老害の解毒 高速・効率化社会への過剰適応と高齢化社会の陰陽
今回は記事前半で「老害」をテーマに、後半では「高速・効率化社会への過剰適応」と「高齢化社会の陰陽」をテーマに書いています。
まず、増加する「暴走老人」に関するニュース記事を紹介します。
「増加する“暴走老人”の実態 若者の犯罪数上回る ささいな事から残虐事件にも… 」 より引用抜粋
警察庁の調査によると、全国の警察が今年上半期に摘発した刑法犯のうち、65歳以上の高齢者は2万3656人。対して14~19歳は1万9670人で、年齢層別に統計を取り始めた1989年以降、初めて半期ベースで高齢者が10代を上回った。
前述の事件が示すように、摘発された高齢者のうち、粗暴犯は280人で前年比10・8%、殺人や強盗などの凶悪犯は20人で11・8%とそれぞれ増えている。
「昔であれば、相応の年になったら『そろそろ隠居したら』などといわれた。だが、いまは周囲の人間も、家でおとなしくしているといった『老人の役割』に期待しなくなっている。
その分、彼らは社会に出ていき、トラブルになることが多くなる。独り身の高齢者が増えているのも原因の1つだ。家族がいればブレーキがかけられるが、1人暮らしでは糸が切れたタコに等しい」(土井氏)
(中略)
今後、高齢化はますます進んでゆくが、土井氏は「社会に高齢者を満足させる活動の場をつくることが大切。しかし、若者ですら職にあぶれることがある以上、それも難しいだろう」と話す。かつての「猛烈社員」「企業戦士」がめぐりめぐってトラブルメーカーに。高齢者犯罪の真相は実に皮肉だった。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
関連する過去記事も以下に紹介しておきます。
過去記事 ⇒ 「無意識」の中身は親も子も社会も変わらない
ところで「老害」というものはどのような人のことを言うのでしょうか? 以下「哲学ニュースnwk」より引用・抜粋です。
・「俺が中心」
・人の話を聞かない
・自分が一番正しいと思い込んでいる
・追い詰められると怒鳴って話を終わらせる
・怒鳴ったあとで気まずい空気になると逃げる
・上から目線で他人を馬鹿にする
・自分の意見が通らないとふてくされる
・「待つ」ということができない
・親切の押し売りをする
・自分より若い世代の意見には耳を貸さない
・権威や地位のある人の意見は聞く
・「金を払えば何を言ってもいい」という考えを持っている
・「こっちはお客様」という歪んだ特権意識を持っている
・会社生活を家に持ち込み、妻や子どもを部下扱いする
・入社時からずっと会社生活だったため、それ以外の分野で人間的に 成長できていない
・定年して自分でご飯が作れなかったり、奥さん任せになってしまう のが良い証拠
・全て自分の力で勝ち取ってきた人は物腰が低いが、会社にぶら下が ってきた人ほど厄介になる
・自分で行動しないくせに口だけ動かして人を使おうとする
なるほど、これは実に的確にポイントがまとめられています。笑
「日本の老年人口指数」は 40.532% で世界ランキング第1位、そして「日本の人口1千人あたりの出生数」は 8.20人で、世界ランキング最下位。
◇ 関連外部サイト記事の紹介
〇 日本の超高齢化を「見える化」したらやはりトンデモなかった
つまり世界トップの少子高齢化社会です。それゆえに、老害の否定毒に遭遇することは既に逃れ得ない確率の高い現実の一面でしょう。
記事前半部はお笑い込みで、「毒をもって毒を制する」、老害の解毒のために厨ニ病の力でこれを全力で相殺させてみましょう。
「老いた者のズレた思い込み・否定的な固定観念」に対して、まともに付き合って考えすぎて囚われても疲れるだけです。人は簡単には変わりませんし、まして老人ともなればまず不可能であると考えていた方がよいでしょう。
