけで、仕方なくなってるならキツイはずなんです。 だって完全に孤独だけしか存在しないならそうでしょう。

 

 

レッテルと同調圧力からの解放

 

「リア充・キョロ充・ぼっち」というネットスラングがありますよね、ああいうのは世界にはないレッテルの貼り方で、日本に特有の細かいレッテル張りのようです。

 

まぁそうはいっても海外でも別の言い方で「イケてる人、イケてない人」みたいな表現のくくりはあるんでしょうけど、

 

私の周りの様々な方面での成功者を観察していると、その中でも優れた人ほど「リア充・キョロ充・ぼっち」とか細かいレッテル張りはしませんね。大きなレッテル張りはありますが。

 

またそういう人は底辺とかクズとか人に向かって言いません。私はそういう人たちを何十年単位で見てきましたが、本当に優れた成功者ほど腰が低かったり、人をスグに見下したりせず口汚く侮蔑したりは余程の事でもない限りしませんね。(もちろん例外もいますが)

 

じゃあどういう人がするのか?っていうと、自我肥大化した成功者とか、中途半端に成功した人とか、元々性格が悪い人とか、コンプレックスが強い人とか、

 

成功とは程遠くて単に人との比較でしか優越感を感じれない人とか、まぁ結局のところ「他はみんな駄目、俺様が一番だ!」を言いたい、そんなタイプの人がそういうことをやっていますね。

 

 

「群れて行動しないと不安で、孤立や一人になるのが怖くてただ表面的な調和に迎合していた日本人」にとって、

 

「個」であることを怖がらず楽しむ、という「おひとりさま」という生き方のスタイル変化は、むしろずっとまともな流れですね。

 

戦後、日本は製造業の仕事に適した社会的人格になるように教育されてきました。その一つが「事務処理能力」です。

 

それは与えられた課題を短い時間でどれだけ正確に解くかという、偏差値重視の社会、それが人間の優秀さの基準になりました。

 

そしてもう一つが、日本の製造企業の現場での集団秩序を保つように、集団調和型の人格を教育されてきたんですね。それが「素直さ」「服従」「忍耐」「同調性」ですね。

 

これによって「上から言われたことには黙って従う」、「みんなが一緒」が正しい在り方だとされました。 その歪みは、例えば若者によるカルト事件でも現れました。

 

あのカルト事件が大きな社会的衝撃を生んだのは、「自分の頭で考えずトップと組織に依存して動くことしか出来ない日本人的なカルト」だったからなんですね。

 

「社畜・イエスマン・空気を読んで行動する」、まさに日本型の「社会適正」ですね。ですが時代は変わってきました。現代は戦争なき平和な日本ですが、本質的には「情報化した戦国時代」です。

 

「社畜・イエスマン・空気を読んで行動する」は終身雇用制を生きた団塊の世代の名残であり、会社が「存在意義を確認できる居場所」でもあった彼らにとっては意味・価値はあったでしょうが、

 

会社にずっと定年まで勤めるという幻想は今はどこにもありません。今や時代の流れは変化が激しく、環境もすぐにガラッと変わりやすい不安定で動的な社会なんですね。

 

変わらない環境に適応するための能力と、変化の激しい環境に適応する能力は同じではありません。

 

集団に合わせてしか行動できない意識状態では、大きな変化に対応できないんです。素直に上の人の言う事だけ聞いてただ愚直に頑張っていれば良かった時代は終わりました。

 

変化に合わせて自分をバランスさせなければやっていけない時代になったんですね。 誰もあてには出来ない変化の激しい実力社会なんです。だから「戦国時代」に似ているんですね。

 

そういう意味でも「おひとりさま」という生き方に慣れていく方が集団行動や組織依存的な意識の人よりも変化に適応しやすいんです。

 

 

私の周りの成功者達も孤独に強い人ばかりで、若い頃はむしろ変人呼ばわりされていたくらいの人の方が多いんですね。

 

そして一人になることを恐れない、例え一人でも黙々と集中してきた人ばかりです。優れた芸術家でも研究者でも企業家でもアスリートでも「おひとりさま」の時間・時期って長いと感じますね。

 

過去の製造業的な適正人格、現在の大企業のサラリーマン的な価値観、そして組織の役人的な考え方による社会的成功や優劣の判断基準ばかりに囚われるから、偏った狭い人間のレッテル張りと同調圧力になっていくわけです。

 

そして不思議なことに、そうやって昔は馬鹿にされていた人が成功しても、「リア充・キョロ充・ぼっち」とか勝ち組・負け組とかクズとか底辺とか売国奴とか、やたらめったら人に向かってそういうことを言わないものなんですね。

 

そして発言は中道的で右翼的でも左翼的でもありません。

 

ですがそういう人が、「国を想う」「国のために」とか言っている人なんかよりも、創造的・生産的な仕事の働きで社会にシッカリ貢献・還元しているものなんです。

 

一般人を見下してふんぞり返っている「勘違いお偉いさん」や、ただ組織の上部で高給を貰って偉ぶってる自己肥大人間等とは大違い、正反対なんです。

 

だから「おひとりさま」という生き方には否定的なスタイルもあるかもしれませんが、私は良い意味でそのスタイルを応援したいです。

 

「おひとりさま」という生き方  レッテルと同調圧力からの解放” に対して2件のコメントがあります。

  1. ノムラマサカツ より:

    頑張ります。

  2. ノムラマサカツ より:

    ここに書かれている、肯定的な?「おひとりさま」を、目指そうと思いました。

    今度は、負けない。(自分をシンプルか出来る。)
    ≫https://plus.google.com/102592967688884823261/posts/CfV1b75JtGa

    どちらにしても、自己責任。

    がんばります。

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