「日本人の在るべき姿」という幻影
ブータンという国が以前日本でとても話題になりました。日本だけでなく世界でもブータンの国民の幸福度というテーマで話題の国でした。ですが今、ブータンという国のあのイメージは徐々に崩れつつあるんですね。
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多くの知識人や歴史・思想に詳しい方々が、右や左の思想の主張をされています。それぞれに互いを罵倒し合いながら否定し合い、世界が国が家庭が人間がこうなったのはお前らのせいだ!と互いに言い合っています。
「左側の人が日本を駄目にした、右側の人が駄目にした、宗教が世界を人を分裂させ駄目にした、無宗教や唯物論者が駄目にした、フェミニストが駄目にした、最近の日本人が日本を駄目にした」
まぁ部分的にはそれぞれに否定的な面や肯定的な面があったり、一部の人々による極端な活動や言動によって不和・不調和が拡大する、という力学はあっても、
ある属性に含まれることを持ってして人や存在の全てが判断・規定される、というほど人間・心・精神は単純でも固定的なものでもないのです。
例えば「今の日本人」には貞操観念がないとかって堅苦しい論調で語る人もいますが、日本人は元々性に対してかなりおおらかな民族なんですね、明治より前なんて、ホントある意味今よりも全然おおらかです。
ちょっと調べればすぐわかることです。それを「日本人はかくあるべし」的に、まるでそれが古来からの伝統的な日本人の姿だったと言わんばかりに一方的に語るから無理があるんですね。
そんなの100年ぽっちくらい前に海外からの影響で取り入れられた「日本の外から付加された新たな倫理観」に過ぎないものなんですよね。日本人は「結構おおらかな民族」だったんですよ、昔は。
だからブータンにどこかよく似ているんですよね。日本の場合は人口も多いし海外文化からの影響及び吸収が加速度的に行われたから、ブータンとはまるで似ても似つかない国に見えますが、
心情の深い部分がどこか似ていると私はそう感じます。そして今ブータンという国に見え始めている崩壊の兆しとその過程には「人の幸不幸と一番関係あること」の本質的なテーマが潜んでいると感じます。
日本は急速に変わっていきましたが、ブータンは日本の急速な発展のプロセスをスローモーションにしたようなゆっくりした変化で変わっていくことでしょう。
今ブータンでは農業と田舎からの若者離れ、そして高学歴な若者の野心が外へ外へと向かい始め、そしてテレビ・メディア情報による欲の刺激と自己肥大化がどんどん起きているわけですね。
右や左の思想、宗教や無宗教が人の幸不幸と一番関係あること?
こういうことが続いて世代交代していくうちにブータンもまたライフスタイルや文化の形を変えていくわけですね。
そしてやがては家庭・家族の希薄な人間関係、そして都市開発による自然破壊や地方の過疎化に繋がっていくわけです。
そしてそれが続いていくだけならば、ブータンの人々もいずれ彼らの平和と幸福の本質だったはずの「おおらかさ」を失っていくことでしょう。
人の幸不幸と一番関係あるものは「右や左の思想」のどちらでもありません。そのどちらであってもなくても幸福は存在し、不幸も存在するからです。
人の幸不幸と一番関係あるものは宗教や無宗教でもありません。そのどちらの生き方であってもなくても幸福は存在するし不幸は存在するからです。(まぁカルトとか極端・過剰な右左のイデオロギーは除いての話ですが。)
人の幸福と一番関係ある本質の部分は、思想の形がどうとか、宗教がどうとかではなく、人間が「おおらかさ」を失わずに支え合って暮らしている極普通の自然な姿の中にあります。
そしてこうやって欲に刺激され外に外に向かって、支え合って暮らすことを失い、より分離化して自己肥大化に向かうその先には、おおらかさを失った闘争的な意識の過剰な姿があることでしょう。
そしておおらかさを失った闘争的な意識の過剰は、過酷な競争社会を作り出し、その中で生きる現代人の複雑な葛藤意識と内的な不調和に置き換わっていくことでしょう。
外的に建前ではいくら調和しているように見せても、実際は激しく分離した不調和の人間集団の社会を作り出すでしょう。
「右や左の思想」が重要性を増してくるのは、そういう複雑な葛藤意識にハマって内的・外的に不調和化した現代社会の人間たちにとってであり、
宗教や無宗教の是非の議論にやたらこだわる姿も、そういう複雑な葛藤意識がある時なんですね。
その国の自然・文化・気質と生活スタイルが激しく分離していなければ、人は本来もっとおおらかで幸福でしょう。
「幸福そのものでない人」、「幸福のあるべき形の正しさにこだわってる人」は、過激で硬い観念的な右・左の主張や宗教の是非などの不毛な論議にいつまでも明け暮れるていんですよね。