「老いた者のズレた思い込み・否定的な固定観念」に対しては、「若き者の勢いのある創造的なズレた思い込み・固定観念」で相殺しましょう。(厨ニ病のセリフは厨ニ病BOTより引用・抜粋です。)
○ 老害の態度「俺が中心」
□ 厨ニ病の切換えし「俺は、神だ!! 全宇宙の神だ!!」
○ 老害・ 人の話を聞かない
□ 厨ニ病「知ったらもう元には戻れない…それでも聞くというのか…?」
○ 老害・自分が一番正しいと思い込んでいる
□ 厨ニ病「ククク……相変わらずだ ね君は……」
○ 老害・追い詰められると怒鳴って話を終わらせる
□ 厨ニ病「俺の圧倒的な能力の前にひれ伏せ。…そして砕け散るがいい!」
○ 老害・怒鳴ったあとで気まずい空気になると逃げる
□ 厨ニ病「フハハハ!その程度の攻撃で私を倒せるとでもおもったか!」
○ 老害・上から目線で他人を馬鹿にする
□ 厨ニ病「お前にはこの闇の一族の咆哮が聞こえないのか?」
○ 老害・自分の意見が通らないとふてくされる
□ 厨ニ病「哀れだな…”能力を持たぬ者の運命”ってのは…」
○ 老害・「待つ」ということができない
□ 厨ニ病「ふん…… 所詮人間が行き着く領域なんて こんなものだ……」
○ 老害・親切の押し売りをする
□ 厨ニ病「よろしい… ならば戦争だ」
○ 老害・自分より若い世代の意見には耳を貸さない
□ 厨ニ病「邪気眼を持たぬ物にはわからんだろう……」
○ 老害・権威や地位のある人の意見は聞く
□ 厨ニ病「皮肉だね 悪党の血の方が綺麗な花が咲く…」
○ 老害・「金を払えば何を言ってもいい」という考えを持っている
□ 厨ニ病「お前の“闇の力”を俺に貸して欲しい…」
○ 老害・「こっちはお客様」という歪んだ特権意識を持っている
□ 厨ニ病「光輝の刃よ!仇なす愚者共を終焉へと導け!」
○ 老害・会社生活を家に持ち込み、妻や子どもを部下扱いする
□ 厨ニ病「…そう、また始まる……終ることのないレクイエムが…」
○ 老害・入社時からずっと会社生活だったため、それ以外の分野で人間的に成長できていない
□ 厨ニ病「これが世界の選択か」
○ 老害・定年して自分でご飯が作れなかったり、奥さん任せになってしまうのが良い証拠
□ 厨ニ病「もろいな。 私と踊ろうというのなら、まず人を超えることをお勧めするよ。」
○ 老害・全て自分の力で勝ち取ってきた人は物腰が低いが、会社にぶら下がってきた人ほど厄介になる
□ 厨ニ病「慟哭の闇が拡散される前に全てを終わらせよう……」
○ 老害・自分で行動しないくせに口だけ動かして人を使おうとする
□ 厨ニ病「僕は振り返らない、ただ進むだけさ…」
○老害
□ 厨ニ病「この限りなく続く漆黒の大地を、俺は変えてみせる…!」
◇ 関連外部記事の紹介
ここで少し話を変えて、「老害」と「健全な高齢者の自然な老化現象による脳機能や身体能力の低下」を混同しないように分けておきますね。
あなたも私も過去は子供で未来は老人です。それが人間と言う生き物の逃れられない悲しき宿命か!です。笑
このブログでは比較的負荷の少ない運動・エクササイズを紹介していますが、それは心・精神のバランス異常への補足のアプローチの意味だけではなく、「運動不足」というものは脳以外にも、体全体(肌、骨、内臓、血管など)の老化を早める原因にもなるからです。
元々動物であるヒトの体は複合的に動くように出来ています。植物のように一定の形でほぼ止まっている、じっとするようには出来ていないのです。なので複合的に使わなければ機能が衰えていくんですね。
そしてワンパターン・マンネリ過ぎる生活も脳の「慣れ」によって鈍化するため、パターンに適度な変化を与えつつリフレッシュする、というちょっとした工夫を加えることが有効ですね。
⇒ ウォーキングが脳の老化を防ぐ 運動量が多いほど認知機能は改善
⇒ 認知症予防運動 拮抗体操・コグニサイズ・ウォーキングで歩く脳トレ効果
高速・合理化社会への過剰適応
高速であることは「悪いこと」ではありません、便利で快適でスムーズであること、その背景にある効率を考えた合理性的思考も。
ですが、のんびり・ゆっくりしていること・非効率的な不便さも別に「悪いこと」ではないんですね。おじいちゃんやおばあちゃんの「ゆっくり・のんびり」に癒されることもよくあります。
緊張と弛緩のバランス関係のように、息も抜けない目まぐるしさだけでは、心も眼差しもギスギス・ピリピリ・イライラでセッカチになり、デジタルで平面的な思考になり、
一面的には合理的で適応的な姿ですが、そこには深み・広がりが生まれず、様々な「質」が見落とされます。
私は大都会と大自然を行き来しながら、大都会ならではのスピードと正確さ・多種多様な情報、そして発展の多様性を感じますが、
非効率的にゆっくり時間をかけることの中にも様々な豊かさの要素が満ちていることをよく感じます。「不便さ」の中に在る別の豊かさを発見することもよくあります。
効率と合理的思考、そして現代の飽くなき消費社会での情報と刺激過多の感覚から見て「ここには何もない」、と言われるような「空間・場」にも、多くの豊かさを感じることがよくあるんですね。
「教育と経済・社会を考える第5回 教育と経済成長」より引用抜粋
カール・オノレイは『スローライフ入門』で次のように指摘している。わたしたちは角を曲がるたびに欲望をくすぐられ、できるだけ多くのものを消費して、できるだけたくさんのことを経験しようとつとめている。
……アートの講座を受け、ジムで身体を鍛え、新聞を読み、ベストセラー・リストに載った本を手当たり次第に読み、友人と外食をして、クラブを組織して、スポーツに興じ、何時間もテレビを見て、音楽を聴き、家族と過ごし、
最新流行の服や電子機器を買い、映画を見に行き、パートナーと親密な時を過ごしてすばらしいセックスを体験して、遠くまで出かけて休暇を楽しむ。
……その結果は? 自分が人生に求めるものと、実際に手に入れることができるものとの間に何のつながりもないことに苦しみ、それが、時間がじゅうぶんにあったためしがないという感覚を育んでしまっているのだ。
(P.49-50)子供たちが生まれながらにスピードや生産性に取り憑かれているわけではない――わたしたちがそうなるように育ててしまったのだ。……学校の教師は、時計を気にしながら暮らしなさい、時間はできるかぎり効率的に使いなさい、と教えこむ。
それに拍車をかけるように、親たちが子供たちの予定表にびっしりと課外活動を詰め込んでいく。すべてのことが子供たちに発しているメッセージは、「少ないことで多くを得ることはできない」、「速ければ速いほどいい」、というものだ。
わたしの息子がはじめておぼえた言いまわしにも、「はやくしなさい!」「ぐずぐずしないの!」があったほどだ。(P.315)あわただしい暮らしのツケを払わされる子供たちが増えている。
最近では、たった5歳の子供がストレスからくる胃のむかつき、頭痛、不眠症、鬱病、摂食障害に苦しんでいるのだ。“常時接続”の社会で暮らす人間が誰でもそうであるように、現代には睡眠時間が極端に少ない子供たちが大勢いる。(P.317)
消費の「高速化」が、生産の「高速化」によって大量に生産される商品の需要を作り出し、経済成長に貢献している(「第12回 暗黒の情報社会と教育 10.「高速化」する生活」参照)。
そして、子どもたちに「高速化」という行動様式を身につけさせることによって、教育は経済成長に貢献しているのである。高速で勉強して、試験で高速に解答しないと、学校で「落ちこぼれ」になってしまい、
高速で仕事をして、高速に成果を出さないと、会社で「落ちこぼれ」になってしまう。ただし、消費と生産の「高速化」による経済成長が人間に幸せをもたらすかどうかは疑問である。
経済成長とはGDPが増えることであるが、どこかに穴を掘って、埋め戻すというような全く無意味なことを行ってもGDPは増えるのである。人間の本当の幸せにつながるのは「GDPの量」ではなく、「GDPの質」である。
どれだけ作ったのか(使ったのか)ではなく、何を作ったのか(使ったのか)が問題なのである。
なお、教育には、商品の消費に必要な知識・能力を身につけさせることによって、消費の拡大を促し、経済成長を促進しているという面もある。例えば、文字を読めない人に本や新聞を売ることはできない。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
高齢化の社会の陰陽
そして私たちはみな老いるし、今は元気でもいずれ身体は老化し、「2人に1人はガンで死ぬ」、そんな生き物です。
最近の流れはデジタル情報に大量に触れ過ぎることで、デジタルな人間目線ばかりが強化され、立体的な接触を通して「長い時間の間隔で変化していく人間存在」というアナログな人間目線が少ないなぁと思います。
老人は「未来の自分」でもあり、子供や若者は「過去の自分」でもあるんです。あたかも自分はずっと「若者側」で相手はずっと「老人側」のようなデジタルな区分けで溝を作って、歩み寄る姿勢が双方にないんですね。
今は元気が良く、心身の疲れや衰えも知らず、大きな病気・苦労も経験したこともなく、みなが自分(心身健常な大人)と同等の時間・感覚・ペー スで動くべきと思い込んで、それだけしか見ないような人は、
子供の自由さ・動きの不規則さにも我慢できないし、老人の鈍さにもイラつくだけなんです。そして「子供は大人を否定し、若い大人は年配の大人を否定し、年配の大人は若者を否定する」、そんな一方通行だけの姿も多々見受けられます。
それぞれの立ち位置で「自分の都合や状況はシッカリ見てほしい、深く理解してほしい」なのに「自分は人の都合や状況を理解しないし見ようともしてない」
そして相手の心身の状態を知らないのは仕方なくても、全く気遣いもしないタイプの人は、時として思いやりの欠片もない冷酷さを見せますね。
小さな子供なんて騒いで当然、動き回って当然、それが自然な姿です。ですが大人の都合・状況の方に無理やり合わさせようとする、そして、「合わさない方」を一方的に否定するわけです。
老人に若者と同等の敏捷性や頭の回転を期待しても、老人は動きが遅くてそれが自然、それでいいんです。
私は周囲で赤の他人の子供たちがギャーギャー騒いで動き回っていても気になりません。何か悪いこと危険なことをしていれば別ですが、単に元気よく遊んで いるだけなら、ちっとも気にならないんですね。
むしろ子供たちや小中学生の元気な声は生気が強くパワーあるし、空間が明るくなって楽しい気分になり嬉しいくらいなんです。
ですがデジタル化したスピード競争社会で上手く生き、適応するのは、残念ながら「邪魔・無駄と感じたものに労力や時間を使わずさっさと切り捨てていくタイプ」の方が割合としては多い傾向性でしょう。
「自分とペースが合わない、生理的に合わない」というだけで、他者が「ただ居ること、ただ在ること」さえ否定しているわけです。
もちろんみながそういう人ばかりじゃないわけですが、そういう人が結構いるのもまた事実で、使い捨ての消耗品社会の一面も実際にあります。そしてその中で生きている人にとってはそれが現実なのですね。
老いてみすぼらしければゴミ、目障り、さっさと消えろ、人の存在など、そんなモノ程度の感覚、社会にはそういう眼差しが存在します。
金や物質や情報だけあっても、そのような眼差しの延長には、人間という「生き物」にとって生きやすい社会など存在しない、ということですね。